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君のなまえ 4
「桑島さん、俺に嘘ついたでしょう?」
薮内の声が頭から降ってきて、桑島は思わず手の中の袋を机の上に取り落とした。広げたままの企画書の上に粉が落ち、溜息をつきながら払い落とす。ゴミ箱に屈んで顔を隠しながら、桑島は「何のことだ?」と小さく返した。
「何って、ちゃんと昼飯食うって言ったじゃないですか。なんすか、カロリーメイトなんか食ってちゃ益々痩せますよ」
「薮内は桑島の母さんみたいだなあ」
こっそり安堵の息を吐いた桑島の左から、同僚の笑い声が薮内に向けられた。
「だってね、加藤さん。放っといたらこの人全然食わないんです。集中したらすごいんですから、普段ぼんやりしてるくせに」
「オマエな、ぼんやりとか、先輩に向かって」
「いえ、言わせてもらいます。集中するあまり赤信号で何回も死にかけてるでしょう、桑島さんは」
桑島の反論をばっさり切り捨てて食べかけのカロリーメイトを横目で眺めた薮内は、首を振り振りコピー機の方へ歩いて行った。
「ほんと、いつの間にかお前すっかり世話焼かれてるなあ」
「加藤さん、止めてくださいよ。あの馬鹿また調子に乗るから」
「いいじゃないか、乗せとけ乗せとけ」
くだらない会話を交わしながら、桑島は胸の中で冷や汗を拭う。盗み見た薮内は、こちらに背を向けコピーをとるのに没頭していた。
桑島が葉月と会った翌日、薮内は予定どおり帰社したが、桑島はプレゼンで留守だった。結局その後もすれ違い、会話らしい会話をしたのは今日になってからだ。今朝も薮内は普段どおりで──もっとも薮内は意外にポーカーフェイスだから本当のところは分からないが──特に変わったところは見えなかった。
週末一緒に過ごしたときのことを気にしてはいるだろうが、それはそれ。葉月とは話していないらしい。どちらか一方だけでも面倒な話なのに、二つ重なっては余計にややこしいことになる。
葉月は桑島と会ったことを薮内に話すとも話さないとも言わなかった。自分の内心さえ掴みかねる桑島には彼女が本当のところ何を思ったかは分からなかったし、どうするつもりかも知らなかった。
「お先に失礼します」
立ち上がりながら壁の時計を見たら、いつの間にか定時を一時間以上過ぎていた。繁忙期でもないのに今日の社内は人が多い。同じ島からお疲れさん、と同僚たちの声がぱらぱらと聞こえてくる。
机の上のビジネスバッグを掴むと、薮内がぼんやりとこちらに目を向けた。突き抜けてどこか別のところを見ているようなうつろな顔で、お疲れ様ですとぼそぼそ呟く。若い薮内だって人間だ。出張から帰ってすぐだし、疲れることくらいあるだろう。エレベーターホールに向かい、机に背を向け歩きながら、桑島はそんなことを考えていた。
蹲る黒い影に、確かに見覚えがあると思った。
車体の長いRV車がひっそりと停まっている。いつからいるのか、エンジンは既に冷えているようだった。大きな鉄の塊は、暗い路地でただじっと何かを待っている動物の姿にも見えた。
「……何してんだ」
ひとりの部屋に戻るのが何となく嫌で、友人に電話して軽く飯を食い、ビールを二杯飲んできた。それだけのことでもある程度の時間はかかっている。冬場ではないから外で待つのも別に苦痛ではないかも知れないが──そう思いながら、車の影に寄り添うように立つ男に目を向けた。
携帯に連絡ひとつ入れれば済むというのに。まったく馬鹿なやつだと思う。
「何のことです?」
薮内のどこか崩れた皮肉な笑みに、昼間の会話を思い出した。やはりこいつは、見た目そのままの素直でさわやかな後輩ではない。
「──顔が見たくて」
薮内は、車の脇から動かないでそう言った。
「それと、声が聞きたくて」
「……いつも会社で会ってるだろ」
「そうですね」
薮内の右手には、コーヒーか何かの紙のカップが握られていた。薮内はカップに口をつけた後絵に描いたようににっこり笑い、桑島の方へ一歩近づいた。それだけで周囲の気温が上がったように錯覚する。
「桑島さん」
無理矢理押し付けられた紙コップを仕方なく受け取った。ふやけた紙のぶよぶよした感触が指に伝わり手元を注視する。特別嫌なわけではなくとも、生理的に受けつけない感触は誰にでもあるだろう。
突然俯いた顎を掬われ仰け反るほど上向かされて、桑島は思わず息を飲んだ。
「好きです」
しわがれた薮内の声に、手の中のカップを強く握り締める。桑島の手の甲に薮内の掌が重ねられた。皮膚の感触、それから体温。生ぬるくなったコーヒーとは違うあたたかさ。
「好き」
間近に寄せられた──しかし触れる寸前の距離で止まった唇から、何度も桑島の名前が零れ落ちる。その度指に籠る力に、カップが耐えきれずにぐにゃりと歪んだ。
「桑島さん」
「おい、ここ外……」
「桑島さん、すきです」
「薮──」
「桑島さんの全部が、好きです」
あんたという人間が全部。
囁いた薮内の低い声に、桑島の喉がこくりと小さく音を立てる。薮内は不意に身を引き、余所行きの笑顔で微笑んだ。
「ちょっと話していってもいいですか?」
疑問符はついていたが、それはお願いでも確認でもなかったはずだ。桑島は目を伏せて薮内から一歩距離を取り、薮内が期待するとおりの答えを呟いた。
半ば強引に上がり込んだくせに、薮内は部屋の入り口に突っ立ったまま座ろうとしなかった。車を取りに戻った時に着替えたのだろう。私服の薮内は会社で見るより若く、態度は変わらないのにやっぱりどこかが違って見える。
「座ったらどうだ?」
ネクタイを解きながら声をかけても薮内は座ろうとせず、桑島は仕方なく自分も立ったまま薮内と向き合った。
「フザイで」
「え?」
何のことか分からず間抜けな返事をしてしまったが、一瞬後に「不在」のことか、と合点がいった。薮内は白い半袖シャツから伸びた長い腕を苛々と組みかえた。
「葉月からの不在着信がすげえあって。昨日の夜中にあいつと話しました」
「ああ……」
「桑島さん、俺と別れるって言ったんですね?」
「薮内、あのな」
「ざけんな、馬鹿野郎!!」
薮内の怒声が響き、蹴飛ばされたテーブルががたん、と大きな音を立てて斜めにずれた。桑島は話しかけた状態のまま、口を開けて薮内の顔を見た。薮内は青ざめ強張った顔をして、同じ場所に木偶のように立っている。
「何で俺に言わないんです!? 無理なら無理って、やっぱり駄目だって、どうして俺に直接言わないんだよ、桑島さん」
微かに震える指先と色を失った唇が、いやにはっきり目に入った。突然のことに靄がかかったようにはっきりしない視界の中、そこだけが精密画のよう細部まで目に入る。
「あんたがそう望むなら、俺はあんたの手を離す」
薮内の目尻がうっすら赤くなり、気のせいか濡れて見えた。桑島はその目を見たまま薮内に問いかけた。
「俺が……好きでも?」
「好きなら死んでも離さないとか、そんなの──」
薮内は、険しい顔をしたまま低い声で語を継いだ。歯の間から低い声が押し出される。
「桑島さんが望むようにしてあげます。何でも……俺にできることなら、何だって。だから、ちゃんと言って」
距離を詰めた薮内の動きはスローモーションのように見えた。実際はどうなのか、麻痺したように回らない桑島の頭では認識できない。近づいた薮内の目尻はやはり薄く濡れていて、睫毛が黒く光っていた。
「消えろってんなら、あんたの前から消える。だから、お願いだから」
薮内の指先は氷のように冷たかった。なぞられた桑島の唇が、冷たさに自然と薄く開いていく。薮内の唇は間近にあって、しかし桑島に触れようとしないまま、囁きと吐息だけが熱を持ってそこに触れた。
「桑島さんの口から──桑島さんの言葉で言って」
「お前……」
「──はい」
桑島の小さな声に、薮内は微かに肩を震わせた。桑島は大きな息を吐きながら、至近距離の薮内の顔を思い切り乱暴に押しやった。
「この馬鹿!」
「はい?」
「葉月さんからどういう話聞いたんだ? 俺がお前と別れたいって言ったって、はっきりそう聞いたのか?」
「え? いや、だって……」
「大方ろくに聞かないで勝手に思い込んだんだろう、この早とちりが。それでどれだけ仕事で痛い目見たかもう忘れたのか」
桑島の台詞の意味がつかめないのか、目を瞠った薮内は、瞬きすら忘れたようだった。
「薮内」
名前を口にしながら、耳の先まで血が巡るのが自分でもよく分かった。毛細血管の先までも、血液が勢いよく流れていく。まったく、これだから後輩なんかに甘やかされることになる。
「葉月さんはお前が諦めるように、俺からちゃんと話をしてくれって頼んできたんだ。でも、俺がお前を諦められない」
薮内が突然やり方を思い出したというふうに何度も目を瞬いた。僅かに残る涙のあとは既に乾き始めている。
「え──? え?」
「葉月さんには誠心誠意謝ったつもりだよ。謝って済むことじゃないし、言い訳もできないし、色んな人に迷惑かける。おまけに、お前が好きかどうか俺には未だによくわからない」
「桑島さん……」
「だけど、お前に甘やかされるのが好きだ」
引き寄せられ、薮内の手がうなじに回った。押しつけられた薮内の身体から、いつもの煙草の匂いがする。いがらっぽいその匂いに、鼻の奥が痺れたように熱くなった。
「──抱かれるのも、思ったより悪くなかった」
薮内の背中に回した掌に、心臓の音が伝わってくる。薮内は喉の奥で詰まったようなおかしな笑い声を立てた。その声が微かに震えていた気がするのは、多分桑島の気のせいだろう。
内腿と下腹に触れる薮内の髪の先。素足で実家の犬の毛を触ると気持ちがいいが、その感触とどこか似ている。
広げさせられた脚の間に蹲る薮内の頭に手を伸ばし、押し退けようと髪を掴む。薮内の手が桑島のそれを押さえつけ、結果頭を引き寄せたような格好になった。俺は引き寄せたいんじゃなくて押しやりたいんだ、馬鹿野郎──と心の中では抗議をしたが、桑島の唇からはおよそ日本語らしき言葉は一つも出てこなかった。
見上げる薮内の目の色に、視線を逸らそうとしたが叶わなかった。見つめられたまま嬲られて、強烈すぎる感覚に目の前に光が白く明滅する。半ば自棄になって手の中の髪を強く握り締めると、薮内は「いて」、と小さく声を上げた。
薮内が名前を呼ぶのが遠くで聞こえる。本当に遠いのか、それとも遠く聞こえるだけで耳元の囁きなのか、確かなことは分からない。
女の子がそう要求するように、苗字ではない、下の名前を呼んで欲しいとは思わなかった。そんなことには意味がない。大体、桑島だって薮内の名前を咄嗟に思い出せたためしがない。それでも触れる指に、呼ぶ声に、肌の匂いに、こみ上げる何かは決して偽りではないのだから。
「……い」
「え?」
絞り出した言葉に、薮内が耳を澄ます。
「俺も大概、鈍いって……」
「何がですか?」
教えてやる気は起きなかった。これ以上後輩をつけ上がらせては、仕事に支障があるかもしれない。
「べつに」
「桑島さん」
「いいんだよ、大したことじゃ」
「何がいいんだか」
「だから──ぁ、おい、薮内……あ」
「……桑島さん」
桑島の名前を呼ぶ薮内の声。
そう、長い間気がつかなかったのだ。
そんなふうに愛しげに名前を呼ぶのはお前だけだ。そんなふうにお前が呼ぶ名前は、自分以外の誰かの名前であって欲しくないのだと。
「桑島さん」
思わず低く喘いだ桑島の鼻先で、薮内が口を開く。
「桑島さん、呼んで」
何度も突かれ、背を反らせる桑島の髪を撫でながら、薮内は繰り返し辛抱強く囁いた。
「俺のなまえ、呼んで……」
「本当に申し訳ありません」
テーブルに両手をつき、頭を下げる桑島に葉月は表情のない目を向けた。桑島が拭った後、それ以上涙は頬を伝わらなかった。
葉月のなかにどんな感情が渦巻いているかは分からない。分からないが、決して穏やかではないそれを抑えた葉月に、桑島は心のなかで深く感謝した。
「僕もこんなことは間違っていると思います。本当は、葉月さんが言うとおり、諦めさせた方がいいんでしょう」
「できないんですか」
掠れた、震える声で葉月がゆっくり囁いた。僅かな時間躊躇して、それでも桑島は自分の意思で首を縦に振った。
きっと後悔することもあるのだろう。それでも、薮内を拒むという選択肢は今の自分のなかには僅かも存在しないものなのだ。
「できません。お兄さんを……彼が、そばにいないなんて、そんなことは」
桑島の喉が詰まって声が嗄れた。指先が細かく震える。もう葉月の顔は見られなかった。
「間違っていてもいいって、多分人生で初めて思います。誰に迷惑をかけるって分かってても、きっと僕は彼を諦められない。好きなのかどうか、それはまだ分からないけど」
グラスの中で氷が鳴る。桑島の中で何かが割れ、溢れたものは目尻にうっすら滲み出した。
「責任は僕が取ります。お兄さんに何かを背負わせたりは絶対にしない」
葉月は強張った顔で唇を引き結び長い間黙っていた。
どれくらい経ったのか、立ち上がった葉月の顔は涙に濡れ、それでも、微かに笑みを浮かべていた。
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