笑顔、忘れんなよ

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「うるさいクソ。どうでもいい。消えろブタ野郎」  両手を耳に当てながら(リン)が無表情に悪態をついた。指の隙間からはみ出る水色の髪が冷酷さを助長させているように思えた。 「ブタ野郎とは失礼だな」 「あ、えっと……山川」 「誰だそれは」 「お前の、」 「お前とはなんだ!」  俺は言葉を遮り、足を大きく広げて立ち上がる。椅子が引きずられて、誰もいない教室に乱暴な音が響いた。 「クソとかブタ野郎とか童貞とかビッチとかなら百歩譲っていいが、お前だけは許さん!」 「じゃあ童貞」  髪から両手を離すともしゃっと量が増したように見える。  6月。梅雨はいつまで続くのか、今日も雨が降っていた。うす暗い中でもはっきりと見ていて、鋭い眼光が怖い。俺は視線を受けながら、窓側だからか冷気を感じつつも、椅子に座りなおした。 「鈴って呼ばないで、すずって呼んで。わたしが嫌いな人は全員すずって呼んでいるから。じゃないと童貞のことお前って呼ぶから」 「じゃあスズ。聞きたいことがある」 「さっきみたいな質問したら蹴るから」 「どうしたら仲良くなれる?」 仲良し。仲のよいこと。また、その間柄の人。 「童貞となんか仲良くなりたくない」  俺だってスズと仲良くなりたくはない。 「いや俺じゃなくて恵茉(えま)」 「……あのブリッコ尻軽ビッチも同じ」 「その呼び方はひどいな」 「愛嬌がある」 愛嬌。接すると好感を催させる柔らかな様子。見て(聞いて)笑いを覚えさせる感じ。 「うーん、悪口にしか思えないな」 「……そうね。でも」  スズは身体ごと窓に向け、細い人差し指を押し当てていた。 「悪口を言われる奴なんて所詮その程度。程度が低い。その程度」  窓に『その程度』と書いているのだ。何度も何度も、指紋の跡ではっきりくっきりと『その程度』と癖字が可視化できるくらいまでに書き込まれていた。 「どうでもいいけど」  人差し指が急ブレーキをかけ、唸った。まるで汚れを拭い去るように指を離し、そのまま俺に指す。 「わたしに押し付けないで」  ほんのり指先が黒かった。表情を変えずに人差し指ひっこめると、親指とこすり合わせながら、まるで消しゴムのカスをこねるようにしている。そして眉をひそめながらじっと見ていた。 「……帰る」  急にスズは立ち上がり、机横にかけられていた鞄を手に取った。 「それ、綺麗だな」  俺はスズの鞄についていたキーホルダーを指さした。ガラスの中にスズの髪色と同じ花が入っている。 「それなんて花だ?」 「……勿忘草」 「好きなのか?」 「……別に」  そうは言いながらも、口元は微かに緩んでいるように見えた。普段が無表情すぎて怖いが、今は目元が優しい感じがする。それもすぐに背を向けられて見えなくなったから確かめようもないが。  雨が校舎を強く打ち付ける中、スズの書いた『その程度』をかたどるように周りが白んできていた。
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