五. 愛し人

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  ***  治療と加持祈祷が終わり、呪禁師も医師も薬師も帰っていった。  容蝶と才華は高の寝台のそばに椅子を並べて座った。意気消沈した才華が容蝶の手を取って弱々しく口を開く。 「ごめんなさい…、容蝶。てっきり私たち、剏覇の賊の目的は、あなたをさらうことだとばかり思ってた。だから、あなたが捕まりそうになるところを兵士が取り押さえればいいと夫と考えていたのよ。まさか、直に命を狙ってくるなんて思ってもいなかったの」  背後で釋も肯定する。彼らの主張に嘘はなかった。  廈を始め、釋夫妻がそのように考えたのも無理はない。確かに容蝶は西教で剏覇の賊にさわられかけた。それをすんでのところで高に救い出されたのだ。  賊たちを背後で操っている馮が容蝶を殺したいほど憎んでいるなど、彼らは知りようもない。だからこそ容蝶を囮にしようなどと思いついたのだろう。  むしろ事の成り行きを知りながら自重しなかった自分が悪かった。危険だから邸の外に出るなという高の言うことをきかなかった自分のせいで、高をこんな目に遭わせてしまったのだ。悔やむに悔やみきれない。 「私たち、そろそろ帰るわ」 「ええ…」  釋夫妻が出てゆくと部屋には高と容蝶しかいなくなり、一人で高の様子を見守ることになった容蝶に空気が重くのしかかってくる。やるせなさに容蝶はうなだれた。中央の炉の火だけがぼうぼうと音をたてて部屋を暖めていた。  加持祈祷の際はここにいた武延もすでに自室に戻っている。表面上は冷静を保っていたが、内心では高が心配でならないようだった。肩を落とした後ろ姿もいつになく消沈していた。  高は眠り続けている。顔は蒼白で、胸元を注意深く凝視しないと息をしているのかいないのか分からない、浅くて少ない呼吸だった。  今夜が峠だと医師に言われている。才華の応急処置も含め、加持祈祷も行って、もはや手は尽くした感じだ。  毒殺が身近な貴族たちは毒に身体を慣らすのに余念がなく、高も慣れさせていたらしい。あとは高の生命力を信じるしかなかった。  だが高の蒼白な顔が状況の厳しいことを伝えてくる。容蝶はいたたまれずに上掛けの下へとそっと手を忍ばせた。  触れた高の手は石のように冷たくて、それだけで泣きたくなった。  広い甲をきゅっと包むと、高の指が微かに動いて容蝶の指を握り返そうとする。西教でさらわれかけた時、賊に暴行されてなお容蝶の手を握り返そうとしてきた高を容蝶は思い出し、胸の詰まる思いがする。  不意に、その口が薄く開く。 「容蝶――」  かそかな声だった。意識を取り戻したのだろうかと、容蝶は期待を持って身を乗り出した。 「俺はここです、高殿」  いったん静まってから、もう一度高が口を利く。 「恋の色は…」  小さく呟くひたむきな言葉に、容蝶の心臓が引き絞られたようになる。  「恋の色」などという奇怪な言葉を高に憶えさせたのは自分だ。自分に出会いさえしなければ、高はこんな言葉で悩まされずにすんだ。  うわごとだったのか、高はまた眠りに落ちた。病気に特有の暗澹とした影が頬に落ちる。  容蝶に負担を感じさせないように、わざとおどけた口調で、高は同じ科白を口にしたことがある。容蝶が呪禁師によって容月に変化させられた日の翌朝だった。  早朝のすがすがしい空気の中で庭を散策していた容蝶は、出勤前の高にたまたま出会った。その時も高は颯爽とした軍服姿だった。 「お仕事ですか」  ああ、と高はほほえみを返した。お気をつけて、と挨拶しながら容蝶は、 「軍服、似合ってます。軍に勤めるなんてすごいな――オメガの俺には、到底できないから」  抜けるような青空に気分まで晴れていて、ふとそんなことまで付け加えたのだった。高は軽く笑った。 「きみのほうこそ、類まれな才能を持っているではないか。いつか俺にも服を作ってくれ。楽しみにしている」 「はい」  是非そうしたいと頷いた。もし高に新しい恋人ができても、自分は作ってあげたいと思うだろう。そんな確信があった。  朝陽の中で高は輝いて見えた。容蝶の内心に感づいてか否か、しみじみと呟いた。 「きみと番になりたいという俺の気持ちは、少しも変わっていない。きみにぞっこんなのだ。俺の目の中に、恋の色はまだ見えないか?」  そう、おどけたのだ。 「申し訳ありません…」 「謝る必要はない。だが本当にきみが好きなのだ、容蝶」  そうも直球に言われては返答に詰まる。容蝶は喘ぎ喘ぎ答えた。 「俺――あなたが好きなのは、容月だとずっと思っていました。でも、たぶんあなたはもう、容月すら愛していない。ここを出てゆく心づもりはできています。だから、その気になったらいつでも出てゆけと言ってください、高殿」  高はぽかんとした顔をした。何を言われているのか、本当に分からないような、困惑しきった顔をしていた。 「本当にきみは…、どうしたらいいものかな」  珍しく降参した様子で首筋をさする。まるで鼻白んだようなそんな仕草を彼が見せるのも滅多になかった。
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