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君のなまえ 1
薮内に好きだと言われて数ヶ月経つ。躊躇いがちに伸ばされた指を許容したのは自分自身に相違ないが、だからといってそれ以前と何が変わったわけでもない。
変わらないのか、変えられないだけか。自分の内心さえ分からないまま、ただ穏やかに日々は過ぎる。
薮内が女性を伴って歩いているのを目撃しても、だから正直怒りどころかショックもなかった。ただ、結構可愛い子だなと淡々と思っただけだ。
桑島はファッションビルのガラスの向こう、何やら揉めているらしい薮内と女性を凝視して突っ立っていた。後にそれは薮内の妹だと分かったが、そんな漫画めいたオチはともかく、ただ何も感じない自分の胸のうちに疑問を覚え、足が動かなくなったのだ。
会社の後輩である薮内が同性である自分に恋愛感情を抱いていると知ってから随分経った。半ば受け入れ半ば困惑したまま、結局自分はこの数ヶ月どこで足踏みしていたのかと、桑島は内心酷く動揺した。
「何だ、声かけてくれればよかったじゃないですか」
社食の日替わり定食をかき込みながら、薮内は残念そうな声を上げた。毎日会社で顔を合わせているのに、休日に見かけたとうっかり口にしたら怒ったような顔で睨まれた。チーズササミカツとかいうものにかぶりつきながら、薮内は低い声でぶつくさ言っている。
「ちょっと呼んでくれればいいのに、まったくもう」
「女の子と一緒だったから」
桑島がごく平静にそう返すと、薮内は動きを止めて桑島を見た。唇にカツの衣のかけらがついている。
「……妹」
「ん?」
「妹の葉月です」
「ああ、そうなんだ」
薮内は眇めた目でこちらを睨むように見ていたが、不意に桑島の顔から目を逸らした。どうしていいか分からなくて自分の五目焼きそばに入った薄っぺらいイカの切れ端を箸の先で軽くつついてみる。薮内はイカを攻撃する桑島の箸の動きを怖い顔をして眺めていたが、結局何も言わずに自分の定食のトレイに目を落とした。
「薮内」
「はい」
「──口に、カツのパン粉ついてる」
何を言っていいか迷って目についたことを口に出す。薮内は何か言いたそうな表情をしたものの、結局何も言わなかった。尖った視線で睨むように桑島を見つめながら、薮内は舌を出して唇についたパン粉を舐め取った。
「……」
ゆっくりと唇の上を舌が滑る。仕事の上でも見せたことのない険しい目つきで桑島を睨んだまま。その穏やかでない雰囲気に、桑島の腕の肌が粟立った。幸いワイシャツの袖の下で起こった変化で、薮内に見られることはなかったけれど。
鳥肌は不快なときに立つことが多いけれど、決してぞっとしたというわけではない。だが、だったら何なのか。突き詰めたくなくて、桑島はまたしても考えることを放棄した。
薮内との関係はあれからも特に変わっていなかった。
大体、自分の気持ちが未だに分からないと桑島は思う。薮内が同性である自分を好きだということは、納得したわけではないが受け入れられた。薮内を切り捨てられない自分を自覚したのも間違いないし、時間が欲しいと思ったのも事実だ。だが、変わったことといえば、休日はたまに二人で出かけるようになったくらい。
薮内の態度にも特に目立った変化はない。時折思い出したように髪に触れたりするものの、他人が見たら埃でも取っているように見えるだろうし、触られている立場からしてもそれは大して変わらない。その穏やかな時間に安穏としていたのは、確かに自分の怠惰であったのかも知れなかった。
「──お前ら、ほんと仲いいよな」
誰かの呟きで、桑島は我に返った。気がつけば、いつの間にか人事の畠山が桑島を見下ろしていた。目の前にいたはずの薮内は既に席を立って食器返却口にトレイを返しているところだ。薮内は肩越しに振り返ってこちらを確認し、桑島の横に立つ畠山を見つけると、軽く頭を下げて自動ドアから出て行った。
「薮内と? そうかな。後輩だから」
桑島がそう返すと、畠山はふうん、と気のない返事を寄越した。食べ終えたのだろう、手には空の丼と味噌汁椀が載ったトレイを持ったままだ。
「桑島、お前、午後外出あんの」
「いや、伝票片付けようと思ってたから入れてない。客から呼び出しなければ社内だけど、何で?」
「ちょっとサボんねえ? コーヒー飲みに行かねえか」
「一時間くらいならいいけど……」
畠山はじゃあ行こうと勝手に決めると、トレイを持って歩き出した。畠山とは同期の気安さもあるし、嫌いではない。素っ気ないが気持ちのいい男、と言うのが大方の見方で、桑島もそれを否定する材料を持っていなかった。
とはいえ、二人で飯を食ったりお茶を飲んだりするほど仲がいいわけではなかったはずだ。桑島は首を傾げながらも立ち上がり、先を行く畠山の後を追った。
「薮内の妹?」
桑島は紙コップに入ったカフェラテをテーブルに置きながら、そう訊き返した。
畠山の口から出た言葉が意外だったからで、先ほど話題に出てきた薮内の妹と目の前の同期がまるで結びつかなかったからでもある。
「何でお前が薮内の妹知ってんの?」
「俺の妹が同じ学校だったんだと。俺もこの間まで知らなかった」
「それより、お前妹いたんだ」
「うん」
畠山は彫りの深い顔を僅かにしかめてコーヒーを啜っている。仕事上はあまり接点がないし、桑島の同期は同期同士でつるまない。たまに話すといっても通り一遍のことだけだから、畠山について知っていることは多くなかった。
「何かで俺が薮内と同じ会社にいるって知ったらしくて、久し振りにうちの妹に連絡取ってきたんだってさ」
「へえ?」
それが自分と何の関係があるのか、桑島にはよく分からない。
「──桑島、お前な」
「何だよ」
畠山は一度口を開いてそれを閉じ、またコーヒーを啜って、紙コップをテーブルに置いた。骨ばった大きな両手を所在無げに擦り合わせ、意を決したように目を上げる。
「お前らさ、何か、そういうことになってんの?」
「……はぁ?」
思わず裏返ったでかい声が出て、桑島は慌てて口を覆った。
「……」
「……」
──そういうことって一体何だ?
不思議そうな顔でもして、訳が分からないと言った様子で、そうやって答えるべきだった。
そう後悔しても遅かった。実際「そういうこと」になっていようがいまいが、詳しく説明されずとも何を言われているかはっきり分かったその時点で、桑島の負けだった。
「……結論から言えば、なってない」
暫しの気まずい沈黙の後、そう絞り出した桑島に向かって畠山は大きく息をつき、そうか、と気が抜けたように呟いた。
薮内の妹は、兄の会社の先輩の桑島さんってどんな人、紹介して欲しいからお兄さんに訊いてみて、と言ってきただけらしかった。桑島を紹介して欲しい理由はひどく曖昧だったが、畠山の妹は合コンでもしたいのかと勝手に納得したらしい。それなら兄も混ぜてやってくれと軽く受け、畠山に連絡してきた。
「別に詮索するつもりじゃなかったんだけどな」
畠山はワイシャツの袖を捲り上げ、頭の後ろで手を組んで背中を椅子に凭せ掛けた。背の高い畠山がそうすると、必要以上に長細く見える。
「合コンなんて急ぐ話でもねえし、お前に何て言おうかなあ、と思ってるうちに月末月初で忙しくなって言いそびれて。一応タイミング合ったらと思って気にしてはいたんだ」
内勤の畠山と営業の桑島はお互いのスケジュールによっては一日どころか何日も顔を合わせないこともある。それで畠山は仕事の合間につい桑島を見ていたと言い、近くには誰もいないのに声を潜めた。
「いつも薮内が近くにいるだろ? そりゃまあ、当たり前なんだけど」
「……俺だけの近くにいるわけじゃないだろ。同じ部署だから」
「うん、それはそうだけどな。ただ、何であいつの妹はお前と仲がいい自分の兄貴じゃなくて、全然知らない俺に頼むんだろうって思うだろ、冷静に考えればさ。で、まあ観察してたら……そうなのかなって」
「──人事はこれだから」
桑島が唸ると、畠山は苦笑して組んでいた手を解き、テーブルに戻して指で軽く天板を叩いた。
「薮内がお前を見る目つきとか、扱いとか見てたら何となく。俺、学生ん時そういうやつが友達に一人いたからさ。そいつはまあ、所謂オネエキャラみたいになっちまったから、ちょいジャンル違うんだけど」
「……俺も薮内も、そういう趣味はないよ」
桑島はそう言ったが、我ながら勢いに欠ける声だと哀しくなった。蚊の泣くような小さな声はコーヒーの水面すら波立たせそうもなく、嘘でもないのに言った端から後悔した。
「っていうか、お前の友達をどうこう言いたいわけじゃないし──」
「ああ、別にお前らのどっちかがオネエだとか女装してるんじゃねえかとか言ってるわけじゃないし、そうだとしたって気にしねえよ」
「……うん」
「でさ、お前らがどうかなっちゃったとしても俺には関係ないから別にいいんだし」
畠山はそう言って困ったように笑うと、桑島を見て眉を寄せた。
「薮内の妹に何て言うかな。それより薮内に言ったほうがいいか?」
桑島は半分以上残るコーヒーのカップを指先で弄りながら考えた。長く水気を入れたままの紙コップは、僅かながら紙がふやけて柔らかくなり始めている。どうしてプラスチックカップにしないんだろう。指先で押したら抵抗もなくへこむ。窪んだ表面を見て、この手触りは好きじゃないと、頭の片隅でぼんやり思った。
「……いや、薮内には言わないでくれ」
「いいのか?」
「──紹介してやるって、妹さんに言ってくれよ」
桑島は畠山を見て笑みを浮かべた。自分でも、さぞかし頼りない表情に見えるだろうなと思いながら。
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