雪の眼のその先に

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雪の眼のその先に

 その男は、今まで相手にしてきた武左(ぶさ)とはかけ離れた印象だった。 「お初にお目にかかる。某は、一之丞白秋と申す」 「わっちは、雪姫でありんす」  酌を交わし、言葉を紡ぎ、そして本来の〝目的〟をこなす直前でさえ、その男は恭しい態度を崩さなかった。  そんな繕った顔など、どうせすることさえしてしまえば獣へと転じよう。  館主の言うとおりにするのは癪だ。  だが、自分の粋筋すら決められないこの現状を打破する気力もない。  顔は悪くないとただ他人事(ひとごと)のように思った。 「杯をこちらへ」  それは館主の常套手段だった。  花魁を指名する程の金持ちだと判れば、通い続けさせるよう『骨抜き』にする。  酒に薬を盛り、惚れ込ませ、螻蛄(おけら)になるまで絞り尽くすのだ。  そして、そんな館主の腹づもりに気づきながらも、居場所の為に抗うことなどできない自分が此処にいる。 「見ておくんなんし」  言いながら身を寄せた直後、着物をわずかに(はだ)けさせた。  透き通るほどの白い肌。華奢な体躯。  ぷっくりと色づいた胸が桃の花のように着物の隙間からチラつく。  瞬間、一之丞が息を呑むのが判った。 「雪、姫……っ」  ゆっくりと一之丞の首筋に腕を回し身体(からだ)を密着させる。  薄い唇を歪め、嘲り嗤う。 「さあ、遠慮せず。どうせその気でありんしょう」  心赴くままに貪り尽くせば良い。  諦観にも似た感情を抱きながら、一之丞を(しとね)に押し倒す。  充分、薬は回っている。理性も酒と合わさりとうに蕩けていることだろう。 「……っ、待て」  男の(まなこ)が、驚愕から大きく見開かれた。その理由(わけ)に、喉の奥で嗤いが漏れる。  熱い吐息と、男の呻くような聲が耳朶を擽る。  制する言葉に耳を貸さぬまま、聲を塞ぐように男の唇に口づけた。  一之丞は、不思議な男だった。  まるで割れ物を扱うように、時間が許す限り、丁寧に触れては身を案じてきた。  言葉をかけ、手をかけ、女に触れることよりもなお手厚く(こころ)を寄せてきた。  だから、だろうか。  褥を共にしたあと、普段であれば寝たふりをして朝まで過ごす筈が、気づけば月明かりの下、訥々と言葉を交わしていた。 「某は武家の長子でな。だがこの刀もなまくらだと、宝の持ち腐れだと嗤われるほど、腕がたたん。それでも長子である以上、周りが煩くてな」 「…………」 「遊廓にきたのも、男として〝一人前〟であるならば女を識っておくべきだと勧められたからだ」  一之丞の言葉に耳を傾けながら、そんなことがあるだろうかと密かに疑心を抱く。  一之丞は一目見ただけでも、金持ちだと判るほど良い身形をしている。  身につけている物も、手にしている刀も、何もかも。  腕の立たない跡取りなど、武家の名折れ。  そんな男に対し、わざわざ遊廓へ行くよう促すだろうか。  女を識るよう勧められたのも、後々女を娶るため。後継を産ませるために他ならない。  ましてや、自分のような〝贋者〟を掴まされたとしたら激高してもいい筈だ。  なのに、この一之丞という男は、つくづく愚かだった。  他の客とは……別格すぎる。  愚かなほど優しく、そしてただただ不器用な男。それが、一之丞白秋という侍だった。 「一之丞……」 「うん?」 「わっちの噂を、耳にしたのでありんしょう?」 「ああ。だがまさか、女のような見掛けをした男とは思わなんだ」 「あの狸親父のこと。耳心地の良い噂だけを蒔いているのでありんしょう。どんな話を蒔いているのでありんすか」 「それは……」 「嘘偽りなく、教えてくんなまし」  懇願するようなその言葉に、一之丞はどこか苦虫を噛み潰したような表情(かお)で訥々と語り始めた。  巷では、とある遊廓に住まう花魁の噂で持ちきりだという。  噂曰く――雪姫という名のその花魁は、雪女(ゆきめ)の如く白い肌を持ち、この世の者ではない魅力を宿している。そして、雪姫に気に入られた者はまるで『神通力』でも与えられたように大出世をするのだという。どこまでも盛られたその話を語る一之丞は、呆れたような苦笑いをしていた。 「ふふっ、そんな与太話を真に受けるとは……」  道理で、最近客の出入りが増えた訳だ。  実に、金をむしり取ることしか考えていない館主らしい。 「ははっ。某も出世に目が眩み、そんな与太話を信じた一人だ。笑うといい」 「……。嘘」 「なに……?」  徐に半身を起こすと、一之丞の切れ長の眼元にスッと指を滑らせた。 「これでも、人を見る眼くらいはありなんし」  人という生き物はどこまでも貪欲で、自己欲のためならば、非情になれるものだ。  甘言ならいくらでも吐き出せる。  金持ちならば、気を引くためにあらゆる手段で金品を貢いでくるだろう。  たとえ雪姫がそう望んでいなくとも――。  人を見極める術とは、逢った回数でも時間でもない。  (こえ)、音の強弱に高低、眼差し、表情、所作。  その情報だけでも、人となりというものは視えてくる。  どれだけ隠し繕おうとしても、偽りようのない〝真実〟が滲み出ているものだ。 「一之丞は、噂を鵜呑みにして来たワケではないのでありんしょう」  この男は、そんな男ではない。  そうであって、欲しくない。  これまでの経験からの確信と、願望が混ざり合う。  だが、そんな複雑な心情を悟られまいと、声を張る。  すると驚愕から見開かれていた一之丞の瞳がゆっくりと細められた。 「きっと、其方は怒るだろう」 「怒るような理由だと?」  噂に釣られたのではないのなら、それはどんな理由だろう。 「……逢って、みたかった」 「……え」 「雪姫と名高い其方と話がしてみたかったのだ」 「…………!」  その言葉に、ハッとする。  この男は初めから抱くつもりなどなかったと。 『そのつもり』だと勘違いし押し切ったのは自分だ。  そして、そうなるように仕組んだのは館主。  逢いに来る目的など、それしかないと思い込んでいた浅はかさに心が傷んだ。 「たったそれだけの理由で、わっちを買ったのでありんすか?」 「ああ。館主からの噂などよりも、雪姫……其方自身に興味が沸いたのだ」 「まったく。とんだ好き者でありなんし」 「かも知れない。だが、逢う価値は充分にあった」  他の客のような上辺だけの言葉ではない。  そう気づき、一之丞のことをもっと知りたいと思うのに左程時間はかからなかった。  ✿ ✿ ✿ 「雪姫。其方、平民の出ではないな」  言葉を交わし、互いのことを識り、そして幾度か褥を共にした後のとある夜更けのことだった。唐突なその言葉に思わず文句が零れ出た。 「詮索する男は、嫌われるでありんすよ」 「すまぬ。だが、些かその傷が気になったのだ」  それは、脚の付け根にある痕のことを指してのことだろう。  一見、他の客との間で付けられたモノだと錯覚しても可笑しくはない。  だが意外にも白秋は目敏かった。 「わっちは、もとは貧しい武家の出でありんす」  そこいらの平民と大差ない粗末な生活。武家であっても一介の田舎侍に過ぎず、銭の工面にも苦労が絶えなかった。だから、だろう。不作が続き銭も尽きたある日のことだ。口減らしとして、女衒(ぜげん)に売られたのだ。 「もし、遊廓(ここ)に来ていなかったとしたら、其方は何に為りたかった」  その問いが、白秋ではない他の男の口から発せられていたとしたら、きっと平手の一つでも喰らわせていただろう。 「何故、そんなことを――」  ただの純粋な疑問、もしくは興味からの言葉かもしれない。  身請けをして貰えるなどと甘温(あまぬる)い夢を見たいワケでもない。  それでも何故だろう。白秋がこうして(こころ)を寄せてくれることが、密かに嬉しいと思ってしまった。 「――そう、だな……白秋のような侍になりたかった」  今はもう叶わない願いが唇から零れ落ちた。  この地獄から仮に出られたとしても帰る場所もない。  存在価値などこの遊廓の中にしかない。  使い物に為らなくなるまで雪姫で在り続けるしか生を赦されていないのだ。 「……。……すまない」  その謝罪が意味するのは何だろうか。  詮索をしたことだろうか。それとも身請けなどできないと暗に告げているのだろうか。  白秋の顔を盗み見ると、薄い唇を真一文字に結び何かを堪えているような顔をしていた。 「今はただ……白秋と居られれば充分でありんす」  その言葉は本心からだった。  ただ好いた相手と一緒に居られるだけで幸せだと、そう言い聞かせるように思う他なかった。  ――けれど、現実とはどこまでも残酷で、思い通りにいってくれない。  足繁く来てくれていた白秋も、いつしか姿を見せなくなっていた。  理由は判らない。もしかしたら病で息絶えたのかも知れない。    大きく骨ばった掌。  空気に沈むような、低い聲。  何者をも射殺すような切れ長の眼。  その全てが、唯一の救いだったのに。  そうして白秋の身を案じ、想い続け――どれ程の月日が経っただろうか。  春夏秋冬の季節が巡り、また同じ季節がやってきた。  初めて白秋と出逢った季節。今はもう、逢えない無常さを噛み締めるしか無い。  ボンヤリと中庭を眺めていたその時だ。館主から別室へと呼び出された。また新しい客を取らさせるのだろうかと、内心息を吐き部屋へ赴く。そして重い襖をあけた瞬間、思わず我が目を疑った。 「随分と、待たせてしまったな」  そこには懐かしい男の姿。 「一之丞、白秋……?」  確かめるように、名を呼んだ。  白秋はどこか照れたような微笑を浮かべていたが、次の瞬間、表情を引き締めると凜とした聲で、その言葉を口にした。 「今この時より、某が其方の身請けをする。出る支度をせよ」 「身、請け……?」  信じられない。夢のような言葉に、頭の奥がジンと熱くなる。  覚束ない足取りで白秋の傍に行くと、不意に身体を抱き寄せられた。 「共に出ようぞ。〝玄冬〟」  それは、遊廓という名の地獄から抜け出した生者に与えられた新たな名だった。  ✿ ✿ ✿ 「なあ、訊いたかい。あの侍の噂――」  のちに、とある噂が都で拡まった。  二人組の侍が賊を捕らえては貧民から感謝され、数々の偉功を挙げているそうだ。  一人は射殺すような切れ長の瞳をした美丈夫。  そしてもう一人は、まるで雪女のように妖しい美貌を宿した侍だという。
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