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梅雨空の心
つくづく思う、どうして自分はこんなに不運なのだろうと。
ふいにため息がこぼれて、俯きがちだった雄史の視線が、アスファルトへと落ちる。ため息をつけば幸せが逃げると言うが、それならばもう一つも、残っていない気がした。
人生において幸と不幸の割合は半々である、と言う人がいる。不幸なことが起きたならば、その分だけ次に幸せが来るよと。しかしそれはきっと嘘である。
本当に半分だと言うのなら、もっとたくさんの幸せが、自分の元へやって来てもいいはずだ。
雄史が入社から務めていた総務の仕事から、三年目の春にいきなり営業へと転属させられたのは、二ヶ月と少し前の話。
大きな期待をかけられての異動だったが、なにもかもがうまくいかない。些細な失敗で契約を破棄されそうになったり、引き継ぎをしたらお前では駄目だと言われたり。
これまでのため息の数だけ、先輩営業のフォローを借りざるを得なかった。
以前の部署が、性に合っていたのかと問われれば、いささか首を傾げるところだが、ここまで落ち込むことはなかった。
今日も営業先の会社を出てから、ため息をついてばかりで、もう数えていられないほどだ。だが契約が取れなかったわけではなく、サインはしっかりともらってきている。
ならばなぜそんなに落ち込んでいるのか。
結果、それが見込み数を大きく下回ったからだ。たったそれだけのこと――きっと理由を聞けば、先輩たちは笑って肩を叩いてくれるに違いない。
だとしてもこれは今回だけの話ではない。配属以来なに一つ、結果が出せていない状況だった。
たった二ヶ月ほどで、なにを欲張っているのだと言い聞かせても、社内の花形部署であるそこに存在する自分が、惨めでならなかった。
元々雄史は器用ではない。要領もそれほど良くない。あるのは人の良さと持ち前の明るさのみだ。
けれど最近は失敗ばかりで、それも鳴りを潜めている。そもそも部署のマスコットでもないのだ、明るさだけでどうにかなるものではない。
なんとしてもいい結果を――自分を推してくれた上司、優しくしてくれる先輩方になんとかして報えたら、もう少し自分を褒めてあげられるのに――この望みはそう叶いそうもなく、雄史はまたため息をついてしまった。
「はあぁ、みんなすごいなぁ」
スマートフォンに視線を落とすと、部署のグループメッセージで、今日の報告が行われている。ほぼ全員、目標数を上回る成績で、雄史はそこへ報告するのをずっと躊躇っていた。
とはいえ時刻はそろそろ定時になる。
さすがにこのままではいられない。仕方なく、一言目に謝罪を送り、言い訳ばかりを連ねた今日の報告を済ませた。
「あ、……雨、か」
送信し終わった画面に、ぽつんと雫が落ちる。
次第にぽつぽつと数を増やすのにつられて、空を見上げれば、灰色の梅雨空が見えた。それはまるで、雄史の気持ちを移したかのようなどんよりさだ。
道を進むたびに雨脚が強くなるけれど、走り出す気力が湧いてこない。十分も歩けば、頭からつま先までびしょ濡れで、ふいに雨の冷たさに我に返って鞄を抱え込んだ。
「やばい、鞄の中まで濡れる」
ナイロン製のブリーフケースは、かなりシミが広がっている。視線を巡らして雨に濡れていない場所を探すと、急いでそこへ足を向けた。
「わぁ、ギリギリセーフ」
軒下に駆け込んで、腕の中にある鞄の中身を確かめる。パソコンに契約書類――若干、湿り気は帯びているものの、ケースやファイルに収まっていたおかげで、それは最悪の事態を免れた。これがどうにかなっていたら、上司から雷が落とされるところだ。
再び空を見上げれば降りが激しくなってきた。それでもこの場所は、二階部分がひさしのようになっていて、三十センチばかり地面が乾いている。より酷くなったとしても足元が濡れる程度だろう。
いまの雄史はズボンの裾が濡れても、まったく気にならないくらい濡れている。明るい茶色の髪からは雫が滴り、目の中に入らないように片手で前髪を掻き上げた。
夕刻で人通りが増え始めた商店街。通り過ぎていく人の流れをぼんやりと眺めて、しばらくするとすぐ傍で扉が開いた。
いままで注視していなかったため気づかなかったが、どうやらここは店の前だったようだ。
出てきたのは雄史より少し背の高い男性。白いシャツにデニム、ネイビーのエプロンをしている。彼はこちらに気づいていないのか、振り向くことなく店の看板に手を伸ばす。
木製の看板には『Cafeキンクドテイル』と書かれていた。
「あっ、……」
じっと男性を見つめていると、さすがに視線を感じたのだろう。彼は振り向き、雄史の顔をまじまじと見る。なんと言葉を発していいのかも、わからない状況。上擦った声を上げたきり、身体が固まってしまった。
そんな中でも男性は訝しむ様子も見せず、ただまっすぐに見つめてくる。頭の中で言葉を探して、挙動不審に視線をさ迷わせれば、彼はふっと笑みをこぼす。
それはどこかあどけないような、可愛らしいとも言える笑顔。一見した男性らしい凜々しい雰囲気とは違う、自然と緊張がほどけていきそうな笑みだ。
「ずぶ濡れだな。入りな。そのままだと風邪を引くぞ」
「えっと、あー、すみません」
扉を大きく開いて迎え入れてくれた彼に、促されるままに足を踏み入れる。すると店内に入った瞬間、ふんわりとコーヒーの香りが鼻先をかすめた。
鼻腔をくすぐったそれは、ほっと息をつかずにはいられないほど、優しい香りだった。
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