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自分の身体が自分の意志に反して死に向かってしまうかもしれないという恐怖。ぐっと足を踏みしめてその得体のしれない衝動を押さえつけなくてはいけないあの感覚を、みんなは知らないのか。駅のホームで、踏切で、あるいは家のベランダで、その衝動はふいとやってきてその度に私はくらくらとする頭を押さえてそっと安全なところへと避難するのだ。
今でも、あの時立ち上がって「私もその感覚を知っています」と言えたらよかったのに、と思うことがある。あの場で、自分しかそれを知らないのか、と考えた時の美崎君の孤独を、私は思う。
私が美崎君に声をかける勇気をようやく出せたのはそれから1週間も経った頃だったろうか。教室を出ようとする美崎君に「ちょっとコーヒー飲んで行かない?」と声をかけると、美崎君は当然であるかのように落ち着き払って「いいですよ」と答えたので、私たちは連れ立って近くのコーヒー屋さんに向かった。
美崎君は博識で、何事に関しても独特の考え方を持っていて、そして意外なことに雄弁だった。駅前のコーヒー店の喧騒の中、淡々とした丁寧語で文学や、この世の常識、受験から日々の食事についてまで語る美崎君を私はまたしみじみと眺めた。同年代の男の子たちと違って、彼は美醜で物事の価値を語ることをしなかったし、自分は常に人生のわき役というポジションを取りながら、とてもよく周りを観察していた。そういった色々が、私には心地よかった。
「恋愛と言うのは」と彼は語った。
「もちろん人生に彩りを添えてくれるとは思いますが、人生になくてはならないものだとは僕は思っていません。男女の関係と言うのは往々にして恋愛という側面からのみ語られることが多いようですが、僕は男女の間にも友情や、恋愛とは異なる連帯感と言うものが存在し得ると思っています」
私は心の底から嬉しくなった。美崎君と違って私はそういった事柄をうまく言葉に表すことは出来なかったけれど、日々感じていることを共有できる同志がようやく見つかった、と思った。
「そうしたら美崎君と私はいい友達になれるね」と言うと、美崎君は無表情に頷いて「そうなれればいいですね」と淡々と言った。
チェーンのコーヒー店に似つかわしくない優雅さで、彼は姿勢よく座って行儀よくコーヒーを飲んだ。
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