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やがて緑家と白家の当主は、執拗に内部抗争の企てを口にする蛇水に閉口した様子で、そそくさと黒家邸を後にする。これ以上、蛇水と関わって、紅家や黄家から目をつけられたのでは、たまったものではない。
黒家から《東京中華街》の中心部に戻る車内で、緑家と白家の当主はうんざりした様子で会話を交わした。
「やれやれ……あの様子だと蛇水もそう長くはないかもしれんな」
「……気持ちは分からないでもありませんがね。当主として自らの命が長くないとなれば、残された家の行く末を案じるのは当然のことです」
「しかし、あれではただの妄執ではないか。蛇水が一人で息巻くのは勝手だが、その妄念に巻き込まれる方はたまったものではない。無謀に過ぎるわ」
緑家の当主が迷惑だとばかりに声を荒げると、白家の当主も頷いて賛同の意を示した。
「確かに……蛇水殿は息子の黒彩水を次期六華主人にと望んでおられるが、現実は厳しいでしょうな。次の六華主人は黄雷龍で間違いないと目されています。蛇水どのも床に臥せられてずいぶん経つし、よほどの奇蹟でも起きぬ限り、黒家が再び《レッド=ドラゴン》の実権を握ることはないでしょう」
「まあ、かつて実権を握ったと言っても、たった三週間の天下に過ぎなかったのだがな。まったく……あの時は十数年後にこのような事になろうとは、夢にも思っておらんかったわい」
緑家と白家の当主は互いに顔を見合わせ、うんざりした様子で溜め息をつく。二人とも蛇水とは知己の間柄ゆえに、わざわざこうして見舞いに訪れたのだが、両家共に紅家や黄家を敵に回すほどの余裕があるわけではない。
ただでさえ緑家と白家が蛇水と接触するのは危険なのだ。紅家と黄家は間者を使い、他家の動向を常に監視しているのだから。
一方、緑家と白家の当主が立ち去った黒家では、黒彩水が義父である蛇水に呼び出されていた。
「この出来損ないが! 今すぐ紅神獄を暗殺してこい! 何のために泥舟と化した紫家から拾い上げ、飼ってやってきたと思ってる!? 脳なしの穀つぶしめ!!」
しかし、黒彩水も蛇水の八つ当たりには慣れているため、消沈することも激高することもなく、冷静に反論する。
「そうは申されましても、父上。紅家にもゴーストで構成された優秀な戦闘部隊がおります。我が黒家の私設部隊では、とても彼らを下すことなどできません。そもそも次期六華主人が選出されようとしているこの時期に、下手な動きに出るのは得策とは思えませんが」
「何だと……!?」
「みなが神経質になっているタイミングで事を起こせば、次期六華主人を擁立しようとしている家が真っ先に疑われます。即ち、黄家と我が黒家です。圧倒的な権勢を誇る黄家から、我が黒家が勝利を得ることは難しい。紅神獄を殺したところで、ますます立場が悪くなるばかりです」
「何を言うか! たとえ卑怯な手を使い、相手を貶めてでも勝利を手にする……そうしなければ生き残ることなどできぬわ!!」
蛇水は興奮したように声を荒げるが、彩水は冷ややかに指摘するのだった。
「その『卑怯な手』を用いるのにも人手がいるのですよ、父上。暗殺や戦闘はもとより、情報戦、工作活動。我が黒家の有する人員では、どんな戦略を選ぼうとも黄家に対抗できません。それほど彼我の戦力差は開いているのです」
「ええい、この臆病者が! それ以上の泣き言など聞きたくないわ!!」
蛇水はそう大喝すると、すぐに激しく咳きこむ。彩水はすかさず寝室に常備している水差しからコップに水を汲み、蛇水に差し出した。
ところが蛇水は近づいた彩水の顔を、痩せこけたその手で力いっぱいに殴りつけたのだった。
「……」
辛うじてコップをひっくり返さずには済んだものの、かわりに彩水は思い切り頬を殴打される。蛇水はそれだけでは飽き足らず、さらに罵声を浴びせるのだった。
「いいか、よく聞け! 今のままでは黒家は黄家と紅家によって間違いなく潰される! このまま手をこまねいていれば、我々は劣勢に立たされるばかりだ! それなのに……貴様には危機感がないのか!!」
「ですから、父上。先ほども申し上げましたように……」
「黙れ、この無能が! ……やはりお前は黒家の人間ではない。血の繋がりのない、よそ者にすぎぬのだ! どんなに教育してやっても、どれほどひとつ屋根の下で共に暮らそうとも、雑草が梅の木にはなれぬように、お前は永遠に黒家の人間にはなれぬのだ!!」
そして蛇水は勢い余ったかのように激しく咳きこみはじめる。小さく丸まり、痙攣を起こしたように咳を続ける、痩せこけた老人の背中を見降ろしつつ、彩水は蛇水には聞こえないほどの小さな溜め息をついた。
「……あまり興奮なさると病状が悪化するばかりですよ、父上」
「わしの……わしの息子が生きていれば……! 本当の彩水が生きていれば……!!」
「……」
「これが……この黒蛇水の最期だというのか……!? 何ひとつ野望を果たせず、病魔に侵され、床に伏し、このようなみすぼらしい家の中で一生を終える……こんな惨めで無様な有りさまが、このわしの最期だというのか……!!」
蛇水は呻くように吐き捨てると、がくりとうな垂れ、とうとう低く嗚咽を漏らした。そばに彩水がいようが、お構いなしだ。蛇水にはもはや無様な姿を晒したくないという自尊心すら残っていないのだろう。彼に残っているのは黒家を再興し、大望を果たしたいという妄執にも似た感情だけだ。
彩水はそれ以上、蛇水に声を掛けることなく、寝室をあとにする。そして陰気な空気の充満した薄暗い廊下を歩きながら、胸中で独りごちた。
(やれやれ……《壁》の外から招いた《客人》の処遇について判断を仰ごうと思ったのだが……あの様子ではまともな理性など残ってはおるまい)
ここ最近の蛇水は、彩水の目からすると、ずいぶん精神的に不安定になっているようだ。彩水を呼び出しては八つ当たりをし、駄々っ子のように喚き散らす。時には自らの悲運を嘆き、時には紅家や黄家への怨嗟を撒き散らして、最後にはすすり泣きをはじめる始末だ。そんな元気すらない日は、こんこんとただ眠り続けている。
今年に入ってから蛇水の病状は日に日に悪化し、回復の兆しはまったく見えない。
(次期六華主人が選出されるまで、俺の後ろ盾として生きていてもらわねば困るが……それも難しいかもしれんな。あの哀れな老人はもう先が長くない。それも考慮に入れ、あらゆる事態を想定して動かねばならん)
彩水は冷ややかな瞳の奥でそう考えると、そのまま黒家を後にする。彩水にとって義父である蛇水は、あくまで目的を果たすための道具であり、互いに利用しあう関係に過ぎない。親子の情と呼べるものなど持ち合わせてはいないし、蛇水にも期待していない。
一方、黒家邸の二階にある寝室に一人残された蛇水は、薄暗い寝所の中でまるで幽鬼のごとく髪を振り乱し、瞳に狂気ともいえる光を爛々と輝かせていた。
「わしはこのまま死ぬのか……? こんな惨めで情けない死に方をするしかないのか……!? いや、ならぬ……ならぬぞ! このまま死んでたまるものか! せめて黒家が復興するのをこの目で見届けるまでは、たとえ死んでも死にきれぬわ!!」
その頬はげっそりとこけ、顔色はどす黒く、目はどろんと血走ったまま、何かに憑りつかれたかのように一人、ブツブツとつぶやき続けるのだった。
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