五. 愛し人

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   ***  祈祷の込められた灯籠を受け取り、母の名を書いた。  底の部分には針金で灯油をしみこませた綿が吊るしてあり、そこへ火をつけてもらう。あたたかく軽さを増してふわりと浮かんだ灯籠を、容蝶はそっと空へ放った。  灯篭祭りは朱雀(すざく)の小正月における風物詩の一つで、死者の魂を弔うためにおこなわれる。  城内には運河しか流れておらず、侵入者を阻む目的で城外とは鉄柵で区切られているため、灯籠を流すことができない。だから空に飛ばすのだ。  これが城外だと灯籠流しになる。  城外で店を営んでいた容蝶も、去年までは灯篭を川に流していた。朱雀京の城外では、高地である北から低地である南へと二つの川が都の左右を囲むようにして流れていて、市井の人々はそこへ灯籠を放つ。  その時には、城内からたちのぼって夜空を彩ってゆく無数の光と、暗い川面を流れてゆく夥しい光とが同時に視界に入る。そこの世のものとは思えないほど美しく、息を呑むほど荘厳な光景だった。 (浄土で癒された両親の魂が、生まれ変わってまたこの世に戻ってきますように。その時には、もっと良い世の中でありますように…)  美しい光景を目に焼き付けながら容蝶はひたむきに祈った。  一方で高の言いつけに背いて邸の外へ出ている後ろめたさと、今もどこからか自分の命が狙われているのではないかというそこはかとない恐怖に、うすら寒さを感じていた。  皇城から朱雀大路を下った城内は多くの人出で賑わっている。  灯篭祭りが終わると、城門が開かれて城外の者が多く入り込み、店頭での呼び込みや行商人の声もかしましい。中には馬を引いたり、数羽のガチョウを引き連れている者もいる。この人混みの中からすっと刃物が差し出されるか、矢が放たれるのではないかと、容蝶はびくびくしていた。  そろそろ花火が打ちあがる時刻だった。  都の東、左京を走る運河沿いには、小正月につきものの湯円(タンユェン)を配る露店が並んでいて、甘い匂いが一帯に立ち込めている。そこも多くの人だかりだった。  才華と共に皿を受け取り、路に出された卓子に着いた。貴族の娘として籠の鳥で育てられた才華にとって、小正月のこういった非日常の喧騒は大人になってもわくわくするものだと、楽しそうに容蝶へと打ち明ける。  それどころではない不安からちらちらとあたりを窺う容蝶に、才華は宥めるように耳打ちした。 「すぐそばで夫と配下の兵たちが見守っているんだもの、そんなに心配しなくても大丈夫よ。あなたに怪我を負わせるようなことは、けしてさせないから」 「ええ…」  確かに、自分たちのすぐそばには護衛の男が四人ついている。他にも隠れて十数人の兵が見守っているという。それでも恐怖はなくならなかったが、彼らを信用するしかない。こうすると決めたのは容蝶自身なのだ。  さきほど、容蝶の部屋で才華が教えてくれた現実は驚愕に値する内容だった。  才華の夫である(しゃく)に、「小正月の夜、囮として黄容蝶を灯籠祭りに引き出せ」と命じたのは、来暁国の丞相である()という男らしい。  自分の名が国政の中心人物である丞相にまで知れていることに、容蝶は畏れおののいた。  釋は朱雀京警備隊の総司令官で、一軍を配備すれば容蝶の身は守れるとの確信を持ち、その話を引き受けた。   話はそれで終わらなかった。  容蝶を囮に使う計画は元々、皇帝が高に打診したものだという。だが容蝶を囮に差し出したくない高は、頑として首を縦に振らなかったというのだ。  皇帝は諦め、高は自力で賊を捉えようと日々奔走している。だが色よい進捗はない。見かねた丞相の廈が、容蝶を囮にして賊を捕縛するよう、高に内緒で釋に命じたのだった。  確かに正月からこの半月間、高は休みなく働いている。帰りも遅く、なかなか顔を会わせることができない。  高が恋しくて、顔が見たいと思って容蝶が早朝に高の部屋を覗いても、高の部屋はしんとしているばかりだ。  高を恋しく思う、そんな自分を哀れに思う。 (分を知れ…)  湯円の皿を膝に置いて、道行く人の足元をぼんやりと目に映しながら、容蝶は皇城での出来事を脳裡に思い興した。  呪禁博士に会いに行った日、ベータになる術をかけられた容蝶は、ほんのわずかな時間だったが「容月」になった。  竜秦ほどの強烈な術ではなかったが、濃い白煙に包まれて身体が変化してゆくのが自分でも分かった。その時、容蝶は不意に、容月となった自分を見たときに高の眸に宿るはずの恋の色を、見てみたいと思いついた。  自分が一度も目にしたことのない、高の恋の色。それが見えるはずだった。  だが、容月を見つめた高のまなざしに恋の色はなかった。  かけらもなかった。  どうして…という悲しい思いと、やっぱり、という納得の気持ちが半々だった。  もう高は容月すら愛していない。それがはっきりと分かった。  ならば、自分が捨てられる日――むしろ飽きられる日――は、想像しているよりも近いのかもしれない。  忙しそうな高が容蝶に会い来なくなったのもあのあたりからだ。 (もう俺のことなんて好きじゃないって、高殿は気付いたのかもしれない…)  そう落胆しつつ、この数日を過ごしてきた。  それでも高に会いたくて、姿を一目見たくて、気持ちが騒ぐ。こちらを圧するほどの存在をもう一度全身で確かめたかった。  高の声を鼓膜に感じて、発されるあの香りに触れたくて。  そんな、どうしても抑えきれない感情をどう高に伝えればいいのかは分からない。そもそも伝えるべきではないのかもしれないとも思う。  ただ、こうして才華の話を聞いてみると、ここのところ本当に高は仕事で忙しかったのだ。しかもそれは容蝶の安全を守るためで、皇帝の意見に背いてまでしたことだというのだから、驚いた。  ならばせめて自分が役立つことで、賊の一人でも捕まるのなら、休みなく身体を酷使している高に恩返しができるだろう。少しでも高の厚意に報いたい、そんな気持ちから、今回の囮役を引き受けたつもりだった。  だが。 「こんなところで、何をしている」  甘くおいしい湯円を食べ終えた頃、背後から低い声がした。  それがずっと心待ちにしていた声だと気付いた容蝶は、はっとして立ちあがって振り向いた。  険しい顔をした高が鋭い視線で容蝶を見おろしている。背後に五人ほどの兵士を引き連れており、巡回の途中に容蝶を見つけたというふうだった。
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