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そのまま運転席のドアを開け乗り込んだ郁人君は焦った様子も見せず、ごく自然にエンジンをかけて車を発進させた。
車内には十年ほど前に流行った音楽が流れ、珈琲の香りが充満している。
……その様子になんだか頭がひどく痛んだ。
「今日は夕方から雷雨なんだって。ほら、あっちの空はもう曇ってきているね?」
こちらを振り向くことも無く、独り言のようにそう話す郁人君。この後の天気が雷雨なんて、この状態でいったいどうすればいいのだろう。
「ねえ杏凛ちゃん、喉乾いてない? 確かオレンジジュース好きだったよね」
スッと伸ばされた手、持っているのはファーストフード店のドリンクカップ。ズキズキと痛む頭の中に、一瞬だけ同じ光景が浮かんだ。
「あの日……同じようにオレンジジュースを渡されて、私はそれを飲んだ?」
そう、そして気付いた時にはまったく別の場所にいて。ゆっくりだったが私の頭の中にあの日の記憶が戻っていくのを感じた。
「ああ、思い出してくれた? 杏凛ちゃんはあの日の事を忘れるんだもん、悲しかったよ」
薄く笑う郁人君の声は本当に嬉しそうで、私の身体の芯までゾッとさせる。記憶をなくした私を責めるように話す郁人君は、私の記憶に残っている彼とは別人のようだった。
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