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 雪乃進(ゆきのしん)がその女を見たのは、しんしんと雪のけむる夜のことだった。  (まつ)る神をなくし朽ち果てた(やしろ)の前に、女は白いおくるみに包んだ赤子を置いた。雪深い中を長く歩いてきたはずの女は薄着で、しかし少しも凍えていなかった。まるで女自身が氷のようだった。赤子を残したまま、女は歩き去る。女は赤子を捨てたのだ。だが一瞬、一瞬だけ女は振り返ると、激情に駆られたように手を合わせ一心に祈り出した。 「神様、どうかこの子を──」  お願いします、と口に出してみたものの、ふとバカバカしくなり、女は手をほどいた。我が子の身を案じるならば、もっとふさわしい場所に送るのが筋だというのに、神頼みとは……。どこへも連れて行く気力がないから、そこに残すのだ。運が良ければ、お祈りに来た誰かが見つけてくれる。  再び歩き出した女の目に、もう赤子は映らない。必死に母を呼ぶ泣き声すら耳に届かなかった。見すえる先には、荒ぶる海をたたえた断崖がある。迷いのない足取りで女は身を投げた。ひとつしぶきに呑み込まれ、残る女の痕跡は新たな雪が消していく。  女の去った後、白銀の長髪を引きずりつつ白い衣の男が社から這い出してきた。雪乃進である。彼は赤子を認めると、不思議なものを見るような目つきで泣きわめく生き物を観察した。黒い目に赤子は珍しく映った。ここ最近では人間そのものが珍しい。祈っても御利益のない社に神の不在を気づいてか、人々が寄り付かなくなってしばらく経つ。  雪乃進は怖々とその細指を赤子に近づけた。濡れた頬は燃えるように熱く、柔らかかった。赤子ははっと泣くのをやめ、雪乃進の目をしっかりと見つめ返した。その瞬間、激しい衝撃が雪乃進の胸を打った。考えるより先に、雪乃進は赤子を胸に抱き寄せていた。聞き慣れただみ声が割り入ったのは、そのときだ。 「旦那、そのチンクシャをどうすんです。食うんでしたら、あっしにもちょいと分けてくださいよ」  いつからそこにいたのやら。雪の上に座った狐が、こずるそうな顔をして雪乃進を見上げている。狐の横取り癖をよく知る雪乃進は赤子を腕から離さぬまま、注意深く掲げて見せた。 「これは食い物ではないよ、小夜羅(さよら)。獣とは違うんだ。ごらん、人間の赤子だ」  きょとんと小首をかしげる赤子をしげしげと眺めた狐は、やがて納得顔で頷いた。 「やっぱり食い物じゃないですか。人間の赤子は肉が柔らかくてうめぇんだ」  よだれをまき散らして襲い掛かろうとする狐の無遠慮さ。怒りと、少しの悲しみを覚えた雪乃進は、シッシと狐を追い払った。雪乃進の本質を知る狐は慌てて逃げるも、遠目から未練がましく赤子を見つめるのをやめなかった。雪乃進はそちらを一瞥し、赤子を抱いて社の中へと引き上げた。  人の手入れをなくして久しい社の木材は朽ち落ち、ぽっかり空いた天井からは雪の粒どもが侵入していた。けれど雪乃進は気にもせず、しめった床に座り込んだ。そうして改めて腕の中の赤子を見ると、赤子はぽかんと濡れた口をあけて周囲をきょろきょろ見回している。自分を抱く人物の姿を探しているようだ。赤子には、雪乃進の姿が見えていない。人間のたいはんがそうだ。人間には、神や妖のたぐいを見る力が無い。先ほど、赤子は雪乃進と目を合わせていたように見えたが──、気のせいだろう。  雪乃進は、もう一度赤子と瞳を合わせたいと思った。そうすればまた、あの胸打つ衝撃を感じられるかもしれない。この先、停滞した時の流れが一気に動き出す。雪乃進は震えるほどの喜びとともに予感を得ていた。 「お前に『狭間(はざま)』の目をあげよう」  雪乃進の細指が赤子の両のまぶたに触れた。そして次に手が離れたとき──、赤子は今一度しっかりと雪乃進を見つめたのだった。涙に濡れそぼった赤い顔で、赤子は嬉しそうに笑った。微笑み返した雪乃進は、なぜだか泣きたいような気持ちになった。
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