アカデミズム

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 朝早くから書斎に現れた彼は、部屋の真ん中に脚立を用意すると、おもむろに天井に糸を吊り下げ始めた。特注の脚立を使わなければ届かない、ゆうに二階層分は上にある天井である。始めは自分で脚立に登ろうとしていたが、三段ほど上がったところであっさり諦めた。彼は屋敷の使用人に天井から糸を吊るさせると、その先に金属の錘をつける。    天井から垂れた重たそうな錘が、ゆらりと揺れる。  ベネディクトは、しばらくは満足そうに糸の先を見つめていた。時計と見比べたり、机に広げた紙に何かを書き込んだりもしていたが、すぐに興味を失ったらしい。使用人達に代わりに錘の見張りをさせると、自身は本棚に掛けられたはしごの上で本を読み始めた。高いところが苦手なわけではないらしい。    普通の民家ならまるごとすっぽりと納まってしまうほどの広さのあるこの部屋を、書斎と呼べるのはベネディクトくらいのものだろう。部屋の四方を埋める本棚には、ぎっしり天井まで本が詰まっている。そこには各分野の専門書から、子供向けの絵本までが揃っていた。   「何をやっているの」    ゆらゆらと揺れる錘を見つめながら、私は聞いた。  天井から糸が下がっているだけの代物に、大の大人が二人も張り付いて観察していた。じっと錘を見つめる使用人が一人と、何かを書き込んでいる使用人が一人。ただただ真剣な表情で、揺れ続ける振り子を睨んでいる。  ベネディクトの答えは、的外れなものだった。   「論文を読んでいる」  視線も上げずに言った。確かに彼は論文、か何かはわからないが、冊子のようなものを読んでいる。表紙に書かれた文字は、何語なのかもわからない。 「そうじゃなくて、吊り下げてるこれは何なのよ」 「重力加速度を測定している。重力加速度というものは、地域——厳密にいうと緯度によって差があるらしい。正確に計測するためにはもっと高い場所から吊り下げるのが理想なのだが、残念ながらこの家で一番高い天井がここだったんだ」    彼の口から飛び出した呪文に、私は軽く眉を上げる。ただそれだけの表情だったが、それだけでべネディクトは私の無知さを思い知ったらしい。淡々とした口調で、説明を追加した。   「振り子の周期から重力加速度を求めるんだ。振り子は重力で動いているからな。揺れ幅が小さければ、振り子の揺れの周期は重さや振幅に関係なく一定になる。周期は支点から重心までの長さと重力加速度にのみ影響されるから、距離と周期さえわかれば、重力加速度が求まるだろう?」    だろう? と言われたところで返答が出来るはずもない。  右耳から入った彼の言葉は、私の頭の中を綺麗に素通りして左耳に抜けた。聞いたことも無い言葉ばかり並べられても、頭に入ってくるはずもない。だいたい、じゅうりょくとは何なんだ。  彼はそんな私の胸中も読み取ったのか、更に言葉を続けた。   「重力加速度とは、文字通り物体に働く重力によって得る加速度のことだ」    惜しい。私が聞きたかったのはそれより手前、重力とやらの方である。  ——が、聞き返してもどうせ分からない単語を並べられるだけだ。私はベネディクトから視線を外して、振り子に戻した。ゆらゆらと細かく揺れる振り子を見ていると、催眠術にでもかかりそうである。まだ、催眠術の研究をしていると言われた方が理解できるだろうか。   「分からないなら、理解する必要はないが」    心底、どうでも良さそうに言われた言葉に、わたしはむっとする。  私に特別、学が無いわけじゃない。彼が学と金と暇を有り余るほど持て余しているというだけである。金を持て余して本を買いあさり、暇を持て余して本を読み漁っていれば、そりゃあ多少の知識くらい手に入るだろう。  言い返そうとしたところ、彼は唐突に話題を変えてきた。   「それより、レイン。この論文を読んだことがあるか?」    レインと言うのは私の名前だった。ソフィア・メーヴィス・レイン。彼は私の事をソフィアと呼んだりメーヴィスと呼んだりレインと呼んだりする。気分によって変えているのか、何か法則があって変えているのかはわからない。どれか一つにすれば良いのにとは思うが、別段、困るものではないから放っている。  ちなみにアルフレド・ベネディクト・ベラスコのことを、私はベネディクトと呼んでいた。それが一番、語感が良いと思うからだ。他に彼のことをベネディクトと呼んでいる人を見たことはなかったが、この呼び方に対して、彼も特に何も言わなかった。別に困るものではないからだろう。   「その論文どころか、どの論文も読んだこと無いわよ」  べらぼうに大きな書斎には、ベネディクト曰く「論文だけで一万以上ある」らしい。が、同じ数だけある小説や歴史書に出すことはあっても、何語で書かれているかさえ分からない論文とやらに手を出すことは絶対にない。  ベネディクトは梯子から降りてくると、薄っぺらい冊子を手渡してきた。首を傾げながらも、一応は開いてみる。絵が入っているわけでもなく、なにが書いてあるのか想像もできない。   「何が書かれているの?」 「魔女の殺し方」    さらりと告げられた言葉に、私は思わず論文を彼に向かって投げつけた。それはベネディクトの胸に当たったが、なにせ薄い冊子である。彼は平然と床に落ちた論文を拾い上げると、わざとらしく埃を払う仕草をした。が、使用人が毎日三人がかりで磨き上げている大理石の床に、そうそう埃がたまっているわけもない。  彼はくつくつと楽しそうに笑った。   「自分の死に方に興味はないのか?」 「あいにく、そんな悪趣味なものに興味はないわね」 「ふうん? それは羨ましいな。人間はどうしたって存在の原理を探求しつづける生き物だ。存在の探求とは、翻せば死の探究に他ならない」  人間を語るその男は、だが、どこからみても標準的な人間には見えなかった。どこの普通の人間が、こんなばかでかい屋敷に一人で住んで、死の探求をしているだろうか。 「生きてるうちから死ぬことを考えて何が楽しいのよ」 「死があるからこその生だ。死のない生には、何の意味もないとは思わないか」    薄いレンズの向こうから、青い瞳が私を見つめた。  色白で端整な顔立ちをしている彼には、眼鏡が良く似合う。どこかの研究者のような怜悧さが漂い、もともと賢そうに見える顔が普段の何倍も賢く見えた。——が、彼の眼鏡は完全にダテである。前に視力が悪いのかと聞いたとき、書斎には眼鏡が似合うから、というふざけた答えが帰ってきた。実際、書斎以外で彼が眼鏡をかけているのを見たことがない。  何にせよ、私は眼鏡の奥の青に向けて笑みを返した。   「不老不死の秘薬を飲んで、死にかけたのは誰だったかしら」    人間は愚かな生き物である。不老不死なんてふざけた夢を、目を開けたまま見る。  彼は先日、見るからに怪しげな商人が持ってきた、見るからに怪しげな"不老不死の秘薬"を飲んで死にかけたばかりだった。熱を出して三日三晩うなされたあげく、医者に「今夜が峠です」とまで言われていたのだ。  論文なんかを読み漁っているくせに、なんて非論理的な人間なのだろう——その時はそう呆れたが、もしかしたら彼の家にある論文は全て「魔女の殺し方」みたいなくだらないものばかりなのだろうか。  彼はまた、楽しそうに笑った。   「好奇心と無縁の生にも意味が無いだろう」 「それで死んだら、それこそ意味無いじゃない」 「好奇心は猫を殺す。だが、退屈は人を殺せるよ。人類にとっての謎が刻々と解明されていく論文を読むのも楽しいが、解明されないだろう謎に足を突っ込むのも面白い」 「そうして棺桶にも足を突っ込むのね」    ため息をついて、彼を見上げる。わたしが上を向いて、首が痛くなるほどに彼は背が高い。というか、普通はいくら背が高くとも、首が痛くなるほどには近づかないものだと思うが、彼は一般的な人間の距離感というものが分かっていない。   「あの不老不死がそんなに大層なもの? 誰も引っかからない下手なペテンに、貴方が引っかかったってだけでしょ。あのペテン師の方が驚いてるんじゃないかしら」 「だが、私はまだ生きている。衰えてもいない。もしかしたら、本物の薬だったかもしれないだろう」    彼は自分の胸を指して、楽しそうに笑う。確かに、まだ彼は死んでいない。不老不死の薬がニセモノだったと言う証拠は無い。私は呆れたような顔をして見せた。   「そう。百年後が楽しみね」 「そうだな、私も楽しみにしている」    ——前言撤回。彼はアカデミズムとは縁遠い人間である。  私は肩を竦め、壁際に身を寄せる。足首に付けられた鎖が、じゃらりと冷たい音を立てた。
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