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夕焼けの猫 ③
少し驚く朋広。だが思いを切り替えて返してみる。
「ご両親? ご両親は確か……」
「ええ、オーストラリアです」そう言って、ジュリアはいつものように美しく微笑む。「父が、ちょっと怪我をしてしまいましてね」
「怪我?」
「はい。自転車で転んで、ちょっと、その、転び方が悪かったようで、脚と腕を骨折しちゃったんですって」
「あ~、そりゃ大変だ」
「母もいますし、わたしが行ったって特別何かができるわけでもないんですけどね。でも母は、会いに来てやってくれって。……去年は帰省しなかったので、この機会に行くのも良いかなって」
「いや、そりゃあ喜ばれますよ」
「ひと月くらい」ジュリアは髪を掻き揚げながら朋広の目を見る。「行ってこようかなって思ってるんです」
「ひと月ですか……」
朋広は目を逸らしながらそう言った。
ジュリアは朋広の横顔を見つめたまま付け足す。
「もしかしたら半年くらい帰って来ないかも」
「え?」朋広は再びジュリアと目を合わす。「半年も?」
ニッコリと微笑む瞳に吸い込まれそうになる。朋広は顔が熱くなるのを感じ、慌てて目を逸らした。
「寂しいですか?」ジュリアは訊いた。
「え?」
再度、ジュリアに目をやる朋広。今、彼女は何て言った?
「わたしがいなくなったら、先生は……寂しい?」
何と答えるべきなのだろう? そりゃあ寂しくないと言ったら嘘になる。
が、でも、しかし……。
ジュリアは小さく笑い、それから改まった様子で口を開く。
「先生……」言ってから、小さく首を左右に振る。そして言い直した。「朋広さん――」
朋広はジュリアを見つめたまま、丸ぶちメガネを右手の中指でゆっくりと押し上げた。その手が少し震えているのが自分でもわかった。
少しの間を置き、ジュリアは続けようとする。
「わたし、朋広さんのことが――」
そこまで言って彼女は下を向いてしまった。今日こそは思いを伝えようと意を決して会いに来たのに。
その言葉自体は難しくないのに。
音にするのはこんなに難しい。
顔を上げ、朋広に目線を合わせる。
メガネの奥の澄んだ目を見据える。
一瞬、強い風が二人の髪を乱暴に掻き上げた。
朋広を見つめるジュリア。
見つめ返す朋広。
「その……」口を開いたのは朋広だった。
「はい?」
「お、お父さん……早く良くなるといいですね」
「え?」
「え? あ、いやその……」朋広はガバッと立ち上がる。
何を言ってるんだ? 朋広は自分の口から出てきた台詞を呪った。ジュリアが何を言おうとしたのかを感じ取ることができたのに。
ジュリアは視線を逸らして海へ向けた。それをチラリと見る朋広である。悲し気な顔になっている。当然だ。
「あ、あの、えーと……」
どうする?
朋広、どうする? どうすればいい?
「ジュリアさん」
ジュリアはゆっくりと朋広を見上げた。少し目が潤んでいるかもしれない。
朋広は右手を彼女に差し伸べた。
しばしの沈黙――
彼女の膝に抱かれた雉トラ猫は、彼の差し出したその手に反応し、匂いをかごうと顔を近づける。
ジュリアは、手を伸ばす。
彼の手を掴んで立ち上がった。朋広はその手を握ったまま美しい瞳を見据え、短く息を吸い込んだ。
「待ってます」
「え?」
「ジュリアさんが、帰ってくるのを、僕は、その、待っています」
ジュリアはゆっくりと口角を上げる。
朋広は続ける。
「だから、その……」朋広は俯き、そして再びジュリアと目を合わせる。しっかりと。「早く、帰ってきてください」
ジュリアは美しい笑顔を見せた。細めた目からするりと水滴が一粒。そして頷く。
「はい」
ふたりで並び、同じ西の空に目をやる。
このまま夕焼けを待ってみようか。
朋広はそう思ってみるのだった。
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