四. 自分ではない自分

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 窓に目を向けた。  窓枠に嵌められた格子の伝統模様の隙間から空の青さを望むことができる。秀英の思考はそのまま容蝶へと流れた。  容蝶への恋心を否定された旅亭での夜、激情のまま彼を抱きしめた後で、準備の出来ていない身体を無理やり奪いかけたことを秀英はずっと悔いていた。  あれは容蝶にとっては必死の告白だったのだ。  己にとっての武器である特殊能力を伝えたのだから、かなりの勇気が要ったことだろう。だからあの時の自分のあの反応は可哀想だったかもしれないが、かといってすんなりと納得できるものでもなかった。  文武両道に長け、己の感覚を疑ったことなどない秀英だった。現にそれで数えきれぬ功績も収めてきた。惹かれた相手を自分が好きか好きでないかなど、児戯にも劣る判断をできないわけがない。それでつい、かっとなった。  容蝶の涙でようやく我に返り、その身を離したのだが、失態にもほどがあったと今でも思う。恐い思いをさせたに違いない。すぐに「すまない」と謝り、部屋に帰した。  容蝶は秀英の眸に恋の色はないと言いきる。  秀英が恋をしているのは、己ではなく「容月」だと。  もしかしたら、容月でもないのかもしれない…などと、悲しそうな顔で今朝は告げてきた。もう、苛立ちを通り越して呆れるしかなかった。  他人の眸の色から感情を察するオメガが稀にいることは、秀英も知っていた。もっとも職業柄、秀英がこれまでに相手してきたのは、その能力を悪用して詐欺を働いたり盗みをしたりする犯罪人ばかりであった。  むろん容蝶は違う。  あの透明なまなざしに見つめられると心がざわめきたって、調子が狂う。  努力もせず得てきた理路整然とした思考に、甘い恋心が揺さぶりをかけてきて感情が正常でいられなくなる。もの切ないこの胸の内が、なぜ容蝶に伝わらないのか、不思議でならない。  逆に、不器用にすら見えるまっすぐな彼の眸から、彼の心が垣間見えるような時もある。無垢で美しく、おそらくは薄氷のように繊細で傷つきやすい。放っておけるはずがなかった。 「待たせたな」  則碑の声に、秀英は反射的に腰を折った。  則碑が誇博士を伴って入ってきたことは目の端にとらえていた。誇は昨日と同じ深衣を纏い、則碑は略式ではあるが皇帝の正装であった。 「ご無沙汰しております。陛下におかれましてはご機嫌麗しく、本日はお目通りかない、恐悦至極に存じます」  則碑は屈託ない調子で喉を鳴らした。 「あらたまった口上は要らぬぞ。お前が言うと嫌味にしか聞こえんのはなぜかな。途中で誇に会ったのでな、伴ってきた」  姿勢を戻した秀英は、視線を誇へと移して挨拶した。 「昨日は世話になった、誇殿」 「ああ。彼の体調に変わりはないか」 「はい」  やり取りを見ていた則碑が、またも笑う。見れば悪戯めいた目つきになっている。 「西教へなど飛ばして、帰ってくるお前にどんな嫌味を言われるのかと、毎日びくびくしていたのだぞ。だがたいそうな美形を連れて帰って来たというではないか。しかも、子までなして……。愛妻を伴って帰ってきたのだ、朱雀に戻ってすぐに出仕してこなかったことにも、不平は漏らすまい。まあ、何にしろ良かったな。西教に赴かせてやった私に、一回くらい礼を言っても損はなかろう? 私のおかげで想い人に再会できたのだからな」  笑みを深めてからかう。  秀英と容蝶については書簡で前もって詳しく知らせておいたので、事情をすっかり呑み込んでのことだった。  これまで則碑に嫌味など言った覚えはなく、びくびく云々は則碑の冗談だと捉え、秀英はさらりと言い返した。 「感謝いたします、陛下。しかしまだ妻ではありません。私の片惚れですので」  則碑が声をたてて笑う。 「気の毒に。いつかゆっくり惚気(のろけ)を聞かせてもらおう。楽しみにしている。だが、まあしかしだ、高」  則碑がにわかに声の調子を落とす。
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