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3
それからいくつかの冬を越した。雪乃進は椿の仮親となり、多くのとまどいと感動を味わった。椿は6歳になった。女か男か知らぬままに名付けられた椿であったが、この頃はすっかり少女の顔だ。笑顔は明るく、おしゃべり。育ての親である雪乃進に、一丁前に説教までする。
「雪ちゃん、またお米こがしてる。火のそばについて見とかなきゃだめなんだよ」
椿は雪乃進を『雪ちゃん』と呼ぶ。誰が教えたわけでもないのに、いつの間にかそう呼ぶようになっていた。椿は雪乃進が父でも母でもないことをちゃんと知っていて、兄のような親しみを抱いているのであった。父母や兄弟という概念は、社の近くであそぶ獣の親子を見て学んだ。
大急ぎでやってきた雪乃進が窯の蓋を取ると、もうもうと焦げ臭い煙が上がった。間に合わなかったと知り、雪乃進はため息をつく。米を無駄にしたのは、これで何回めだか分からない。いつも米を届けてくれる野寺坊に申し訳なかった。
「これはこれでおいしいよ」
慰めるような声を振り仰ぎ、ぎょっとする。
少し目を離したすきに、椿は焦げてせんべいになった米をばりばりと噛んでいた。慌てて椿の手からせんべいを叩き落とす。
「やめなさい。お腹を壊してしまうよ」
「だっておなかすいたんだもん」
いかにもひもじそうに言う椿に、雪乃進は自分の不甲斐なさを思った。
椿を育てるようになり人間の営みを真似た生活を続けているが、まだ慣れない。
「それでは、裏のお山に栗を拾いに行こうか」
雪乃進は明るく提案したが、椿は「やだやだ、お米が食べたいの」とぐずり始めてしまった。困り果てた雪乃進に、そのとき救いの声がかかった。
「椿は今日も元気が良いの。裏のお山で暴れておる子猿のようじゃ」
「野寺坊!」
雪乃進が声をかける前に、椿が彼の名を呼び迎えに出て行った。ぼろの袈裟をまとった老僧侶が、椿を足元に受け止める。小枝のような足をしている割にはぐらつきもしなかった。
「椿や、元気があるのは良いことだが、あまり雪乃進様を困らせるでないぞ」
野寺坊に鼻をつままれ、椿は一応しおらしく頷いた。けれども次の瞬間には元気を取り戻し、子狐たちと共に駆けて行ってしまう。お腹がすいていたことも、もう忘れてしまったようだ。困った子だ、と雪乃進は薄く微笑んで椿を見送った。それから野寺坊に向き直ると言った。
「あなたにはいつも感謝している」
「なんの。マツタケを持ってきましたぞ。七輪で炙って、どうです、一杯」
急な誘いに一度まばたきした雪乃進だが、掲げられた徳利を見ると破顔した。
「そうしよう」
酒など、ずいぶん飲んでいなかった。
雪乃進は社の奥から酒壺を出してきた。徳利に注がれた液体は澄んで香りよい。野寺坊は驚いてたずねた。
「これは、美珠様に捧ぐ神酒では? わしのようなもんがいただいても良いので?」
雪乃進はあっさりと頷いた。
「捧ぐ神をなくしたいまとなっては、棚のこやしでしかない。遠慮なく飲むといい」
しばし呆ける野寺坊だったが、急に気がつくと焦って徳利に口をつけた。雪乃進の気が変わる前に飲んでしまおうと思ったのだ。これは神の酒。妖ものが一生かかっても口にできぬ美酒だ。徳利を空にした野寺坊は、ほうと深く息をついた。魂が抜かれるほどにうまい酒だった。早くも次のひと口を求める口で、野寺坊は叫んだ。
「うまい!」
「当たり前だよ。わたしが作った酒だもの」
美珠様のために。最後の一言を口の中でとなえ、雪乃進は苦笑した。あるじが社から消えた後も、雪乃進は毎年欠かすことなく酒を作り続けている。そうしてあるじの帰りを待っているのだ。無駄なことを、飽きもせず。苦笑は、自分に向けたあざけりだった。
「美珠様がお隠れになってもう百年ほど経ちますか」
「百二十四年だ」
「もうそんなに。山に帰る気はないのですか」
「帰っても居場所がない」
だから山を出て、美珠神の神使いとなったのだ。悠久に近い寿命を得るかたわらで、雪乃進を知る親族はとうの昔に死に絶えている。それ抜きにしても、帰ろうと思ったことは今も昔も一度もなかったが。山には嫌な思い出しかない。
ふいに、笑い声をあげる椿がふたりの前を横切った。いまだ子狐たちとのかけっ子に夢中のようだった。幼子の笑い声とは、これほど胸躍る響きを持つものだろうか。予想もつかぬ動きは目を楽しませ、退屈を感じさせない。そうだ、と雪乃進は気づく。椿が来てからというもの、雪乃進は退屈だと思う暇もなかった。植物のようにじっと動かずただ日々が過ぎるのを待っていたあの頃とは、何もかもが変わっていた。
と──、椿が大声を上げて泣き始めた。石につまずいてこけたのだ。徳利を放り出し、雪乃進はわき目もふらずに椿に駆け寄った。胸に抱き上げ、どこが痛いのかとたずねる。椿は答えなかったが涙をこぼす黒い瞳は、膝頭に向いていた。すりむき、血が出ている。雪乃進はとっさに自身の手で傷を覆った。淡い光が放たれるとともに、視界がぐらりと揺れる。雪乃進はその端正な顔に脂汗を浮かべていた。気圧された野寺坊が、一歩後ずさりする。
「雪乃進様、あなたはもしや……」
言葉を返す余裕はなかった。視界が暗に染まり、雪乃進はそのままどうと地面に倒れ伏したのだった。白い手が椿の膝頭を離れたとき、そこにはもう傷跡すら残っていなかった。痛みは消えたはずだが、椿の泣き声はいっそう大きくなった。雪ちゃん、雪ちゃん。美しい銀の髪が覆うしなやかな体を、椿は揺すり続ける。
呆気に取られて一部始終を見ていた野寺坊は、はっと社を振り仰いだ。朽ち果てていたはずの社はずいぶんきれいになっている。最盛期ほどではないが、人に畏怖を抱かせるには十分な壮麗さを保っていた。椿が住み良いよう、これも雪乃進が妖術を使って整えたのだろう。
雪乃進に妖力を授けた美珠神が消え、すでに二百年以上。残りわずかな妖力の枯渇は、すなわち雪乃進の死を意味していた。
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