君の指 1

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君の指 1

 仕事中に見せる開けっ広げな笑顔とは違う微笑み。  少し低く、掠れた声で呼ぶ名前。  些細な動きも見逃すまいとひとつひとつの仕草を目で追う、その表情。  もうばれちゃってますよね、と呟いた声。  水の入ったグラスを持ち上げる、長い指。  高校の二者面談か就職の面接を受けているような気分だった。桑島は目の前のコーヒーカップを穴の開くほど見つめていた。まるで、そこに集中さえしていれば目の前に座る後輩が消えてなくなると信じているように。  しかし、いくら目を凝らしても白いシンプルなカップに穴は開かないし、いつになく真剣な顔の薮内も席を立ったりはしなかった。  深夜営業が売りのそのカフェは、八時を過ぎたばかりの時間もそれなりに混みあっている。洞窟のようにデザインされた暗い廊下、黒を基調にしたモダンな店内には若者の姿ばかりが目立つ。今時珍しく店内の半分以上が喫煙席だ。桑島の周りにも、彼らの吐き出した煙が霧のようにたゆたっていた。  間接照明のみの薄暗いこの店を選んだ薮内の気持ちは何となく分かった。隅々まで容赦なく照らす真っ白な蛍光灯の下で話したくないのは、多分お互い同じだろう。  桑島はわけもなく息苦しい呼吸を何とかしようと、ネクタイの結び目を軽く引っ張った。カップに注いだままだった視線を少し上げたら薮内と目が合って、慌てて逸らす。まったく、どうして自分がびくつかなければならないのか。腹立たしいといえば腹立たしい。 「桑島さん」  業を煮やしたのか、薮内が低い声で名前を呼ぶ。桑島は仕方なく目を上げた。疲れたように強張った薮内の顔は、弱い照明に照らされてどこかひどく老けて見えた。  薮内が自分に特別な感情を持っているのではないかと思ったのは、先月末のことだ。残業続きの桑島を車で迎えにきた薮内が、耳元で何度も呼んだ名前。それがただの呼びかけだったと思うほど桑島も鈍くはないし、朴念仁でもないと思う。  ただ、それを受け入れるかどうかとなると話はまるで変わってくる。薮内のことは好きだし、かわいい後輩だということは否定しない。だが、同性である彼に恋愛感情を抱けるかどうかとなると、無理だ、と言うのが真っ先に浮かぶ答えだった。  それでも、すぐに、はっきりとそう言ってやれない自分の狡さに目の前が暗くなる。ここで薮内を突っぱねて今まで可愛がってきた後輩を失いたくないと思うのは、多分自分の我儘だろう。 「──うん、そうだな、ばれちゃってるかな」  恐らく既に十分近く前に薮内が発した言葉に、やっと返した。薮内も何が、とは訊かない。僅かに息を吐いた音が聞こえ、桑島は手元に目をやった。 「……ですよね。あれで気付かなかったら、ちょっとやばいくらい鈍いですよね」 「さすがに、俺もそこまで終わっちゃってないよ。いくら彼女に女心が分かってないとか言って捨てられた過去があるって言っても」  桑島の呟きに、薮内が笑った。表情は依然としてさえないが、その笑いはいつものものとそう変わらなく見える。桑島はどこかほっとする自分に呆れながら、言葉を探して視線を彷徨わせた。 「や、まあ──俺が勘違いしてるってことも可能性としてはさ」 「桑島さんが、好きです」  淡い期待は見事に裏切られ、薮内は平静な顔で桑島の目を見ながらはっきり言った。お先に失礼します、というときとさして変わらない口調だったせいか、一瞬意味を図りかねる。頭が聴覚に追いついたらついたで、馬鹿みたいに口を開け、薮内を凝視してしまった。 「なんて顔してるんですか」  笑われて、やっと開けっ放しの口を閉じる。頭の中でぐるぐると回っているのは言葉なのか感情なのか。何でもいいから何か言わなければと思うのに、言葉はひとつも出てこなかった。想像するのと、実際口に出されるのとでは衝撃度がまったく違う。 「だからどうしてほしいなんてこと、言いませんけどね。俺もそこまで図々しくないし」 「薮内、すきって、好き? だってさ──」 「いいですよ、もう気にしないでくださいよ。ばれちゃったならちゃんと言っておいた方がお互いのためにいいかなと思っただけですから。これからだって毎日顔合わせるんですし、迷惑かけませんって」  薮内は突然立ち上がると伝票を掴み、桑島を見下ろした。 「もう帰りましょう、桑島さん。つきあわせてすいません」  外は風が冷たく、行き交う人も足早だった。ただ、平日のせいか人の数はそう多くない。家路につくサラリーマンは誰もが足元を見つめ、黙々と先を急いでいた。  それぞれ部屋の方向は違うが、電車に乗る駅は同じだ。薮内との間には気まずい沈黙が横たわったままだったが、桑島にはそれを破る勇気が湧いてこなかった。黙っていれば、答えや言い訳や──とにかく色々なことに背を向けていられたから。 「来週の木曜」 「──え?」 「来週の木曜、合コンに誘われてたんですよ。返事してなかったんですけど」 「へえ、何、社内?」 「いや、社外です。総務の一ノ瀬が大学時代の友達集めるとかって」 「ああ、同期だっけ、あいつ」  薮内の声には動揺も強張りも感じられなかった。桑島は横目で薮内の顔を窺ったが、ほんの少しだけ高いところにある引き締まった横顔は、会社で見るのと何ひとつ変わらないように見えた。 「……いいね、俺くらいになるとそんなのもうないよ。行けばいいんじゃない、張り切って」 「ひどいなあ。俺、さっき桑島さんにコクハクしたばっかりっすよ」  台詞と裏腹ににこやかな薮内の顔を見ていると、先ほどまでのことがすべて冗談だったかと思えてきて、桑島は思わず微笑んだ。 「何言ってるんだよ。大体、お前本気だったの?」 「本気も本気でしたって」  桑島は薮内のコートの腕を小突いた。 「本当かよ? それにしちゃさっきから全然緊張もしてないしさ。男の俺を好きとか、軽く言えるのはさすが薮──」 「軽く言ったように、見えますか」  薮内が突然立ち止まった。後ろから歩いてきた白いコートの女の子が急に立ち止まった薮内にぶつかりそうになり、驚いた表情で追い越していく。 「え?」 「あのね、桑島さん」  薮内が低い声で言った。普段どおりの顔をしていながら顔色が僅かに青ざめているのは、何も寒いからではあるまい。桑島は息を詰めて薮内の顔を見つめた。 「俺が、何の疑問も持たずに、俺は桑島さんが好きだ! って思ったと思うんですか? 俺が悩みもしなかったって? 昨日今日思いついたことだとでも? ふざけるなよ」 「薮内──」  薮内の顔色はすっかり白くなっていた。何かを無理矢理抑えつけたような、それでも荒げることはない声に、肌が粟立つ。 「そんなわけないじゃないですか。俺だって普通の男ですよ。そんなこと考える自分がおぞましくないとでも思いますか? 勘違いだ、疲れてるんだ、気のせいだって、毎日自分に言い聞かせて。あんたの笑う顔見るたびに涙が出そうになるのも、何かの間違いだって──」  決して大きい声を出しているわけではない。しかし、早口で吐き出す薮内に、いつもの余裕は微塵も感じられなかった。手が伸ばされ、指が桑島の腕を掠めた。躊躇ったように引かれた指先は、桑島に触れることなく拳になって薮内の身体の脇に垂らされる。 「薮内……」  何を言っていいのかわからなかった。冷えた空気の中、薮内の指が掠めた腕の辺りから、体温が失われていく気がする。薮内の目尻がうっすらと濡れていた。 ──何故、泣く。  浮かんだ疑問を口に出したら本当に終わりな気がして、固まってしまったように立ち竦む。 「なんで、あんたなんだろう」  薮内の声は、しわがれていた。薄く涙を浮かべながら、表情を失った薮内はもう一度呟いた。 「どうして」  薮内が背を向けた後も、桑島は馬鹿のようにそこに突っ立っていた。そして突然思い出した。あのチェーンスモーカーが、カフェにいる間、ただの一度も煙草に手を伸ばさなかった。  多分、緊張と──恐怖?  桑島は、救いようがないくらい馬鹿な自分を心から呪った。  翌日から、薮内は徹底的に桑島を無視した。別に口をきかないわけではない。いつもどおり、下らないことをよく喋り、よく笑った。  ただ、その目が愛しそうに細められることがないだけで。低く、掠れたような声で名前を呼ぶことがないだけで。  桑島を見てはいても、以前のような目で一挙手一投足を見守ってはいない。そうされている時には分からなかったが、こうなってみるとその違いは歴然だった。  一年半の間──どの辺りで薮内が自分にそんな感情を抱くことになったかは分からないけれど──ぬくぬくとくるまっていた羽毛布団のような薮内の存在は、その日を境にどこかに消えた。  薮内は、すべてふっきってしまって楽になったと、そう見えた。  
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