ヴィルヘルミナの麗人1

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ヴィルヘルミナの麗人1

 また姉の夢を見た。  どこか見覚えのある、しかしどこなのかは分からない薄暗い場所で私は姉を追いかけていた。どこかの路地のような気もする。しかしどこなのかは分からない。姉はどこへ行こうとしているのだろう。私の方など一度も振り返ることなく、ただひたすら真っすぐに歩いていく。少し早足なので急いでいるのかもしれない。  姉の首から上は薄暗く(もや)が掛かったみたいにはっきりとしない。そこに顔は見えない。それでも私には今目の前を急ぎ足で歩いている人物が姉だということがはっきりと分かる。  どうして?  あなたはそう疑問に思うだろうか。そんなもの答えは決まっている。姉妹とはそういうものだからだ。  昔から姉妹や兄弟、双子にはよく言われていることだ。どんなに離れていても私には姉に起こったことが分かる。いや、分かるというのとは少し違う。こんな安易な言葉で片づけてしまうのは不本意だけれど、感じるという言葉が一番近いような気がする。本当に不本意だけれど。  しかし姉はどこまで行くのだろうか。実は夢の中で姉を追いかけるのは、先ほどまたと言ったように今回が最初ではなかった。何度姉を追いかけてどこなのか分からない薄暗い場所を走ったことだろう。私は今までただの一度も姉に追いついたことがなかった。どんなに一生懸命追いかけても姉の背中は小さくなるばかりだった。そして最後にはいつも見失ってしまうのだ。  私は姉の夢を見るたびに今度こそはと心に誓う。毎回誓うなど何と安い誓約だろう。果たしてそんな安い誓約に意味があるのだろうか。だが私は何かに誓わなければ、もうこれ以上姉を追いかけることができなかった。追いつけないと分かっているからだ。恐らく今回も追いつけない。いつものように姉は私を置いて一人で行ってしまう。私は心のどこかでいつもそう思っていた。  それでも私は一生懸命姉を追いかけた。もうすっかり見慣れてしまった小さな背中を。首から上は、やはり靄が掛かったみたいにうす暗く塗りつぶされていて何も見えない。  そういえば姉はどんな顔をしていたのだろう。誰もが心穏やかになるような優しい顔だったか。あるいは誰もがうらやむような美麗な顔だったか。私は姉の顔を思い出せずにいた。いや、そもそも私は姉の顔を見たことがあったのだろうか。そこまで考えて一つはっきりとした思いが私の中に生まれてきた。それはこのどこなのか分からない薄暗い場所に、ある意味最もふさわしい思いだったかもしれない。  私には最初から姉などいないのだ。  皇紀(こうき)二六〇三年、米帝との戦争は激化していた。  我が国は各方面で勝利を重ねており、その報が届くたびに私たち臣民は喜びの声を上げた。士気は高まり、決して厭戦気分に陥ることなどなかった。だが私たち学生は有事の際に備えて各自研鑽を積んでおく必要がある。というのは父の受け売りだけれど。  駅の改札を抜けると、いつものように私と同じ白い制服を着た女学生たちが何組も通りを北へ向かって歩いていくのが見えた。私も数人に「ごきげんよう」と微笑み、殉教者のごときその女学生たちの列に加わる。駅前から北へ向かって伸びているこの大通りが突き当たるところに私たちの学院――白蘭(びゃくらん)女学院――がある。  華族や政財界の大物の子女が多く在籍する白蘭女学院は、六年間を通してあらゆる学問を収めるミッションスクールとして広く世間に知られている。かといって私を含め生徒の多くはキリスト教信者ではない。その教義の履修は必須となっているが、この学院の存在意義はそこにはない。この学院は特権階級の子女らにそれなりの肩書きを付けるために存在しているのだ。もちろん有力な華族により多額の寄付がなされていることは言うまでもない。  私たちが身に纏っているこの真っ白な制服は、帝都の女学生たちにとっては憧れの的だった。羨望の眼差しで見られているのを感じる時、私は少し優越感を抱く。私個人の力だけで学院に入学したわけではないというのに。学院は出自や血統で自分の席を得ることができる場所だ。大半がそういった家柄の生徒だろう。しかしそれも人の持ち合わせた運命というものではないだろうか。私はそう思うのだ。  学院の生徒が外部の人間に対して優越感を感じるように、内部においても生徒間での順列は存在する。残酷なくらいにはっきりと。華族であれば爵位がより上位の家系の生徒の方が優位に立つ。愚かで馬鹿らしいことだと思う。こんな小さな世界の優劣に何の意味があるというのだろう。そのくだらない虚栄心が逆に自らを貶めているとは考えないのだろうか。それともそれは私が侯爵家の血統を有する上位華族だから言えることなのだろうか。 「七星(ななほし)さん、ごきげんよう」 「ごきげんよう」  私は自分に向けられた言葉にそつなく微笑みを浮かべる。  その時、一瞬だけ視界の隅に何かが見えた。それは得体の知れない違和感だった。  何だ? 私は違和感の正体を確かめるべく歩みを止めてそちらに目を向けた。  そこはまるでどこかで見たような、しかしどこなのか分からないひどく薄暗い場所、闇の奥へと続く小さな小路だった。  私はこの小路を知っている。  この小路は夢の中でいつも私が姉を追いかけていた、あのどこなのか分からない薄暗い場所だ。今まで気付かなかったが、この小路はずっとここにあったのだろうか。ふと私の頭の中にひどく現実離れした考えがよぎった。  この小路を進んでいけば、私は姉の行き先を知ることができるのではないだろうか。  それは本当にひどく現実離れしていて何の根拠もない考えだった。だがなぜか私にはとても理にかなった考えであるような気がした。私は誘惑に勝てず、薄暗い闇の中へ足を踏み入れるために殉教者の列から離れた。  ドクン。  今まで生きてきた中で一番大きく心臓が脈打つのを感じた。私の鼓動はこんなにも大きかっただろうか。どうして私はこんなにも怯えているのだろう。この小路の先に一体何があるというのだろう。私はそれが知りたい。だが私は既にそれを知っているような気もする。  勇気をもって闇の中へ歩を進める。すると誰かの背中が見えたような気がした。さらに進むとやはり誰かが歩いている。一人? いやその誰かの前にももう一人いる。白の衣服ではないから学院の生徒というわけではなさそうだ。二人連なって何だか不自然な格好で歩いている。一体何をしているのだろう。ここからは良く見えない。  この小路はひどく薄暗い。両側に大きな建物が並んでいるせいだろうか。それは本当にまるで闇の中にでも続いているようで不気味だった。特に理由もないなら、わざわざここを通行しようとは思わない。この暗さは人を不安にする。婦女子なら一人で足を踏み入れることをためらう。  私の手は制服の内ポケットに入れてある拳銃を握っていた。今のような不安定な状況、戦時下において、いつどこでどんな不測の事態に巻き込まれるかもしれないと父が私に持たせたものだ。自分の身は自分で守れ。あるいは自分の尊厳は自分で守れという意味だ。もちろん一度も使ったことはない。そのあまりに冷たい感触に私の心はすっかり怯えてしまって指は震えていた。  何度目かの角で前を歩いていた二人は止まった。これから二人は何をするのだろう。私も立ち止まり、暗がりの中に意識を集中させる。  何か話しているようだ。ぼそぼそと小さな声が聞こえてくる。ここからでは遠すぎてよく聞き取れない。しかし不思議に思ったのは、二人が立ち止まった時のまま、前後に並んで会話をしていたことだ。そんなことがあるだろうか。二人は同じ方向を向いているのだ。普通では考えられない。だが現実には二人はその体勢で会話を交わしているのだった。  私はその時になって初めて気づいた。二人に首から上の部分が存在することに。全く意識していなかったが考えてみれば当たり前の話だ。これは私の夢の中ではないのだから。少しの安心感が私の中に沸き起こり、同時に私は苦笑した。  その瞬間それは起こった。  二人のうち前側にいた女性らしき人物の体が小さく少し跳ねたかと思うと、膝から崩れ落ち、そのまま前方の闇の中に倒れ込んでそれきり動かなくなったのだ。  何が起こったのか分からなかった。同時に何が起こったのか分かったような気もした。私が握っている冷たい感触がその答えを教えてくれたような気がした。それはひどく恐ろしい想像だった。あってはいけないことだった。だが他に考えられなかった。私は足がすくんで動けずにいた。  いけない。このままだといけない。やがてあの男は振り返り、この小路を元の大通りへと戻っていくだろう。だからここに私がいてはいけない。ここにいると見つかってしまう。そうだ、一刻も早くこの場を立ち去らなければ。でも体が言うことを聞いてくれない。拳銃を持っていても体がこんな調子では何の役にも立たないではないか。ああ、今はそんなことを言っている場合ではない。早くこの場から離れなければ。  そして目の前の男はゆっくりと振り返った。  その時になっても私の体は言うことを聞いてくれなかった。私は振り返った男を見て一層動けなくなった。  女の人だ。  男の人のような恰好をしているけれど女の人だ。それも今まで一度も見たことがないような美人だ。男装の麗人とでも言えばいいのだろうか。私の視線は彼女のその美麗な顔立ちにくぎ付けになった。世の中にこんなにも美しい人が存在するのだろうか。存在自体が夢物語であるかのようだ。私はつい先ほどまで感じていた恐怖心さえ忘れ去り、すっかり彼女に心を奪われていた。どのくらいの時間彼女に見とれていたのだろう。こんな事態になっているというのに私は何をしているのだろう。  やがて彼女はゆっくりとその美麗な顔を私に向けた。背中に冷たい汗が流れるのを感じた。彼女の背後の闇の中では、今はもう動かなくなった女性が静かに横たわっている。私も彼女と同じように地面に横たわることになるのだろうか。冷たい地面の感触を頬で感じることになるのだろうか。冷たい感触はこの指先だけで十分だ。  不意に目の前の麗人は暗闇の中で微笑んだ。恐らく私に対しての微笑みだろう。このタイミングでどうして彼女はそんな微笑みを私に向けたのだろう。しかし彼女のその微笑みで私にかかっていた呪縛は解けた。私は彼女に背を向けると、今歩いてきた道を一目散に走って通りに戻った。一度も後ろを振り返らなかった。背中から撃たれるかもしれないという不安が頭をよぎったが、実際には私は何事もなく大通りに戻ってきた。  大通りに戻ると世界は嘘のように明るかった。私は街灯に寄りかかり、肩で大きく息をした。まるで消耗した体力を取り戻すように。今起こった出来事がひどく一瞬であり、またものすごく長い時間だったような気がした。 「七星さん、ごきげんよう」  顔を上げると学院の教師が私を見ていた。生徒指導の教師だ。息を整えられず返事を返せないでいると教師はさらに言葉を続けた。 「はしたないですよ。そのように息を切らせて走るというのは。それがどれだけ我が学院の品位を貶めているのか分かっているのでしょうね」  そんなことは分かっています。けれどお言葉ですが、身の危険を感じたときにもあなたは同じことが言えるのですか?  頭の中ではそういう言葉が繰り出されていたが、実際には息が切れていてとても言葉にはならなかった。もちろん言うつもりもなかった。教師はしばらく呆れた顔で私を見ていたが、やがて息の整った私が「申し訳ありません。以後学院の名を汚さぬ振る舞いを心がけます」と言うと、「分かればよいのです」と言って去っていった。その顔には明らかに「それくらいのことは言わなくても分かっておくべきですがね」と書かれていた。  恐る恐る小路の方に目をやると、そこには薄暗くも何ともないありふれた小路があって、何人かの人が連なって歩いてきているのだった。その中には白い制服を身に纏った学院の生徒もいたが、あのこの世のものとは思えないほど美しい顔立ちをした男装の麗人の姿はどこにも見えなかった。  彼女は一体何者だったのか。私の頭の中には彼女が私に向かって投げかけた高貴で麗しい微笑みが焼き付けられていた。いっそこれも全部夢であってくれたらと願った。だがどうやらこの世界は現実らしい。いつまで経っても覚めてくれないのだから。
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