夕焼けの猫 ③

1/1
13人が本棚に入れています
本棚に追加
/122ページ

夕焼けの猫 ③

 少し驚く朋広。だが思いを切り替えて返してみる。 「ご両親? ご両親は確か……」 「ええ、オーストラリアです」そう言って、ジュリアはいつものように美しく微笑む。「父が、ちょっと怪我をしてしまいましてね」 「怪我?」 「はい。自転車で転んで、ちょっと、その、転び方が悪かったようで、脚と腕を骨折しちゃったんですって」 「あ~、そりゃ大変だ」 「母もいますし、わたしが行ったって特別何かができるわけでもないんですけどね。でも母は、会いに来てやってくれって。……去年は帰省しなかったので、この機会に行くのも良いかなって」 「いや、そりゃあ喜ばれますよ」 「ひと月くらい」ジュリアは髪を掻き揚げながら朋広の目を見る。「行ってこようかなって思ってるんです」 「ひと月ですか……」  朋広は目を逸らしながらそう言った。  ジュリアは朋広の横顔を見つめたまま付け足す。 「もしかしたら半年くらい帰って来ないかも」 「え?」朋広は再びジュリアと目を合わす。「半年も?」  ニッコリと微笑む瞳に吸い込まれそうになる。朋広は顔が熱くなるのを感じ、慌てて目を逸らした。 「寂しいですか?」ジュリアは訊いた。 「え?」  再度、ジュリアに目をやる朋広。今、彼女は何て言った? 「わたしがいなくなったら、先生は……寂しい?」  何と答えるべきなのだろう? そりゃあ寂しくないと言ったら嘘になる。  が、でも、しかし……。  ジュリアは小さく笑い、それから改まった様子で口を開く。 「先生……」言ってから、小さく首を左右に振る。そして言い直した。「朋広さん――」  朋広はジュリアを見つめたまま、丸ぶちメガネを右手の中指でゆっくりと押し上げた。その手が少し震えているのが自分でもわかった。  少しの間を置き、ジュリアは続けようとする。 「わたし、朋広さんのことが――」  そこまで言って彼女は下を向いてしまった。今日こそは思いを伝えようと意を決して会いに来たのに。  その言葉自体は難しくないのに。  音にするのはこんなに難しい。  顔を上げ、朋広に目線を合わせる。  メガネの奥の澄んだ目を見据える。  一瞬、強い風が二人の髪を乱暴に掻き上げた。  朋広を見つめるジュリア。  見つめ返す朋広。 「その……」口を開いたのは朋広だった。 「はい?」 「お、お父さん……早く良くなるといいですね」 「え?」 「え? あ、いやその……」朋広はガバッと立ち上がる。  何を言ってるんだ? 朋広は自分の口から出てきた台詞を呪った。ジュリアが何を言おうとしたのかを感じ取ることができたのに。  ジュリアは視線を逸らして海へ向けた。それをチラリと見る朋広である。悲し気な顔になっている。当然だ。 「あ、あの、えーと……」  どうする?  朋広、どうする? どうすればいい? 「ジュリアさん」  ジュリアはゆっくりと朋広を見上げた。少し目が潤んでいるかもしれない。  朋広は右手を彼女に差し伸べた。  しばしの沈黙――  彼女の膝に抱かれた雉トラ猫は、彼の差し出したその手に反応し、匂いをかごうと顔を近づける。  ジュリアは、手を伸ばす。  彼の手を掴んで立ち上がった。朋広はその手を握ったまま美しい瞳を見据え、短く息を吸い込んだ。 「待ってます」 「え?」 「ジュリアさんが、帰ってくるのを、僕は、その、待っています」  ジュリアはゆっくりと口角を上げる。  朋広は続ける。 「だから、その……」朋広は俯き、そして再びジュリアと目を合わせる。しっかりと。「早く、帰ってきてください」  ジュリアは美しい笑顔を見せた。細めた目からするりと水滴が一粒。そして頷く。 「はい」  ふたりで並び、同じ西の空に目をやる。  このまま夕焼けを待ってみようか。  朋広はそう思ってみるのだった。
/122ページ

最初のコメントを投稿しよう!