0人が本棚に入れています
本棚に追加
平安の貴族、藤原資廉は大変な愛猫家であった。
雄の黒猫に小さな烏帽子を被せ、駒と名付けて暇さえあれば抱いて愛でる。
それが鬱陶しかったのであろうか、ある日駒は屋敷から出て行った。
当時猫は繋いで飼う動物であり、まだ数の少ない外来の稀少なペットである。
資廉は嘆き悲しみ、駒の綱を解いて戯れていた幼い娘に、罰として三日の間四つん這いになって猫の真似をし続けよと命じた。
さて、駒は別にそのまま帰らぬつもりだった訳ではない。
ひと時の自由を楽しんだら、またたらふく食える我が家へ戻るつもりであった。
が、初めての外である。
広い。道に迷った。
本能に従って野鼠を狩りながら、何処とも分からず何日も歩き続ける。
そうして遠く離れた貧しい集落へと辿り着いた。
血の臭いがする。
晴れた午後の空気は淀み、不穏な陰気を孕む。
集落は凶悪な五人の野武士によって襲撃され、酸鼻の只中にあった。
既に抵抗した数人の若者が切り捨てられて地に転がっている。
集落の真ん中の広場では選ばれた幾人かの若い娘が裸に剥かれて泣き叫んでいた。
他の住人達は為す術もなく、自分の小屋に篭ってじっと息を潜めるばかり。
数では勝るが武器を持った屈強の悪党共には敵わない。
娘らを救おうと抗ったところで、殺された若者達と同じ運命が待っているだけなのは目に見えていた。
もう出来ることといえば、せいぜい神に祈ることくらいしかない。
瞑目して口の中で呟く。
神様、お願い致します。どうか、どうか助けて下さいまし・・・・・・。
野武士達はご機嫌だ。
地面に胡座をかいて奪い取った貴重な食糧を食い散らかし、酒を浴びるように呑みながら侍らせた娘を弄り下品に高笑い。
存分に楽しんだ後は娘達を何処に売ろうか、次に襲う集落は何処にしようか等と話し合っている。
そうだ、この後は余興に里人共を走らせ、狩りをして遊ぼうか。誰が一番首を取れるか競争だ。
そう言ってまた笑う。
宴は真っ盛り。
そこに聞き慣れない獣の鳴き声が聞こえてきた。
みゃーお。
駒に人間達の状況など分からない。
ただ、久し振りに見る人の姿に心浮き立ち、いそいそと側に寄って行ったのだ。
喉を鳴らしながら声を掛ける。
みゃーお。
何か美味しいものおくれ。そう鳴いた。
振り向いた野武士達は身を強張らせた。
何だ、この獣は!
野に生きる下層の彼等は猫など未だ見たことがない。
その姿、物腰。
犬ではない。狸でもない。
狐でも穴熊でも鼬でもない。
悪党共は相対する駒をよくよく観察した。
陽光に照らされる漆黒の毛色。
不気味に小振りな丸い顔。
嘲笑うように開かれた口から覗く鋭利な牙。
大きな目は顔の前面に付き、鼻は低く、馴染みの獣に比べ人の子に似ているように感じる。
そういえば赤子の如き声で鳴いた。
恐ろしげに吊り上がる金色の目の中には妖しい縦長の狐のような瞳。
そして尾は細く長く、毒蛇のように鎌首もたげてうねっている。
柔らかくしなやかに身体をくねらせ歩く様は貴族の女のように妖艶。
しかも烏帽子を被っているではないか。
獣ではない、化け物か。
身は小さいが油断はできない。
一陣の風が吹き抜け、砂塵が舞い上がる。
「お頭っ! こいつの中からゴロゴロと雷のような音が聞こえるっ!」
野武士の一人が叫んだ。
「妖魔だっ! もののけだっ! 血の臭いに惹かれて来やがった! 畜生、殺せいっ!!」
咆哮にも似たお頭の号令。
立ち上がった悪党共が一斉に刀を引き抜く。
駒は突然の殺気に驚き、後ろに飛び退いて毛を逆立てた。
「うわあっ! 膨らんだぞ!」
「見ろっ! 鈎爪が伸びてきた!」
シャーッ!
威嚇する駒。
「口が裂けたっ!」
「うわあああっ!!」
パニックになった悪党共は駒を取り囲み闇雲に切り掛かっていった。
駒もパニックになった。
電光石火の速さで切っ先を躱し、悪党の一人に飛び掛かる。
バリバリバリッ!
鋭い爪で顔を掻きむしられ、その鯰髭の男は悲鳴を上げた。
「ぎゃああああっ!」
鯰髭の胸元に張り付いた駒目掛けて別の男が刀を振り下ろす。
その刹那、駒は跳ぶ。
刀は顔を血塗れにされて前のめりになった鯰髭を袈裟懸けに斬ってしまった。
噴水のように血を飛ばし、よろめき倒れる鯰髭。
「何やってやがんだっ!」
お頭が怒鳴る。
「ああ・・・もののけに誑かされたんだよう」
斬った男は情けない声で弁明した。
妖術か!
恐怖に混乱した悪党共は、逃げ回る駒に向かってめくら滅法に刀を振った。
必死の駒は囲みから飛び出す事も叶わず疾風の速さで地を蹴り、誰かの胸に飛びつき、また別の誰かの肩に飛び移る。
俊敏な三次元の動きに翻弄され、悪党共の刀は空を切るばかり。更に駒は地上に降りると高速フェイントを駆使して四人の足元を撹乱する。
脛を掠めていった駒に一人が足を取られ、仲間の刃の軌道の先へよろりと身を投げ出した。ズンとその首に刃は食い込む。斬った方が悲鳴を上げた。
数が減っても悪党共は諦めない。輩の仇を討たねばと目を怒らせる。
流石に駒もそろそろ疲れてきた。
その時だ、遥か頭上でゴロゴロゴロと雷の音。
晴天の空に鳴る日雷だ。
悪党の一人が僅かにたなびく雲を見上げ、裏返った金切り声で叫ぶ。
「お頭ぁ! こいつ雷獣の子だっ! 親が降りて来るっ!!」
「なぁ、何だとっ! こんな小っこい奴だけでも手こずってるのに」
「は、早くこの野郎を始末して逃げなきゃっ!」
酔っている上に極限の恐慌状態に陥った残る三人。
そもそも所詮は大した腕前も持たぬ粗暴なだけの野武士だ。
錯乱して雄叫びを上げながら互いに近距離で刀をぶん回し、ぐさりざくりと次々に同士討ち。
遂に全員が虚しく血溜まりに身を横たえる結果となった。
わあっと喜びの大喚声と共に一斉に小屋から駆け出てくる集落の住人達。
事の成り行きを固唾を呑んで見守っていたのだ。
その数と勢いに駒は仰天し、泡食って一目散に逃げ去った。
集まった集落民達はその後ろ姿に手を合わせ、深々と頭を下げて見送る。
「じい様、あれは一体何だったんだい・・・?」
裸の娘らに衣を被せながら、集落の長が長老の背に聞いた。
振り向いた長老の眼に浮かぶは涙。
「決まっておろうよ」
天を仰ぎ、長老は答えた。
つ、と涙が零れる。
「神様が遣わして下さった御眷属様に違いない」
その後、資廉が八方に放った捜索の者に駒は行き逢い、屋敷に連れ戻された。
資廉の喜びようは一方ならず、無事帰ってきた駒を見るなり飛び上がって踊り出すほど。
その愛情は更に更に深まり留まる所を知らず、人々は彼を猫侍従と揶揄して笑った。
最初のコメントを投稿しよう!