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「イサ、ちょっとつきあえ」
甥っ子に声をかけて道端に車を止めた。兄の息子。小学五年、いや六年だったか。時々買い物の手伝いをたのむ。独身の平課長には日曜くらいしか自分のことをする時間はない。それすら出張やら接待やらで軽く吹き飛ぶ。
だから甥っ子と街に出るのはいい息抜きになった。生意気な話を聞いていると、おかしくてかわいくて父親気分も味わえた。帰りがけにバイト代と言ってこづかいを渡す。兄貴たちには内緒だ。
「いいけど、どうしたのこんなとこで」
「ちょっと歩きたくなった」
ドアを開けると、びゅっと北風が吹きこむ。
「寒いなぁ、イサ」
「うん」
ダウンのジッパーを上げて手袋をはめた。イサはジャンパーのポケットに手を突っ込む。
「手袋は」
「わすれた」
ぶっきらぼうに答える。たぶんまた無くしたんだ。先月はマフラー、その前は帽子。俺がおぼえてるだけでも数えきれない。叔父としちゃ笑えるが、親だったら笑えない。
「どこ行くの」
「この道を歩いて、神社のあたりまでだな」
「へえ」
並んで歩きだす。冬枯れの景色に細い道が伸びる。舗装されてない農道だ。ゆるいカーブを描いて神社の森に続いている。両側には田んぼが広がって、日陰には朝降りた霜がまっ白に残っている。
道の端にはびっしりと霜柱が立っていた。イサはそれを蹴散らしながら歩く。飛び散る氷が陽の光にキラキラかがやく。ザクザクと崩れる音とその感触が気持ちよくて、子どもの頃は俺もよくそうして歩いた。
イサはじっとしていない。ちびのころからそうだった。ヒモでもつけとかないとどこかへ行ってしまう――義姉がよくなげいていた。本当にそうして児童相談所に通報されたこともあった。今では笑い話だ。
「靴汚すと怒られんじゃねえのか」
「だいじょぶ。靴は自分で洗ってるから」
「えらいじゃないか」
「ぜんぜん」
用水路の橋にさしかかった。欄干のない小さな橋だ。俺は橋の上で立ち止まった。
「水がないね」
「ここは冬はだいたい涸れてる」
「へえ。知ってるんだ」
「高校生んとき、よくとおったんだ」
「でも、家と方向がちがうんじゃないの」
俺たちにとって高校といえば県立笹和高校だ。よほどできるやつか、よほどできないやつが電車で遠くへ通う。俺も兄貴も笹和。たぶんこいつも。
「彼女んちがこっちだったんさ」
「へえぇ」
反応がいい。女子なんか関係ないって顔してそれ相応に興味はあるらしい。
「イサ、おまえは彼女いるのか」
「いないよ」
「ふうん。ほしくないのか」
「ほしくない」
「なんで」
「めんどくさ」
「じゃ、好きな子は」
「いるわけないじゃん」
言いながらみるみる顔が赤くなる。わかりやすいやつだ。
「どうしたんだイサ、なにあわててんだ」
「別にあわててなんかないよ」
口を尖らせている。かわいいもんだ。
「ここでな、自転車を止めてよく話したんだ」
「へえ。どんな」
「友だちのこととか、好きなテレビとかマンガのこととか。先生の悪口もよくした」
「俺たちとかわんないね」
「たしかに」思わず失笑だ。「彼女がな、神社まで行くと近所の人に見られるからって、ここで二十分も三十分も話してたよ。よく考えりゃ、こんな田んぼのど真ん中にいるほうがよっぽど目立つんだけどな」
たしかにと言ってイサも笑う。屈託のない笑顔だ。
「さて、行くか」
「うん」
神社の森に向かって再び歩き出した。二十年以上経ってもこのあたりの景色は変わらない。田んぼと森と空。変わるのは俺たちだ――いや、俺は変わったと言えるのか。
森の手前で道は二手にわかれる。右へ行くと鳥居の前を通って彼女の家に続く。左は森の北側を抜けて国道につながる道だ。
俺とトモミはここでも立ち止まった。
トモミとは二年から同じクラスになった。美人というわけではなかったが、きれいな声をしていた。透きとおったまるみのある声でスズキトモミですと自己紹介した。
その声は体育館でよく聞く声だった。バレーの練習コートからバスケのコートに届いてきていた。二年になると後輩たちを励ます声になり、三年になるとチームをまとめる声になった。ときどき曇ることはあったが、その声が消えることはなかった。
トモミと初めてまともに話したのは三年の二学期になってからだった。それまで、化学の実験とか文化祭の係とかで言葉を交わすことはあったが、トモミも俺も奥手というか部活バカだったから、異性を相手に何をどう話していいかわからず、パクパクモゴモゴと口を動かしていただけだった。
放課後がやたらに長くなった。家に帰っても、学校にいてもすることがなかった。スポーツで大学に行く連中は後輩たちと練習を続けていたが、そんなのはほんの一握りだ。受験勉強でも始めればいいのだろうが、そんな気にもなれない。燃えつきをひきずってるようなものだった。
九月のある日、自転車置き場でトモミを見かけた。前カゴにカバンを入れているところだった。気合の抜けた顔をしていた。
「よお」
鏡を見ているような気がして、俺は思わず声をかけた。
「サワヤマくん」
顔を上げたトモミは声まで気合が抜けていた。
「いっしょに帰らねえか」
トモミはすこし驚いた顔をして「そうだね」とうなずいた。
その日からトモミを神社まで送っていくのが日課になった。
今ならきっと手をつないだり、肩を抱いたり、暗がりにまぎれてキスをする。トモミもそうしたいと思っていたことが今ならわかる。時々、急にだまりこんだり、暗がりで立ち止まることがあった――トモミのなかの女が俺にそれをうながしていた。
「サワヤマくんはどうするの」
「どうするって」
「大学。やっぱり、東京に行くんだよね」
「ああ。いずれ帰ってくるにしても、家を離れたい。スズキは?」
「あたしは、たぶん、県立の看護学校」
「そうか」
進学の者は来週までに最終出願先を提出するように、と担任に言われた日の夕方だった。俺たちは別れ道のところに来ていた。一月になっていた。
「いっしょに来い、とは言ってくれないんだ……」
「だってスズキ、おまえんち――」
「わかってる!」
トモミはさえぎるように言った。
「わかってるわよ、県外なんてうちには無理。あたしにも無理」
「帰ってくるよ、毎月かならず――」
「やめて!そんなの現実的じゃない。サワヤマくんの迷惑になる」
「迷惑なんかじゃねえよ」
トモミはだまっていた。夕陽を背にしたトモミの肩が小さく揺れていた。俺は手を伸ばすこともできず、バカみたいに突っ立っていた。
「ごめんね。あたし、すごいわがまま言ってる」
「そんなことねえよ」
「サワヤマくん、ありがとね。明日からひとりで帰る。さようなら」
涙声で早口にそう言うと、トモミはクルッと背をむけて鳥居に向かう道を走り去っていった。
森の向こうに夕陽が消えた。冬枯れの野に寒さが降りてきた。
それが直接トモミの声を聞いた最後になった。
「おじちゃん。タクおじちゃん」
「ん?」
「どっち行くの」
「あ、ああ、左だ。わるい」
「どうかしたの」
「自分の馬鹿さ加減を思い出してた」
「なに、それ」
なんでもないと言って俺は歩き出した。彼女とは歩かなかった道だ。田んぼと森の境をしばらく行くと道は左に折れて森に入る。森の中は空気までが凍りついたように冷たい。草も木も何もかもが動きを止めた世界だ。俺たちの乾いた足音だけが響く。
森を抜けると国道の往来が見える。農家の庭先に陽だまりができて猫がじゃれ合っていた。
さらに行くと道から少し逸れたところに、そこだけ時間がとまったような生垣に囲まれた一画が現れる。
「お墓?」
「そうだ」
俺はポケットから線香入れとライターを取り出した。
「もしかして、その彼女の人」
「ああ」
「死んじゃったんだ……」
「死んじゃった」
「だから、おじちゃん結婚してないんだ」
「そういうわけじゃないけどな」
俺は線香に火をつけた。
「きょうが命日なの?」
「命日は来週だ。いつ来られるかわからないから、来られるときに来てる」
手を合わせて、花がないことをわびた。
イサが俺もと言って線香に火をつけた。
いつもより白い煙が青い空にのぼっていった。
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