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春の嵐は過ぎ去り、桜も花開き始めた。
予定の無い日は公園を通って帰るようにしていたが、そうそうドラマの様にはいかず、りんごには会えずにいた。
同僚の岡本は日増しに元気を無くして行くが、俺はまだ永井昴の居場所を言えないままだ。
岡本は普段から抑揚もなければ、無愛想で、感情を顔から読み取れる様なタイプでは無い。
だが俺は昔から、人の顔色だけは読み取れる。
本心なのか、嘘なのか、読み取れるからこそ誰に対しても適当にあしらう癖がこびりついている。
ぶっきらぼうでも、嘘をつかない岡本は、社内で唯一警戒心を抱かずに済む相手なのだ。
「おい岡本、大丈夫か? 真っ青だぞ……」
「悪ぃ、ちょっとトイレに行って来る」
大丈夫だと無理な笑顔を見せられて、肩を叩かれる。
あぁ、もう限界だと思った。
具合を悪くするまで誰かを想った事など俺には無い。
でも、俺が言う事に意味があるとりんごは言った。
トイレではなく屋上に行ったであろう岡本を追いかけ、俺は永井昴の居場所を岡本に告げた。
傷付けると分かっていながら……。
岡本は、「そりゃ言いにくい事言わせたな、すまん」と無表情で言った。
それ以外は何も言わなかった。
泣くほど好きな女が死のうとしている。
俺にどんな気持ちで「すまん」なんて言えたのか……。
さっきまで泣いていたのに。
こいつは本当に素で男前なのだ。
相変わらずの無愛想ぶりで淡々と我を忘れた様に仕事をこなすと、岡本は自宅に向かって歩いて帰った。
彼がどうするかはまた別問題――――。
りんごの言葉が頭を過ぎる。
「そりゃそーだ……」
俺は独り言をこぼして、公園に向かった。
何だか無性にりんごに会いたくなった。
夕暮れ時の鈍色の空が刻々と帳を下ろす。
いつかの野良猫が、今日は違う誰かの足元に擦り寄ってゴロゴロと喉を鳴らしている。
「誰でも良いんだな……。当たり前か……」
ベンチの背に反っくり返ると、真上から見下ろすりんごが居た。
「うわっ……りんご、ちゃん?」
「35歳のおばさん捕まえて、りんごちゃんは無いわぁ……」
りんごは怪訝そうに腕を組んだまま俺を見下ろして苦笑した。
実際ちゃんなのか、さんなのか、一度会っただけの俺に分かる訳も無く、5歳も年上なのかと驚いたくらいだ。
「じゃあ、りんごさん……」
「もっと嫌っ」
この女は……。何なんだ。
首が痛い。
反り返ったまんまの俺は「あ、そ……」と素っ気なく答えて体制を戻した。
「りんごで良いよ。距離があんの嫌なのよね……面倒臭い」
自然に隣に腰掛けて、今度はりんごが反っくり返る。
距離が近い方が面倒臭いから、みんな距離を図ったりするんだろうが……変な女だ。
「猫に振られて落ち込む男も初めて見たわ」
「また盗み聞き?」
「不可抗力よ、声掛けようとしただけ……京平君に」
「俺だけ距離置かれんのは面倒なわけ?」
「年上の気遣いよ」
「いらねぇ……」
このテンポの良いやり取りが、心地好い。
りんごは良く見るとカフェオレ色のモッズコートの下にエプロンを掛けている。
クラッシュデニムの足元は白いスニーカーだ。
「仕事中?」
「んぁ、ちょっと休憩。今夜は徹夜になりそうだからね……」
「徹夜!?」
そうよ、薄く笑うりんごは夕暮れの薄明かりの中でベンチの背もたれに肘を付き、長い黒髪をうっとうしいと掻き混ぜる。
「ちょっと、待ってな」
俺は公園の出入口にあった自販機を思い出して、りんごにりんごジュースを買い与えたい衝動に駆られながら、微糖コーヒーのあったかいのボタンを二回押した。
「ほれっ」
缶コーヒーを差し出す。
「うわぁ……京平、最高~」
疲れた声で本気で喜ぶ。
缶コーヒーでこんなに喜ばれて良いものだろうか。
「仕事、大変なんだな……」
「んー? 仕事は何だって大変でしょ」
あっけらかんと、当たり前の様にバッサリ切られる。
「あ、そ。何してんの?」
「ウエディングドレスとかタキシードとか作ってる」
りんごはコーヒーを結構な勢いで飲んで、また大きく息を吐いた。
香ばしいコーヒーの香りが俺の鼻先を流れる。
想定外の答えに「はっ?」と間抜けな返しをすると、無言で「何が?」
みたいな顔をされた。
「作ってんの?」
「そだよ?」
「へぇ……すげぇな」
単純に驚いている俺を見て意味が分かんない、とケラケラ笑う。
職場がこの公園の近くで時々休憩に来る事や、今日中に仕上げなければいけないドレスの話を、明らかに疲れてるのに、楽しそうに話す。
そんなりんごの顔は綺麗だけれど、初めて見た日より、どこか幼く見える。
「さて、働くかぁ……」
コーヒーを飲み干すと、少し離れたごみ箱に、慣れた手つきでポイッと缶を投げた。
「ねぇ……、拾った猫に鈴は付けても良いもん……?」
「……?」
ちょっとした沈黙。
口をついて出た台詞は今更消えはしない。
りんごとの時間が欲しかった。
ただ、そう、今までに無い感情に自分が振り回されていた。
「ちゃんと飼えんの?」
意外な返しに、こっちも沈黙……。
まるでご飯も散歩もあるのよ、と言いた気な雰囲気だ。
「ご飯と散歩くらいなら」
「じゃれて遊んじゃくれないのね?」
「それは飼い主の特権でしょ」
「逃げたら?」
「探すよ、見つかるまで。ビラ配るし……」
ちょっと躊躇ったかのように見えたりんごは、ポケットから携帯を取り出し「番号、言って?」と伏し目がちに笑った。
俺が空で唱えた数字を押してワンギリした後、「明日の夜までは連絡取れない、じゃあね」と何事もなかったかの様に去って行く。
細い背中を見送りながら、淋しかったこの間の夜とは違う、余韻が残る。
携帯の着信に残ったりんごの鈴。
また会えると言う喜びを知り、岡本の「また会える」がどんなに大切なものだったかを知る。
そして、それがどれだけ酷な選択かを、思い知る。
「逃げたら……」
岡本の現実が、俺にふりかかって来たとしたら……。
俺は、もっと早くに岡本に言えばよかったと後悔しながら、りんごに会えてよかったと不釣り合いな感情を抱えて、夜を連れて来る冷たい風と一緒に家まで歩いた。
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