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ミュートにしたままのスマホには、頻度は落ちたものの相変わらずメッセージが届き続けている。
まだブロックに踏み切れないけれど、復縁は考えられない。
なのに、時間が経つほど綺麗な思い出が少しずつ美化されていくみたいで、気持ちが揺れる。
仕事にも集中出来なくてミスが続くし、嫌になることばかりだ。
「嘘でしょ……」
駅の改札まで来た所で、鞄の中に定期が入ってない事に気付く。
そうだ、今朝急いでいてロッカーの棚に置いたままだった。
今更会社まで戻るのも面倒だし、かといって今と明日の朝に電車賃を払わなければならないというのも嫌な出費だ。
「花蓮!」
急に腕を掴まれ顔をあげると、元彼が息を切らせて安堵の表情を浮かべている。
「え……」
突然の事に混乱していると、彼はわたしの腕を掴んだまま口を開く。
「良かった。連絡しても返事が無いし、もしかして俺のせいで倒れたりしたかと思って。花蓮の会社に連絡しても答えられないとか言うしさ」
「は?ちょっと、意味わかんない」
「大丈夫だよ、今度はちゃんと花蓮の事大事にするから。花蓮だって、返事よこさないのやり過ぎたって思ってるだろ?怒ってないからさ、俺。だから」
彼が何を言っているのか全く理解出来ない。
浮気して、お金せびって、他の女に貢いで、それで別れ話したのが冗談だって思ってるの?
「とりあえず、今日家来なよ。晩飯、花蓮の作ったシチューがいいな。そうだ、ホテルのベーカリーでパンも買おう」
「無理!」
思い切り手を振り払って距離を取る。
「何なの急に?わたしもう別れるって言ったよね?本当無理!」
大声で叫んだら、周囲から人が少し遠ざかっていった。
好奇の視線も集まるけれど、今は気にしてる場合じゃない。
「花蓮、落ち着けって。俺は怒ってないって言ってるだろ?」
「近付かないで!本当無理、最悪、もうやめてよ!」
何度振り払っても掴まれる。
段々彼も苛立ってきたのか、乱暴に腕や肩を引っ張られて痛い。
浮気男がストーカーになるとか、人生で最低最悪の厄日だ。
「乱暴はいけませんよ」
穏やかな声と共に、不意に痛みから解放される。
驚いて視線を上げると、加々地さんが彼の腕を掴み、反対の腕でわたしを支えてくれていた。
「加々地さん……?」
わたしにふわっと微笑んで見せた後、すぐに彼に視線を向ける。
仲裁に入った加々地さんを目をつり上げて睨む元彼に、身が竦んだ。
「おや?お電話が鳴っているようですよ。大事な御用件なのではありませんか?」
加々地さんがゆったりと首を傾げて彼の胸ポケットに視線を向けると、確かにそこから小さくバイブレーションの音がする。
彼は怯んだ様に数度視線を揺らし、スマホを取り出して画面を確認した後、耳にあてる。
「もしもし、あ、あぁ、いつもお世話になっております。はい……はい?え、今から……い、いえ、問題ありません」
トラブルがあったのだろうか?電話に出た彼は、顔を青くしながら冷や汗を拭っている。
「お忙しいようですし、僕たちは失礼させて頂きましょうか」
彼からわたしに視線を向けて、加々地さんはにっこりと笑う。
震える身体を支えてもらいながら、そっとその場を後にした。
「あの、ありがとうございました」
奢ってもらったペットボトルのミルクティーで手を温めつつ、加々地さんにお礼を言う。
なんだか助けてもらってばっかりだ。
「困っている人を助けるのも、神職の務めですから」
務め。うん、なるほど。確かに。神主さんだもんね。
ぎゅっ、と胸の奥が苦しくなった気がした。
「あの人があれです、あの、浮気男です」
「成程」
多分察していたのだろう。わたしの言葉にも、加々地さんの表情は全く変化がない。
「ちゃんと別れ話したのにずっと、やり直そう、反省したからって言われてて。ブロックしなかったのが良くなかったのかな……」
まさかあそこまで言葉が通じないっていうか、ストーカー化するとは思わなかったし。そうなるって分かってたら、もっと早くブロックしてたのに。
「天野さんは、これからどうしたいですか?」
加々地さんの言葉に、少し首を捻る。
どうしたい?それは、やっぱり。
「浮気男とはすっぱり縁を切って、出来るだけ早く次のいい人を見つ……じゃなくて、いい人と、結ばれたい、ですかね」
見つけたい。と言い掛けたのを訂正したのは、うん、ね?
わたしの言葉を聞いた加々地さんは、切れ長の目をすっと細めた。
「叶うように、僕も祈っておきます」
ふふ。と優しく笑われて、恥ずかしいような、むずむずするような、なんとも言えない気分になった。
それから加々地さんがタクシーをつかまえてくれた上に、断ったのにタクシー代まで渡されてしまって、どうやってお礼をするべきか悩む事になってしまった。
下心を見せず、迷惑にならないように、でもきちんと。って、すごく難しい。
調べよう。と思ってスマホを取り出したところで気付いた。あれだけ続いていたメッセージ攻撃がぴたりと止んでいる。
仕事のトラブルっぽかったし、それどころじゃなくなったのだろう。
元彼の事はもう考えるのをやめて、検索欄にお礼 お菓子と打ち込む。
頬が熱い気がするのは、タクシーの暖房が効きすぎていたからだと思う。
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