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怒っているのは分かったが、何日も見たかった顔が思いがけず目の前に現れて、胸が熱くなるのを容蝶は抑えられない。
「高殿…」
ふと出た声も切なくなってしまった。
「どういうことだ、姉上。なぜ容蝶がここにいる」
憤怒のまなざしは才華にも向けられた。容蝶に続いて才華も立ちあがっていた。
「そう、怒らないでよ、秀英。大丈夫、夫と兵たちが近くで見ているから。心配しなくていいわ」
「そんなことを訊いているのではない。なぜ容蝶を邸から連れ出したのかを訊ねているのだ。容蝶が身を狙われているのは、あなたも知っているだろう」
「驚かせてすまない、秀英。きみには知らせるなと、廈殿の命令だったのだ。きみが不要に心配するからとのご配慮だった」
見知らぬ武人が突然、才華の背後に立った。見るからに真面目そうなアルファで、おそらく彼が才華の夫の釋なのだろう。
丞相である廈から持ち出された計画を、釋は手短かに高に伝えた。説明を聞きながら高の表情はさらに厳しさを増す。
「廈殿がどうしてそこまで詳しく知っているのだ。皇帝との間で囮の話が出た時には、彼はその場にいなかったのだぞ」
「詳細が書かれた匿名の手紙が届いたそうなのよ」
才華が釋の代わりに返事をした。高が皮肉めいた微笑を口元に浮かべる。だが目は笑っていなかった。
「匿名の手紙なぞを廈殿は真に受けたのか? 警備をつけるから、すぐに邸に戻れ、容蝶」
威圧的な声だった。怯むことなく才華が噛みつく。
「待ってよ。これは廈様からの直々の命令なのよ? それに、剏覇の賊を捕まえられるいい機会だわ。――まったく、あなたらしくないわね、秀英。自分をなんだと思っているの。あなたは代々将軍をしている高家の人間でしょう。身内から囮を出すのは嫌だなどといって、皇帝陛下の発案に逆らうなどあってはならないわ。私たち貴族は来暁のためにいるのよ。国家のためにどんな危険も恐れてはならないことくらい、分からないあなたではないでしょう」
容蝶は居たたまれずに唇を噛み、視線を地面へと落とした。
自分のせいで高の立場が悪くなっている。そんなのはたまらなかった。
「囮については皇帝陛下と適任者を選定しているところだ。丞相や、ましてやあなたが首を突っ込む問題ではない」
「なんですって…?」
高の素っ気ない返事に、才華が柳眉をひそめて声を尖らせた、その時だった。
高が、はっとした顔をする。
「容蝶…!」
切羽詰まった叫びと共に抱きしめられた。
こんなに人通りの多い中で、いったい、何を、と、容蝶が慌てたのも束の間。
なにかが鋭く飛んでくる気配に続いて、ざくりという音が容蝶の耳に届く。小さな悲鳴とざわめきがあたりに広がった。
「弓を貸せ…!」
容蝶の身体を離した高が唸った。
隣にいた兵から弓を素早く受け取ると、高は振り返って構える。
それらは刹那のうちに起こった。
容蝶たちは荷馬車三台分ほどの幅がある運河沿いにいた。その運河を挟んだ向こうの通りに、高はぎりぎりと矛先を定める。容蝶は引き寄せられるようにしてその方角へと視線を走らせた。
人混みの中で、弓を持った大柄な男が立っている。
高より少し年若く見える。桔梗色した長衣こそ町人風だが、肩にかかる灰白色の蓬髪を微風になびかせて不敵な笑みを溢しているさまは、尋常の者には見えなかった。
逃げようとしてだろう、男がひらりと身を翻した。高が矢を放った瞬間と同時だった。
矢は運河上の虚空を一直線に進み、男の肩を力強く射抜く。右腕の付け根からこぶし一つ分内側、おそらく致命傷にはならない場所だった。
のけぞった男がその場に頽れる。周囲から悲鳴が沸きたった。
「捕らえろ!」
釋の叫び声と共に兵が駆け出す。男は間違いなく捕まるに違いない。そう思った容蝶の目の前で、高ががくっと膝を落とした。
防具の隙間から高の肩に矢が刺さっているのに、容蝶は初めて気づいた。
抱かれたときに聞こえたのは高の肩が射抜かれた音だったのだ。そして高はこの状態で矢を撃ったことになる。
高の顎からぽたりぽたりと汗が滴り始める。自力で矢を引き抜くと多量の血が噴き出した。
「高殿?」
続けて血だらけになった防具を外す。どくどくと流血する傷口に手をあてて背中を丸める高に容蝶は思わず叫んだ。
自分で矢を引き抜くなど傷をさらに酷くするだけの行為なのに、どうして。
才華が思い当たった声を出した。
「毒ね? 矢に毒があったのね?」
「ああ…」
高が頷く。容蝶は愕然とした。
「これを!」
胸元から小さな瓶を取り出して、才華が高の口に含ませる。容蝶もしゃがみこんで二人を見守った。全身が震えて立っていられない。不安で心臓が凍りつきそうだ。
「才華殿、それは…」
たえだえの声で、容蝶はようやくのように訊いた。
「解毒剤。貴族の女はたいがい持ち歩いているの。女が女を殺すのには毒が一番よく使われるから。でも全部の毒に効くわけではないのよ」
才華の顔も真っ青だ。まさかこんな事態になるとは彼女も予期していなかったのだろう。
「典薬寮の薬師に高の邸へ来るよう伝えろ」
兵士の一人に釋が命じる。
「無法者は牢内で治療させろ。事情を吐かせるのだ、逃がしても殺してもならん!」
釋は部下に言い含め、ぐったりとした高をかかえて馬に乗せた。
それから容蝶と才華にも一緒に邸へ戻るよう声をかける。目には驚きと焦りが満ちている。彼にとってもこの成り行きは想定外だったのだ。
高は気を失ったようだった。血の気の退いた顔には生気がない。腕一つ、動かさなくなっていた。
あまりの衝撃に容蝶は思考がおぼつかない。呼吸さえうまくできない。
嘘であってくれ、ただの悪夢であってくれと、ひたすら念じることしかできなかった。
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