45人が本棚に入れています
本棚に追加
第1話 斜陽
《東京中華街》は旧東京都における豊島区と板橋区、練馬区、北区の一部を再開発して誕生した街だ。その影響力は足立区や荒川区にも及び、品川区を中心として支配域を広げている《アラハバキ》と長年、睨みあってきた。
その《東京中華街》の北端に、黒家邸は位置している。目も眩むばかりの高層ビル群が林立する《東京中華街》の中心部とは違い、貧しい民家がひしめいている地域だ。黒家邸の背後には《関東大外殻》が屹立しており、一日を通して日当たりも悪く、住環境は快適とは言えない。
実際、黒家邸は造りこそ見事な伝統的中華建築だが、周囲を苔や雑草に覆われ、家の壁はひび割れてツタが這うような有りさまで、窓や戸は傾きかけていた。夜でもびゅうびゅうと隙間風が吹きつけ、人を雇う金が無いのもあり、屋敷も庭も荒れ放題であった。
だからと言って、黒家が他所へ引っ越すことはできないのだった。《東京中華街》は狭い街で、どの家がどの場所に住むか、すべては六華主人によって決められている。
六家といえども例外ではなく、黒家に与えられたのが日当たりの悪いジメジメした土地でも、六華主人の命令である以上、勝手に居を移すことは許されないのだ。
黒家邸の主である黒家の現当主、黒蛇水は齢六十八になるが、六十二を過ぎた頃から病を患い、長い間、床に臥せっていた。ここ最近、いよいよ容体が悪化し、今際の際をさまようことも度々であった。
《レッド=ドラゴン》における|覇権を紅家と黄家から取り戻すのが蛇水の長年抱いてきた野望だが、ますます遠ざかっているのが現状だ。
黒家が繁栄を極めたのも、今は完全に過去の話。黒蛇水は紅家や黄家に奪われたもの――少なくとも彼自身はそう思っている――を何ひとつ取り戻すことができぬまま、七十年近くにおよぶ人生を終えようとしていた。
《レッド=ドラゴン》を創立した立役者としては、あまりにも寂しく、侘しい末路だった。
それを見かねて蛇水の古き盟友である緑家と白家の当主が、彼の見舞いに訪れていた。
緑家の当主は蛇水と同年代の痩身の老人で、禿頭で口元には白く立派な髭を蓄えた、仙人を思わせる風貌だ。
一方、白家の当主は五十代の壮年の男だ。緑家の当主とは対照的にその体格はふくよかで、顔の輪郭も鼻も口の形もすべて丸く、柔らかい印象を与える。髪に白いものが混じっているものの、肌の血色は良い。
二人とも《レッド=ドラゴン》の構成員が着用を義務づけられているチャイナ服を身にまとい、胸元にはそれぞれの家を象徴する色のチャイナボタンが輝いている。
緑家と白家の両当主は、寝台に横たわる黒蛇水を助け起こしながら見舞いの言葉をかけた。
「久し振りだの、蛇水。元気だったか? 来よう来ようと思ってはいたのだが……何かと忙しくてな。こんな時分になってしまったことを、どうか許してくれ」
仙人のような風貌をした緑家の当主がそう詫びると、七福神の布袋を思わせる体つきをした白家の当主は、小さな巾着袋を取り出した。
「具合はどうですか? 我が白家専属の薬師に薬を煎じさせました。桂皮や人参、大棗など内臓を温める効能があるものばかりです。どうぞお体を大事にしてください……」
「香福と昴か……薬など、どうでも良い。それより二人とも……待っておったぞ」
香福というのは緑家の当主の名で、昴というのは白家の当主の名だ。緑家の当主と白家の当主は、かすかな戸惑いを浮かべ、互いに顔を見合わせる。
黒蛇水はそれに構わず、まくし立てる。
「儂の命はもう長くない。その時が来る前に……どうしてもやっておかねばならんことがある!」
「落ち着け、蛇水。お主は今や起き上がることもままならぬ身なのだぞ。それなのに……何を成すというのだ?」
「決まっておるだろう! 《レッド=ドラゴン》の実権をこの手に取り戻すのだ!!」
緑家と白家の当主は、何を言い出すのだと言わんばかりに揃ってぎょっとする。あげくに誰かに聞かれてはいまいかと、怯えて周囲を見回す始末だ。
その反応を目にした蛇水は、苛立たしさをにじませて怒鳴った。
「おぬしたちも知っておるはずだ! 《レッド=ドラゴン》の頂点に君臨しておるあの女は、本物の紅神獄ではない! 本物は確かに十四年前、我々の手で殺したはずだ!」
紅神獄の毒殺を仕掛けたのは何を隠そう、蛇水たち本人だ。当時、暗殺や諜報といった裏仕事を受け持っていた紫家を蛇水一派が操り、紅神獄の暗殺を決行させたのだ。
今の紅神獄が実権を握ったあと、紫家が取り潰しにあったのには、そういった経緯も含まれている。毒殺の証拠は残らなかったはずだが、紅神獄は紫家を許しはしなかったのだ。
ところが蛇水の言葉を耳にした緑家と白家の当主は声を荒げ、口々に蛇水を諫める。
「しっ……声が大きいぞ!」
「そうですよ! 誰かに聞かれでもしたら……黄家と紅家に知られでもしたら、我々に待っているのは破滅だ!」
「なんと情けないことを……貴様らには矜持というものが無いのか!!」
怒鳴った蛇水はそのはずみで激しく咳きこんだ。最近はいつもこの調子だ。少し会話をしただけですぐ疲労を覚え、起き上がることさえままならない。それでも蛇水は諦めることができなかった。それはもはや妄執と呼んでも差し支えなかった。
白家と緑家の当主は困り果てたような表情をし、憤る蛇水を説得する。
「しかし、蛇水殿。あれが本物の紅神獄であろうとなかろうと、紅家が実権を握っているのは事実なのです。紅家には黄家という強力な後ろ盾がつき、しかも次期六華主人も黄雷龍が最有望視されているとなれば、我々の立場はますます悪くなるばかりです」
「そうじゃぞ、蛇水。今、行動を起こすのは不味い。自ら破滅に身を投じるようなものだ」
「では、いつだ!? 我々はいつまで耐え忍ばねばならんのだ!!」
「それは……このままでは我々の力はますます弱まり、隅に追いやられるばかりですが……」
白家の当主は口ごもった。二人とも自らの立場が悪いという自覚はあるものの、それでも考えを改めるつもりは無いらしい。その証拠に緑家の当主は蛇水を諭す。
「お前は寝たきりで外に出んから知らんのだ。黄家や紅家と我々の間に、どれだけの格差が生じているのか。黄龍太楼の威容を直接、その目で見たことがあるか? 《アラハバキ》や《収管庁》ですら黄家や紅家を恐れ、一目置いているのだ。とても我々が敵う相手ではない」
「だが、あの女は偽物なのだぞ! 民族の血を一滴たりとも継いでいないどころか、本来は紅家の人間ですらない! ……そもそも《レッド=ドラゴン》を設立したのは我が黒家だ! それなのに突如、現れたあの偽物の紅神獄に乗っ取られたのだ!! 良いか、あの女は我々の《レッド=ドラゴン》を横からかすめ取ったのだぞ!!」
すると今度は白家の当主が蛇水をなだめる。
「ですが……現状では紅神獄が偽物だという証拠は何もないのです。紅神獄が偽物か本物かなど、どうやって調べられましょうか?」
「そうじゃな。むしろ下手に過去をほじくり返すと、我々の紅神獄の暗殺計画が明るみに出てしまう。どう考えても今、動くのは分が悪い。蛇水よ、辛いだろうが今は耐えるのだ」
「何を言う! わしには時間がない……今動かねば何もかも手遅れになるのだぞ!!」
どれだけ説得を試みても、緑家と白家の当主が蛇水の話に乗ることはない。それも当然だ。《休戦協定》によって《監獄都市》が一応の安定を得たこともあり、《東京中華街》は大きな発展を遂げた。そして緑家と白家もその恩恵を十分に享受しているのだ。
緑と白の両家は《東京中華街》の中心部に小さいながらも家を設けることが許されており、それなりの経済活動も認められている。黒家と違い、大きな抗争を起こしてまで現状を変革する必要性を感じていないのだ。
たとえそれが紅家と黄家の仕組んだ、緑家と白家を黒家から引き離す策略であると分かっていても。
最初のコメントを投稿しよう!