0人が本棚に入れています
本棚に追加
このあいだ、むすめに、
「京急のってるとき、なにかんがえてる」
ときいてみたら、
「なにもかんがえてないよ」
といった。そうなのか、とわたしは思った。おやというかおとなのとりこしぐろうか、京急にのると、いつも、すこしは神妙に見えると思っていた顔つきがそう見えるらしく、なかみはそれほどでもないということなのであろう。そとのけしき見てはなにかしらかのうつろいを感じていたり、車内のようすをうかがってはひとのけしきに思いをはせるなんてことは、おとなかわたしがしていることなのかもしれない。それにしてもむすめの多少思慮のある顔つきというものは気になる。特に京急にのるときのそれである。「なにもかんがえてないよ」とはいうものの、そんなふうに見えないのはおやであるからか、わたしであるからか、どうしたものであろうか、見えていないものを見ているわけでもないのであろう、京急にのったからといって、そんなものは見えるはずがないのであろうし、かりにこどもであるむすめに見えたとして、それなら、話してくれるであろう、もしや見えたとしてもそれは話してくれないのであろうか、むすめひとりのひみつ、おしえてはくれないものなのであろうか、でも、こどものときしか見えないものもあるのかもしれない。京急にのっていて、見えないものが見えているとしたら、むすめにとってはたのしいことであろうし、それもだれにもしられないひみつのできごとであるとしたら、かけがえなくうれしいのであろう、むすめはそんなふうな顔に見えている。
またあるとき、むすめに、
「京急のってるとき、見えるものあるの」
ときいたら、
「おしえないよ」
といわれた。「おしえないよ」ということはなにかを見ている、見えているのであろう。また「おしえないよ」ということは、ひっくりかえせば、おしえるものはあるのに、「おしえないよ」ということにもあてはまるのであろう。やはり、京急にのっているときの、むすめの顔はそういうような顔つきであって、そう見えているということである。
京急は顔つきがあるのか、神妙なのかはわからないけれども、見えていて、走っている。
「おしえないよ」でもいいけれど、なにが見えるのであろう。むすめの見しらぬ神妙な顔つきではあるけれど、なにかが見えているのであろう。
ほんとのことはわからないけれども、むすめはいいなと思う。なにか見えていて、いいなと思う。
京急は見えている。
最初のコメントを投稿しよう!