世のためひとのため

1/1
前へ
/1ページ
次へ

世のためひとのため

 小さな酒場、エヌ氏は昼間から酒を飲んでいた。ろくな身分ではない。飲んでいるのも安い酒だ。 「また、例の義賊が出たらしいじゃないですか」  バーのマスターが話しかけてくる。客はエヌ氏しかいない。 「ふん、あの義賊もこれだけさわがれればさぞかしいい気分だろう」 「どうなんですかね。目立つのが目的でやっているとは思えませんが」  マスターが考えこむ。話題に上っている義賊とは、金持ちの家に盗みに入っては、その金をまずしいひとに寄付している怪盗のことだ。じつはなにを隠そう、エヌ氏こそがその義賊なのである。 「テレビでは本人は質素な生活をしているのではないかと言っていましたよ」 「あくまで想像だろう」 「いえ、ちゃんと計算してみたそうです。その結果、盗んだ金のほとんどを寄付しているとか。立派なものですよ」  マスターが感心する。事実、エヌ氏はまずしい生活をしている。しかし、清貧というよりは自堕落。世間の想像とはかけはなれていた。 「きっと、正義感にあふれたひとがらなのでしょう」 「そうなのかね。やっていることは犯罪だぜ。ろくでもない人間にちがいないさ」  エヌ氏が言いきる。怪盗本人が言うのだからまちがいはない。  エヌ氏は金に困って盗みをはじめた。どんな仕事もつづかず、自分に絶望していた。このままのたれ死ぬくらいなら、他人から奪ってやろうと思った。捕まる覚悟だったが、皮肉にもエヌ氏には盗賊の才能があったらしい。一件、二件と犯罪を重ねていった。 「やたら批判しますね。いまはわたししか聞いていませんからかまいませんが、世間のひとが聞いたら黙っていませんよ」 「ずいぶん人気らしいな。わたしにはよく理解できない」 「映画やドラマのような活躍ですからね。巨悪を倒して、弱者に寄りそってくれる点が評判なのでしょう」 「本人はどう思っているのだろうな。つらいことも多いだろうに」  なにげなく本音がこぼれる。しかし、他人に気づかれることはない。こんなさえない人物が立派な義賊だとは、だれも思わない。 「命がけでしょうね。防犯システムや警察の包囲網をくぐり抜けなければいけません。そういえば過去に一回捕まりそうになったことがあるとか」 「そんなこともあったかな」  エヌ氏が遠い目をする。  あれは盗賊業が軌道に乗ってきたころのことだ。自分に盗みの才能があると気づいたエヌ氏は、犯行を重ねていった。そのたびに成功し、財産が増える。はじめは生活がかかって必死だったが、こうも金が増えると余裕が出てくる。それが犯行時の気のゆるみにつながり、つまらないミスが増えていった。  改善しようとしたが、どうもうまくいかない。黙想をして精神集中をしたり、適度に体を動かしてみたりした。しかし、いざ仕事にとりかかると、自宅にある大量の現金を思いうかべてしまう。このままでは破滅だ。そう思ったエヌ氏は思いきって余分な金品をなげうった。余計な欲があるから仕事にうちこめないのである。  その結果、エヌ氏はすばらしい手腕を発揮した。頭脳はさえわたり、体は躍動した。いままでで一番の大きな成果をあげた。  それ以来、必要なぶんをその都度盗むスタイルを取っている。それが皮肉にも世間で評価された。世のなか勝手なものだ。 「つねに新しい獲物を狙っていますものね。加えて、けっして一般人を巻きこむことはない」 「どこまでいくのだろうな。このままだと国の施設に盗みに入るのも遠くはない」 「たしかにそうですね。もし、国を相手に立ちまわったらよりいっそう人気が出ますよ」 「たったひとりで国に立ちむかうとは無謀なものだ」  エヌ氏があきれた声を出す。  しばらく盗賊をつづけてきて判明した点がふたつある。ひとつは盗むことに対する才能は抜群であること。ふたつ目は追いこまれた状況でないとその才能が発揮できないことだ。ひとつめはともかくふたつ目が問題だった。  エヌ氏は小さな盗みをくり返して生計を立てるのが一番だと思っている。しかし、民家に盗みに入るなど、いまでは目をつぶってでもできる。まったく追いこまれない。才能があるため、慣れてしまうのだ。こうなると、予期せぬ油断が発生し、最悪の場合捕まってしまう。  これは避けなければならない。必然的に前の一件よりも大きな獲物を狙うことになる。それがだんだんとエスカレートしていき、いまにいたるわけだ。どこまでエヌ氏の技術が通じるのかは、エヌ氏自身もわかっていない。 「それにしても立派なものですよ。どんな信念があればあのような行動を取れるのか、知りたいものですな」 「それはまったくそのとおりだ」  エヌ氏が同意した。どうしてこんな目になったのか、自分でもわからないのだ。だれか教えてくれるとありがたい。 〈了〉
/1ページ

最初のコメントを投稿しよう!

16人が本棚に入れています
本棚に追加