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参 お忍びの市
「…今日は良いお散歩日和ね」
青空を見て、小さく呟く寛子。
すると、遠くから誰かの足音が聞こえた。
「おはよう、寛子。良い天気だね、快晴だ」
「あぁ、龍晴。そうね、すごく…」
微笑んで頷く寛子。
「これ、父上に渡してって言われたから…はい」
と、寛子に小さな袋を手渡した。
きれいな布で作られたそれを、寛子は受け取る。
「これは?」
「伽羅ってやつ。香って、破邪の役目も担ってるんだってさ」
「へぇ…」
ふと風が吹くと、甘い香りが部屋に広がる。
「香自体は父上が、袋は母上が作った」
「母上、って?」
今まで話に出てこなかった人物に疑問を抱く。
「毬子って名前でね」
「あぁ……叔母様?」
「…あ、母上って道長様の娘なんだっけ…」
ってことは、その息子の俺と寛子は…。
「親戚なのか、俺たち」
「確かに、そうなるわね」
二人で目を合わせ、笑う。
「今日は市へ行くの。お忍びで」
「そうなの?俺、今日急な仕事が入って…外せないんだよ。俺は行けないや、ごめん」
「……分かったわ。従者と一緒に行ってくるね」
「伽羅、忘れずにね」
「えぇ」
寛子は頷く。
「じゃあ、俺もう急いで行かないといけないから…また明日ね」
「えぇ。頑張って」
「うん。寛子も楽しんでね」
手を振り、龍晴は部屋を後にした。
「ご準備は?」
「えぇ、もう万端よ」
「行きましょうか。牛車は…」
そう聞く従者に、寛子は首を振る。
「いいわ。歩いて行く」
「分かりました。お供します」
深く傘を被り、顔を隠す。
「顔、見える?」
「いえ、ほとんど。それなら大丈夫でしょう」
「……この着物も素敵ね。十二単は重くて、肩身が狭いから」
「身軽ですね、十二単と違って」
「えぇ」
いつもいつも十二単だから、体はもう慣れてしまったようだけれど。
「行きましょう、半蔵」
寛子と半蔵が出会ったのは、今から七年前。
寛子が六歳だった時、九歳のが遊び相手として雇われた。
それから、寛子は年上にも関わらず、半蔵を友達のように思っているのだ。
「今日は、あの陰陽師はいないのですね」
「…あぁ、龍晴のこと?今日は仕事が入ったと言って、来れなくなってしまったの」
「そうでしたか。夜、物の怪に襲われていた姫様を助けた…とか」
「えぇ。その時はあまり話せなかったのだけれど…すごく優しい人だと思ったわ。護符までくれたの」
「あぁ、だからあの日、火を起こすように言っていたのですか」
「そういうこと」
話しながら歩いていると、市に着いた。
「…何を買おうかしら」
「簪のような、髪飾りはどうでしょうか?」
「そうね、見に行ってみましょう」
「いらっしゃい。何がいいかな?」
「わぁ…可愛いものがたくさん」
一際目につく物を、一つ手に取る。
「これは、どういう風に使うのですか?」
「髪を、この二つに分けた間に挟むんだよ。お客さんは黒髪が綺麗だから、この桜色が映えると思うよ」
「…そう、ですか?ありがとうございます」
はにかんで笑う寛子。
「それなら、これを買います」
「はーい。値段はそこに書いてある通りだよ」
半蔵から手渡された銭を店主に渡す。
「じゃあ、一度良いかな?」
「あっ、はい」
髪飾りを店主に手渡すと、素早く包んでくれた。
「……お客さん綺麗だから、これも入れておくね」
「えっ、そんな…大丈夫ですよ」
「いいのいいの。はい、どうぞ」
強引に持たされる。
「ありがとうね。またおいで」
「……はい。またいつか、来ます」
寛子は微笑んで、店を立ち去った。
* * *
「色々と見ていたら、遅くなってしまったわね」
「えぇ。たくさん買えましたね」
微笑む半蔵。
「お持ちしましょうか?」
「……じゃあ、少しお願い」
上の方に積み上がっているものを、半分ほど持つ半蔵。
「そんなにたくさん持たなくても良いのよ?」
「いえ、遠慮なさらず」
「…でも…」
不服そうに言葉を続けた寛子は、次の瞬間動きを止めた。
バッ、と後ろを振り向く。
「…っ!」
目が、合った。
否…実際に目がある訳ではない、目を捉えられた気がした。
「…姫様?」
周りの空気が、冷える。
とてつもない邪気を纏ったものが、近づいてくる。
「──半蔵」
恐怖に打ち勝ち、震える声で言う。
「今すぐ、屋敷に帰りなさい」
「どうして…」
「いいから、早くっ」
当の寛子は、邪気を纏ったものに視線を絡めとられ、身動きが取れずにいる。
「───…半蔵…っ」
叫び声に、涙が混じる。
「逃げて……っ!!」
その声を最後に、寛子は姿を消した。
* * *
「あぁー…疲れたぁ…」
「お疲れさん、龍晴」
「でも意外と早く終わったからさ、寛子のところへ…」
その時、龍晴はかすかな邪気を感知した。
「…邪気…?」
「市の方からだな」
……市?そうだ、今日寛子はどこへ──。
「…寛子が、危ない──!?」
そう悟った龍晴は、方向転換して市へと走った。
「……寛子は…」
妖気の残滓はまだ濃い。
けれど、強烈な邪気は感じない。
「──あれ…あの人は…」
地面に座り込む人影。
龍晴は、その人に近づく。
「……あの」
「あ…陰陽師、の…っ」
知っている人を見て安心したのか、その人──寛子の従者は涙をこぼした。
「姫、様が…っ」
「その時のこと、辛いでしょうが詳しく教えてくれませんか。えっと…」
「半蔵と、申します」
そして半蔵は、その時のことをぽつぽつと話し始めた。
「姫様と、市へ出かけて…そして買い物が終わったので、帰ろうかと言っていた時に…」
「はい」
「姫様が、私に屋敷へ帰るように言って、忽然と姿を消してしまわれて…」
──おおよそ、市からの帰りに化け物に見つけられて…連れ去られた、と。
「ありがとうございました。衝撃が、大きかったでしょうから…半蔵さんは、このままお帰りください」
「…姫様は…」
「大丈夫です、俺が寛子を絶対に…連れて帰ります」
「───ありがとう、ございます…」
「いえ…彼女を守るよう、言われているので」
龍晴は、少しずつ薄れてきた残滓を追うべく、駆け出した。
「────陰陽師は、いいな…」
徒人の自分には、どうしようもない。
こういった時にいつも頼られるのは、陰陽師。
自分が、その才を持っていれば。
「……くそ…っ」
持っていないものをどうこう言うのは無駄だけれど、恨まざるを、得ない。
半蔵は、走り去る龍晴の背を羨ましそうに、けれども妬ましそうに見つめていた。
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