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天使は囁いた
教室から見えるグラウンドが夕陽で染まっても、私はサッカーコートを眺めていた。
教室から見えるサッカーボールは小さくて目で追うことは大変だ。それでも、意中の彼がそのボールを夢中で蹴っているのだから見逃したくはない。
そう思って飽きもせず眺めていた。
彼が監督に呼ばれコートから外れて行くのを見て解きかけの数学ドリルに目を戻す。
明日の朝行われる小テストの範囲だ。
開いているだけで全く解かれない哀れなドリルを指でなぞる。
数字を眺めながら10月の体育祭で彼に恋をしたこと思い出す。
最後の種目が学年全員でのフォークダンスで、入場するペアが彼だった。
話したこともなかったけれど、太陽の匂いと彼の手の感触、彼の日に焼けた肌、黒い瞳、薄い唇がはにかむ、あの瞬間、「好きだな」と強烈に胸を締め付けた。
次々とペアが目紛しく代わる中、彼とまた組みたいと思ったが、残念ながら最後の曲のあともう少しというところで曲は終わってしまった。
クラスも別で話す機会もないけれど、見ているだけでふわふわとした気持ちになる。
彼のことは、名前とサッカー部所属ということ以外何も知らない。性格も好きなことも嫌いなことも。それを残念に思いながらも、どこか憧れの存在を美化しているような感覚で知りたくない気もする。
ただ、こんなに少ない情報で恋に落ちる事が出来るのだから、人間なんていい加減なものだ。
単純過ぎると笑われそうで友達にも言えやしない。
焼けた肌に背が高く短髪で黒い瞳と二重が印象的な有村君。
彼がまたグランドに出て来てユニホームを着て走っている。かっこいいなと思いながらノートの端にシャープペンシルでグルグルと丸を書いて塗り潰す。手持ち無沙汰になるとついやってしまう癖だ。
数学を解かずに消費されていく、シャープペンシルの芯が何だか可哀想に思えた。
その証拠を抹消するために真っ黒になったノートの端を三角に小さく千切った。
『有村君の瞳に少しでいいから映りたい』
なんて少女漫画のように神様に願ってゴミ箱にノートの端切れを手放した瞬間。
ボンっ!
ゴミ箱の中から爆発したような音がした。
「その願い恋のキューピッドが叶えようっ!」
驚いて後退りながら音がした方を見ると惚けたような声で喋る小さい天使が現れた。全体的にプリプリしていてとても可愛い。
「僕に任せろ! 魔法陣で呼び出されたからには全力で矢を撃ってやる!」
ムチムチとした手で矢先がハート型の矢を構えるではないか。
やる気満々といった感じでハムのような右手を肩慣らしするように回していたが急に辞めて私を不思議そうに見つめる。
「うん? 」
私が驚きで固まりノーリアクションでいると自称恋のキューピッド様はコテンっと横に落としたように首を傾げた。頭も2頭身の体も庇護欲を誘う。
「あの、魔法陣とか書いてなくて」
「ううん! 願いを込めて呼び出したよ。僕がここに居るってことはそうなんだよ。どの魔術書写したのさ」
「どれどれ」と重力を無視したような小さな羽でパタパタ飛んで行き、数学のドリルを覗き込んでいる。
「最近の魔術書は小さいんだな」
うんうんと短い首で頷き、数学ドリルを魔術書だと指差して満足そうだ。
夢の世界に来たような気持ちでぼーっとしていると、可愛いキューピッド様は窓までパタパタ飛んで行く。
「で、どの人が好きなんだ?」
「あ、えっと。あの、あの人」
言われるがままに有村君を瞬時に見つけて指差す。
「有村君って言うの。一目惚れして、ほとんど何も知らないんだけど」
キューピッド様は私が指差す方向を見て、淡い金髪をフヨフヨさせながら、「そんなもんさ」と窓を開けて飛んで行く。
そして、まあまあ離れた距離からハートの矢を有村君に向けて放ったのだ。
バシュッ トンッコロン
バシュッ トンッコロン
止める暇もなく見守っていたが、何度矢を放っても弾かれて矢は転がり消えていく。
キューピッド様は首を前後左右に傾けつつ、パタパタ飛んで戻って来た。
「だめだー! なんでだろ?刺さらないんだ! おかしいなー、手応えはいいんだけどなー」
うんうん考え込むように手を顎に当てて、机に腰掛け短い足を組む。格好だけは一丁前だと微笑ましく思った。
数秒後に手をポンと掌につき閃いたような表情をした後、ニカっと笑う。
「わかんないや!」
仕草と言葉のチョイスが一致していてないがとても愛らしく憎めない。
そのまま、ケタケタ楽しそうに笑い出し、空中でパタパタ飛んで円を描き私の耳元に来て囁いた。
「ねぇ、これから一番最初に会う友達の手助けをしてあげて! そしたら、良いことがあるよ!」
そのまま教室の天井まで浮上しケタケタ笑いながら、消えていった。
今起こった現実を受け入れられず、窓辺に立ち尽くし夢を見ていたような感覚に陥った。
ガラガラ
「飛鳥! 残ってたの?」
キューピッド様が消えてすぐに、友達の日和が慌てたように教室は入ってきた。
「うん。ちょっと白昼夢を見てたみたい」
日和は机の中を漁りながらも顔を上げる。「え? 本当、ボーッとしてるよ。大丈夫?」と私の顔を心配そうに見たが、紙を机から引っ張り出して、用紙に目を写して呟いた。
「あっ、やっぱり明日だった」
日和の右手が額を叩く。そのまま額に手を当てたまま難しそうな顔で黙ってしまった。
「どうしたの?」
「放送委員の当番と部活が重なっちゃって放課後のアナウンスが出来ないのよ。あー、なんでもっと早く気づかなかったんだろう」
日和が携帯をポケットから出し、スクロールし始める。
「あのさ」
ーー『これから一番最初に会う友達の手助けをしてあげて!』
ーー『そしたら、良いことがあるよ!』
「私で良ければ代わりにしようか? アナウンス」
日和は携帯を覗き込んでいた顔を勢い良く上げる。
「本当? 助かるー、ありがとう! ペアで佐藤くんが来るから! 言っとくね!」
日和は原稿用紙と機材の取り扱いが書いてある用紙を私に提示し手渡した。
「よかったー! 助かる! 本当にありがとう! この埋め合わせは必ず!」
私が、「いいよ、いいよ」と言うと日和はまたバタバタと手を振りながら教室を出て行った。
「本当にいいことある? キューピッドさま」
ゴミ箱に向けて小声で囁くと空耳のように幼い子が笑う声が聞こえた。
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「なぁ、ごめん。今だけ。いや、これからずっとでいいからさ。俺の身長5ミリ縮んだことにしない?」
前に並ぶ佐藤に小声で呼びかけた。
「何言ってんだよ。伸びたって喜んでたじゃないか」
佐藤が普通の声で話し始めたので、人差し指を立て口元に持っていく。
「どうしたんだよ、有村?」
声のボリュームを落として問いかけ直してくれた佐藤に声を低くして頼む。
「誰にも言うなよ」
「まぁうん」
佐藤がだるそうに頷いた。
「佐藤と代われば、高木さんとフォークダンスのペアになれそうなんだよ」
学年全員で並んだ背の順を先生が前からたった今組んでいっている。そこから、急いで逆算すると佐藤と代われば高木さんとフォークダンスの入場時のペアになれることがわかったのだ。本当につい今ほど。
佐藤が「えっ?」とまあまあの声量で言ったので、肩を掴んで戯れ合うふりをしながらその場で一回転して、強引に順番を代わる。
「高木さんって、高木飛鳥? 有村、接点あったか?」
「ないよ、特に。この前、図書室で本ばら撒いた時に拾ってくれただけだよ」
佐藤は「それって一目惚れ?」と興味深そうに聞いてきたので、「それ以外ないだろ」と不躾に返した。
「ちょっとでも接点欲しいんだよ。殆ど何も知らないから」
佐藤を見ずに照れ隠しで前を向いたまま答えると、背中をトンッと叩かれた。
「来月の放送委員の当番変われよ」
「全然代わるよ」
だから、本人に知られて気持ちがられたりしないようにこれ以上アクションしないでくれ。
組まれるであろうペアを目線だけで再確認する。
君が気づかないように。
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