ヴィルヘルミナの麗人2

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ヴィルヘルミナの麗人2

 私が登校中に恐ろしい体験をしてから二週間ほどが経ったある日、学院に一人の転入生がやって来た。その転入生の登場で学院の生徒たちは色めき立った。白蘭女学院ではたまにあることなのだが、かなりの美貌を持った生徒が転入してきたらしいのだ。在校生はそのたびに毎回色めき立つ。私たちくらいの年代の女子は美しく儚い上級生に疑似恋愛、あるいは本当の恋心を抱くものだ。入学当初、そんなことを隣の席の女生徒が言っていた。  残念ながら私はまだそういう気持ちになったことがない。だから正直それがどういう気持ちなのかよく分からない。今年入学したばかりの私は、恋愛どころかこの学院の仕組みもしきたりもまだよく分かっていなかったのだ。  うわさ好きな級友などは、上級生の誰様とすれ違っただとか、誰様に微笑みかけられただとか、驚くほど毎日、目まぐるしい感情の起伏を私に見せてくれていた。この先まだ六年間もこの学院に通うというのに、そんなに些細なことで一喜一憂していたら心も体もどうにかなってしまうのではないかと思う。  うわさの転入生は、どうやら四年生らしい。耳ざとい級友が得意気に話しているのが聞こえてきた。一部の生徒たちの間では既に「御前様(ごぜんさま)」という風に呼ばれているそうだ。「恐らく古典部あたりの生徒が言い出したのだろう」と級友は言っていた。なるほどそう言われればいかにも古典部らしいセンスだとも思える。  実はこのような呼び名で呼ばれている上級生は「御前様」の他にも数名存在する。「櫻の君」だとか「恋姫様」だとか、一体誰がいつどこで名付けているのか誰一人として知らないのだけれど。私はそれらの有名人についてもまだよく分かっていなかったので、級友の話についていけなくなることも多々あった。  だが私にも言い分はある。ほら、例の二週間ほど前に見た恐ろしい事件。あの事件のせいで心が乱されていたのだ。とても級友とそんな浮ついた話ができるような精神状態ではなかった。本当にあの女性が殺されたのかどうかは分からない。それを確かめる勇気は臆病な私にはなかった。もちろん誰かに話す勇気も。幸か不幸かどこからもそういう事件があったという話は聞こえてこなかった。だが今でも私は思うのだ。あの麗人がどこかから私を見ているのではないかと。猜疑心に押し潰されそうになる。それほど私の心は恐怖に支配されていた。  白蘭女学院には六年間の就学期間が設けられている。一年生から三年生までは中等教育を、四年生から六年生までは高等教育を学ぶ。基本的に中等科と高等科で校舎は別になっており、わざわざ足を運ばない限り一年生の私がそのうわさの転入生の姿を見ることはない。そして今の私はとてもそんな気分ではない。級友は騙されたと思って一度一緒に覗きに行ってみないかと誘ってくれたが、やはり私はどうしてもそんな気分にはなれないのだった。  不思議に思ったのは、今まで一度も学院のことなど尋ねてきたことがなかった父が、どういうわけだか「御前様」についてだけは私に尋ねてきたことだ。父はなぜか「御前様」のことを知っていた。華族の集会で誰かから聞いたのだろうか。確か「御前様」は男爵位の出自だと言っていた。会合で新しくやって来た華族の話題が上がってもおかしくはない。 「七星、今度学院にやって来たという転入生の様子はどうだ?」  父はどうして「御前様」の様子などを気にしたのだろう。私が「おうわさは聞いておりますが、お会いしたこともないし様子を尋ねられてもお答えのしようがありません」と答えると、「そうか」とだけ言った。あの会話は一体何だったのだろう。  父は華族としての名誉や誉れをたいそう重んじる人物で、また尚武の精神なども常日頃から強く私に説いていた。私が射撃部に入部したのもそういう父の強い影響があったからだと言える。  一方母は絵に描いたようなお嬢様だった。父はよく私に言って聞かせたものだ。母の時代はそれでもよかった。だがこの先は恐らくそういうわけにはいかない。今よりも多くの女性が世の中に進出する時代になるだろう。むしろそういう世でなければいけない。だからその時のためにも自分自身の手で道を切り開くことができるように一つでも多くのことを学べと。  あ、もしかしたら「御前様」は父の友人の娘なのだろうか。それで私に様子を尋ねたりしたのだろうか。それならば納得がいく。もちろん私が納得したところで、父を満足させられるような答えが私にできるわけでもないのだけれど。  いや、待て。それはそもそもおかしな話だ。父は立派な人物で当然私は尊敬もしているけれど、男爵位の出自である人間と会話するような人物ではない。そう、いわゆる典型的な爵位差別主義者なのだ。当家は侯爵位。最も爵位の低い男爵位の人間などと交流するはずがない。つまり先ほどの私の推論はあり得ないということだ。ではどうして父は「御前様」のことを私に尋ねたのか。また最初の疑問に戻ってしまう。これはどうやらいくら考えても答えが出ることはないようだ。私は考えるのをやめた。  放課後、射撃部の教練場に向かうと、部室では既に主将が射撃服に着替えていた。他の部員はまだ誰も来ていないようだった。 「七星、ごきげんよう」  私もあいさつを返す。部活動の準備は私を含め新一年生の分担となっていた。だから私はいつも授業が終わると急いで部室にやって来る。部室は毎日主将が解錠してくれることになっていた。鍵を管理しているのが主将だったからだ。つまり必然的に主将は私たちよりも早く部室に来なければいけないのだ。不自由な仕組みだと思ったが昔からそういうことになっているらしい。  主将は学院ではかなりの有名人だった。伯爵位の血統で出自もしっかりとしていらっしゃる。成績は優秀でその動きの全てに品がある。何より美しい。学生のみならず華族や政財界の大人たちからの評判も良かった。  主将は射撃部でもその存在感をいかんなく発揮していた。その長い黒髪をまとめ上げて凛々しく的を狙う様は、多くの下級生たちの心を虜にしていた。例の級友などは一度でいいから撃ち抜かれたいなどと訳の分からないことを言っていた。  射撃の腕前も申し分なく、「幕末のジャンヌ・ダルク」だとか「ハンサムウーマン」などと呼ばれた新島八重(にいじまやえ)の生まれ変わりだと言う生徒もいたほどだ。ちなみに主将は八重と同じ敬虔なキリスト教徒でもあった。 「兄がまた武勲を挙げたらしいわ」  主将の兄上は、我が帝国軍の俊英部隊である第一航空戦隊。いわゆる一航戦(いっこうせん)の一員として前線で活躍しているという。主将にとって兄上は他の何物にも代えがたい唯一無二の誇りだった。本人は気付いていないけれど、兄上の話をされる時の主将は少し優しいお顔になる。かわいらしい表情をする。そこには年相応の少女が垣間見える。年下の私にそんなことを言われたくもないだろうが。 「主将の兄上は本当にご活躍ですね」 「ええ。もう長い間会っていないけれど、次に戻ってくるときが楽しみだわ。そのときはぜひ射撃部の皆にも紹介したいわ」 「ええ、それはもちろん、ぜひ」  本当に兄上の話をするときは楽しそうだ。まるで恋をしている少女のようだ。銃を撃つときにはあんなにも凛々しいというのに。  私は主将の隣に腰を下ろし、自分の小銃の調子を見ることにした。部員にはそれぞれ自分専用の小銃が配備されている。他の生徒の銃は基本的に触らない。各々で微妙に調整が異なるし、自分の銃に触れられることを嫌う生徒もいる。だから基本的に入部した後に与えられた銃は自分で整備し、卒業あるいは他の理由で退部するまで使用し続けることになる。主将に言わせると、銃も長い間使っていると愛着がわき、かけがえのない存在になってくるのだそうだ。私はまだその境地には程遠い。 『そのうちにきっと七星にも分かる日が来るわ。もっともその頃には私はここにはいないでしょうけれど』  いつだったか主将はそう言って笑った。はっきり訊いたことはなかったけれど、主将が射撃部に入部したのは、恐らく優秀な軍人である兄上の影響があるのだろう。私が父の影響で入部したのと同じようなものだろうか。そう考えると少し親近感がわく。私もいずれ主将の様にうまく銃が撃てるようになるだろうか。できれば人を撃つことは避けたいものだが。 「そういえば今日は皆に話があるのよ」  話? 何だろう。私が整備の手を止めて見ると主将は言葉を続けた。 「先日転入してきた生徒のことは知っているかしら?」 「それは『御前様』と呼ばれている方のことでしょうか?」 「ええ、そうよ。やはりもう聞き及んでいたのね」 「うわさを耳にしただけですが。おきれいな方だとか」  主将は満足そうに微笑んだ。どういうことだろう? 「もうすぐここに来るのよ」  それはどういう意味だ? 恐らく私はあからさまに要領を得ない顔をしていたのだろう。主将はその言葉の意味を解き明かした。 「彼女は射撃部に入部することになったのよ」  何と! ここ最近毎日と言っていいほど級友から話は聞かされていたけれど、実際には一度も会ったことのないうわさの転入生。この先も私からわざわざ会いに行くことはなかっただろう。だが図らずも相手の方から射撃部にやってくるとは。級友の悔しがる顔が目に浮かぶ。同時に級友から質問攻めにあう私の未来も見えた。少し憂鬱だ。 「かなりの腕前らしいわ」 「でも主将ほどではないのでしょう?」 「うれしいことを言ってくれるけれど、私より腕がいいかもしれないわ。部にとってはその方がありがたいけれどね」  確かに部にとってはそうだ。だが果たしてそれは本当にそうなのだろうか。私はまだ会ったこともないうわさの転入生が主将の王国を脅かすことに漠然とした危機感を覚えていた。誰かに負ける主将は見たくない。  そのとき入口の扉が開き一人の生徒が顔をのぞかせた。私はその生徒を見て思わず息をのんだ。 「おや、少し早かったですか?」 「いいえ、構わないわ。そのうちに皆も来るでしょうから」  私は目の前の生徒から目が離せなかった。息をするのも忘れてただひたすら彼女の顔を見続けていた。主将との会話からも、この生徒がうわさの転入生「御前様」なのだということが分かる。うわさ通りの美麗な顔をしていた。いや、うわさ以上と言っても過言ではなかった。だがそんなことはどうでもいい。私の頭の奥では不協和音が断続的に鳴り響いていた。口の中がひどくざらついていく。視線は今も外すことができない。  その生徒は二週間前に暗い小路の奥で女性を殺害したあの麗人だったのだ。 「君、名前は?」  御前様は私に微笑みかけた。あの時と同じ微笑みだった。 「な、七星です。七星と言います」  私はようやくそれだけを返すことができた。殺人犯に名前を教えても良かったのだろうか。すぐに後悔と疑念が押し寄せてきた。仕方がないという言葉を私は頭の中で何度も繰り返した。誰に対しての言い訳なのか。何が仕方ないのか。 「へえ、七星というのか。素敵な名前だね。では七星、私から君に一つ質問だ。君はいつも私のことを見ているね。その理由を教えてくれるかい?」 「え? それは……」  御前様は何を言っているのだろう。私がいつも見ているとはどういうことだ。あの日のことを言っているのだろうか。私は混乱した。  先ほどとは逆で今度は御前様が私から視線を外さなかった。真っすぐ私を見つめている。私はその視線から逃れたいのに逃れられなかった。どうすればいい? 駄目だ、逃れられない。 「それはあなたが美しいからでしょう」  そう言ったのは主将だった。張りつめていた空気が一気に緩和していく。 「ふーん、それだけ?」 「あら、美しいという言葉は否定しないのね」 「光栄に思っていますから。それに主将は嘘を吐くような方じゃない」 「これは下級生が騒ぐわけね。あなたは言葉を掛ける相手を選んだ方がいいわ。射撃部主将として一応一言忠告しておくわね」 「肝に銘じておきます」  御前様はそう言って一礼した。どうやら私がこれ以上詰問されることはなくなったらしい。私は主将に救われたのだ。ほっと胸をなでおろす。しかしそのとき私の心の中に、不意に両雄並び立たずという不穏な言葉が浮かんだ。それは何一つ明るい見通しのない言葉で、私の心を不安にさせた。  御前様が射撃部に入部してきたのは偶然なのだろうか。主将の話ではかなりの腕前だと言っていたので、以前からそういう環境にはいたのだろう。今の時世なら珍しくもない。  私を追ってきたという可能性はあるのだろうか。そう考える方が普通なのではないだろうか。私を始末するために? いや、待て。それなら何もわざわざ学院に転入したり射撃部に入部したりする必要はない。どこかの暗い小路で始末すればいいだけの話だ。それこそあの日のように。ならば他に何か目的があるということだろうか? だとしたら一体それは何なのか。皆目見当もつかない。  御前様の方にちらりと目をやると、それに気付いた御前様が優しくニコリと微笑んだ。私は目の前で起こっている出来事に頭が付いていかなくて、表情をなくしたまま御前様の美麗な顔を見続けることしかできなかった。そこには御前様への恐怖心以上に私を束縛する何かがあったような気がした。もちろんそれが何なのか私には分からなかった。
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