#誘い/本

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#誘い/本

黒い人は言った。 「君が良い」 と。 不意に肩がぶつかって、慌てて一言謝って、そして言われたこの言葉。その意味を理解する間もなく、俺の視界は歪んだ。 気付いたら周りはただの森。ホラー映画に出てきそうな暗くて不気味な森は、何となくここが現実世界ではないだろうという予感を俺に抱かせた。 歩いても音は1つも聞こえず、スマホも充電があるはずなのに画面は真っ暗、 完全に途方に暮れた。 ヒュォォォ ガサガサガサ 今まで無音だった森が一斉に音を奏で始めた。俺を威嚇しているような、歓迎しているような… その辺りは全く分からないが、この異様な森にどうしようもない恐怖を抱いた。とにかくここに居てはいけない気がして、あてもなく走り出そうとした足は寸前で止まった。 いつの間にか目の前にあの謎の黒い人がいたからだ。 俺はそこでようやく、その黒い人をしっかりと見ることが出来た。 さっきは本当にチラッとしか見ていなかったのだ。 その人は全身黒い服を着ていた。そして顔はよく分からない。もしかしたら身体も黒いのかもしれない。 ちょうど某探偵アニメの黒い犯人が黒い服を着ている、そんな印象を持った。 そんなことを思っている内に、黒い人は話し始めた。 「頼みがあって、君をここに呼んだ」 その声は、男声とも低めの女声とも取れるような声音だった。 「頼み…?」 「そう。この世界を壊すという頼みをね」 荒唐無稽だと思った。そもそも、なぜ何の変哲もない大学生の俺に頼むのか。 「そんなの、出来るわけないだろ」 「私の直感がね、君が良いと告げていたから出来るよ」 「なんだよそれ…」 「壊すといっても簡単、この世界の原本であるノートを探し出して処分するだけ。ノートも君がよく知る紙製のノートだから」 紙製だからって、そういう問題か?というよりこの世界の原本ってなんだ? 「原本?」 「この世界を形作る、単純に言うとストーリーが記されたノートのこと。ここは空想の世界だから、ストーリーの原本がなくなってしまえば自ずと壊れる」 「空想の、世界…」 おとぎ話とかだって言うのか? 「そもそもなんで壊さなきゃいけないんだ?」 「君のいた世界がなくなってしまうかもしれないから。それは君も困るだろう。 夢は夢であるから美しい」 世界がなくなるとか、ヤバすぎるだろ… それこそ、俺よりも適任がいるんじゃないか? 「それむしろ俺じゃない方が良いんじゃ」 「くっく、君がやらないのならそれでも良いよ。ただ、君の世界がなくなるというだけの話。そして君は元の世界に帰れもせずにここで無意味に彷徨うだけ」 何が面白いのか、黒い人は肩を震わせている。ここで俺はようやく目の前の人がいわゆる「真っ当な人間」ではないことに気付いた。 気付いたからといって、何がある訳でもないが。 「そのノートを処分しないと帰れないのか?」 「エクセレント!そういうこと。 それで、やってくれる?」 急に指を鳴らすから驚いた。意味が分からない。ノートを処分しないと帰れないというならやるしかないだろう。よく分からないがとにかく、こんな気味の悪いところを一刻も早く出たい。 「分かったよ。それで、そのノートは何処にあるんだ?」 「さあ?」 黒い人は肩をすくめた。 「まぁでも、知っていたら逆につまらないよね?」 純粋に殺意が沸いた。なんだコイツ、ふざけてるのか。 「このやろう……」 1発くらい殴ってやろうとしたら、その人は俺と距離を取った。本当にムカつく。 「じゃあ頼んだよ」 黒い人はそう言って暗闇の奥へと消え去った。その時、顔が見えないながらも満面の笑みを浮かべていたような気がして腸が煮えくり返りそうになった。この苛立ちを発散したくて、近くの木に拳を打ち付けたが、普通に痛いだけだった。
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