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 さて、その後の雪乃進といえば、泣き叫ぶ赤子を前にひたすら途方に暮れていた。しばらくおとなしく一人遊びをしていた赤子だったが、夜が深まると突然泣き始めたのだ。しかし、がなぜ泣いているのか分からない。子育ての知識もなければ空腹や排せつとも無縁な雪乃進に、赤子の気持ちなど察せられるはずがなかった。しめった床に寝かせた赤子の前を、おろおろ行き来するばかり。しだいに赤子の泣き声を聞きつけた(あやかし)たちが集まってきた。人語を操る獣たちばかりでなく、割れた茶器や櫛の形をした付喪神(つくもがみ)たちまで床下をはい出てきた。そのうちのひとり、茶碗に小さな手足の生えた付喪神が雪乃進に助言した。 「この子はたぶん、肩が凝ってて辛いんだよ。前の家には赤子がいたけれど、母さんが背中を叩いてやると気持ちよさそうにしていたよ。この子のも叩いてみなよ、きっと泣き止むから」  雪乃進は助言に従い、赤子をひっくり返してその背中をとんとん叩いてみた。しかし赤子はますます泣くばかりで、一向におとなしくならない。 「どうしてだろう。やり方がまずいのかな」  もう少し強く叩いてみようとしたところで、こんどは別の付喪神が助言した。 「いいや、その子は足の裏がかゆいんだ。俺の前の家にも赤子がいたが、おっかさんが足の裏をかいてやるときゃっきゃと喜んでいたもの。この子のもかいてやんなよ。いまに泣き止むぞ」  言われた通りにやってみるも、結果は変わらなかった。  そこから雪乃進と妖たちは、赤子をくすぐり驚かせなだめすかし、考え付くことを色々と試してみた。けれど赤子は小さな体のどこにそんな力があるのか、魂を引きしぼらんばかりに激しく泣きわめくばかりだった。疲れ果てた雪乃進たちが恐れをなして赤子と距離をとったとき、その声はふってきた。 「呆れた、呆れた。美珠神(みたまのかみ)のお使い様ともあろうお方が、赤子のひとりも泣き止ませられないのかい」  雪乃進をばかにしたのは、枝の上からこちらを見下ろすカラスだった。艶やかに光る黒い羽が雪の白から浮いて見える。その木の下に、もうひとつくっきりと浮かぶ黒い影があった。ぼろの袈裟(けさ)をまとった僧侶。老いさらばえた見た目通りのしわがれ声が、雪乃進の名を呼んだ。 「大変な拾いものをしたようですな」 「野寺坊(のでらぼう)」と、雪乃進はわずかに驚きを声にのせた。  ぼろの袈裟を着た老人の正体は、野寺坊。寄る辺の寺を持たない僧侶が、はては妖怪になったものである。雪乃進と小妖怪たちの途方に暮れている様子を聞きつけ、気がかりに思い、はせ参じたのであった。          ❋ 「これ、そのように抱くもんじゃない」  社の石段に腰かけた野寺坊は、傘の付喪神から慌てて赤子を取り上げた。付喪神はちょうど赤子の片足をつかみ、宙にぶら下げていたのだ。足が取れてしまうぞ、と野寺坊は件の付喪神だけでなく、雪乃進を含め他の妖をも叱りつけた。 「赤子の体はどこも取れやすいのですぞ。優しく扱ってやらねば」  野寺坊の赤子の扱いは慣れたもので、腕に抱いて少し揺らしてやるだけで、赤子はぴたりと泣き止んでしまった。すぐそばで様子を見守っていた雪乃進は、目を見張った。 「どうやったの」 「このように抱いて、軽く揺すってやるのです」  やってみよ、と促された雪乃進が怖々と赤子を抱く。そのまま少し揺すると、なるほど赤子はおとなしくしている。濡れた目で見つめられると、温かさが胸に染みてくる思いがした。 「なぜ揺すられるとよい具合なのだ」たずねる声がつぶやきになった。  野寺坊の老いた目は、雪乃進と赤子の組み合わせを意外な驚きとともに見つめていた。ふたりはまるで親子のようではないか。もっとも、父子というより、母子だが。雪乃進の女性的な容姿が、どうしても母を思わせるのだ。野寺坊は微かに笑みを浮かべ、雪乃進の疑問に答えてやった。 「安心するのですよ。母の腹で揺られていた昔を思い出してね」  赤子の世話にやることはいくらでもあった。赤子は空腹で、汚れていた。野寺坊はこれまたてきぱきと動き回った。まず、着物をはいで体を洗わねばならない。放置された排泄物のせいで、赤子の尻や足は大変に汚れていた。暇な妖どもに(まき)集めと火起こしを命じ、そうして首尾よく手に入れた湯で赤子と着物を洗う。幸いおくるみは無事だったので、着物を乾かしている間はそれを巻いてやる。次に野寺坊は(ふところ)から竹筒を取り出し、中の米を(かゆ)に炊いた。そうして少し冷ましたものを赤子の口にふくませてやった。指先にちょこんと粥をつけて口元へ差し出すと、赤子は両の手で指先を握り締め、母の乳を吸うかのごとく懸命に食らいついたのだった。雪乃進は、野寺坊のあとをついて回ってその様子を見つめていたのだが、この寄る辺もない老人のなすことにいちいち感心してしまった。  やっとのこと雪乃進の腕の中で赤子が眠りについたとき、野寺坊は固い調子で言った。 「この子に名をつけてやりませんと」 「名を? なぜ」 「『狭間』の目をおやりになったでしょう?」  逆に問われ、雪乃進は身を固くした。狭間に生きる神や妖の類が、(うつつ)に生きる人間に狭間の目をやるのはご法度(はっと)。狭間の目を持てば、人間は神や妖をその目で見られるようになる。その能力を、将来悪用せんとも限らない。かつて九尾の大妖怪が恋しい人間に狭間の目をやり、のちに陰陽師となったその人間に封印されたのは有名な話である。  しかし野寺坊は、雪乃進が赤子に狭間の目をやったこと自体を(とが)めはしなかった。心配は、別のところにある。 「狭間の者でないのに、狭間の目を持つ。この子はいま、あやふやな存在になっているのです。このまま放っておけば、無に返ってしまう。そうなる前に、狭間の者が名付け親となり、この子をこちらの世界に定着させませんと」 「なるほど、わかった」  雪乃進は赤子を抱いたままゆるりと立ち上がった。 (名か。何が良いだろう)  考えつつ、雪乃進は自らが名付けられた日のことを思い出していた。雪の中を進む一匹の白蛇。その姿を美しいと、美珠様はおっしゃった。ゆえに、雪乃進。くすり、と雪乃進は笑った。微笑みを浮かべた長髪の男は、はっとするほどに美しい。そしていまにも雪と消えてしまいそうに儚かった。  壊れた木窓から、赤い椿(つばき)の花が見えていた。雪に散った花弁は鮮血を思わせる。赤子にも赤い血が流れているのだろう。頬と唇が鮮やかに染まっている。腕に揺すられ眠る赤子に、雪乃進は語りかけた。 「この世の汚れを知らぬ無垢なチビ助、お前の名は『椿』にしよう」  枯れ枝の上、一声鳴いたカラスは知っていた。  妖と人の時間が交わる。このいびつが、いつまでも続くわけがない。
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