どちら様

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 とある地方に『どちら様』という神を祀る神社がある。  どちら様は他には見られぬ特異な民俗神であり、その信仰の形態はかなり独特なものだ。元々は全国にある路傍の神、道の神の一種であったろうと思われるのだが、詳細は分からない。  残された記録に見えるどちら様の初期の様相は、道行く人を導く神といった風であった。信心すれば道に迷わぬとされたのだ。  土地勘のない地で三叉路など行く手が分かれた場所に出て、どちらの道を選べば良いのか迷うことがある。この時、どちら様の信心者は考えずとも必ず正しい道を選ぶという。  時代が下るに連れ、どちら様の御利益の対象は拡大していった。  道だけではない、人の命運にまで作用するようになったのだ。  人生の岐路といったものがある。  仕事や結婚相手など、選び方によってその後の人生が大きく違ってくるという分岐点。  どちら様を信仰する者はその選択を誤ることがない。  二者択一の選択において迷った時には、必ず正しい方へと導いて貰えるのだ。だから、ピンときた方を躊躇(ためら)いなく選べばよい。  ところでどちら様には一つ、大きな禁忌(タブー)があった。  神社の境内で賽子(さいころ)を振ってはいけないというものだ。  これをしてしまうと、その者はもはや生涯決して正しい選択を出来なくなると伝えられてきた。  何故賽子がどちら様の神にそうも嫌われるのかは不明だ。賽子を振って出た目を神意として選択の指針にする事が昔はよくあり、それがどちら様への信仰のあり方と対立するからかも知れない。  偶然に出る目を神の意志とする事への嫌悪とでも言おうか。    明治の頃か。  どちら様の信仰を旧態依然の蒙昧と嘲笑う者があった。  その男は迷信を証明して悪習を絶つと言い放ち、境内で賽子を振った。  これで何も起こらなければ、人々も己の浅はかさに気付くであろう、と。  ところがさて、それからの男の運命たるや酷いものであったのだ。  まさに(ことごと)く選択を誤る。  代々続く大きな店を持っていたのだが、信ずるべき人を信じず腹黒い輩を信じて店を取られた。  嫁は気の良い幼馴染みを置いて勝ち気な美人を選び、やがてその妻は金を抱えて間男と駆け落ちした。  また残った土地を売って作った金で新しい商売を始めようとするも、二つ勧められた内の先のない方を選んで失敗する。  荒んで手を出した博打も負け続け、奴の逆張りをすれば必ず勝てると評判を呼び、終いに賭場への出入りを禁止される始末。  その他小さな選択も全て裏目に出て忽ち困窮し、見る影もなくなった。  こう書くと余程悪い男のようだが決してそうではない。  父親を亡くした後、若い内から我武者羅(がむしゃら)に働き店を繁盛させた母孝行な息子であった。  その母親が死を待つ大病を患った。  医者は手術で助かる見込みが五分と五分と言った。  つまり半分は手術で死ぬかも知れぬと言うのだ。  手術をせずに薬で痛みを和らげながら残りの生を穏やかに全うさせる選択もある。  男は悩み苦しんだ。どうすれば良いのか。  この頃にはもう、どちら様の力は本物と信じざるを得なくなっていた。  では、自分がこうしようと思った逆を選べばうまい具合に行くのか。  出来れば金を借りてでも、助かるのを信じて手術を受けさせたい。  しかし、それなら逆に手術をしない方が正しい道ということか。  果たしてそのように単純な事だろうか。  手術をしない選択をした途端、手術をする方が正しい道になってしまうのかも知れない。そうしたら手術をしなかったせいで母は呆気なく逝ってしまうのではないか。  選択を他人に任せるのはどうだ。  だが、その他人に任せるという選択自体が間違っていたら・・・。  祭祀の日、身を浄めた男はどちら様の本殿の前に平伏し、泣いて赦しを乞うた。今後得る財産全ての寄進を誓い、信仰の布教に身を捧げ常に畏れ敬って生きると約束した。  お願い致します。神様、どうかお許しを。どうか、どうか、どうか・・・・・・。  男は祭祀が終わるまでずっと平伏を続け、(おもて)を上げることはなかった。  そしてその後、憑き物が落ちたような顔で母の手術を決めた。  ある人は言った。  どちら様へ謝罪するというあの選択は正しかったのか、と。  母親の手術の結果は伝わっていない。
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