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「それはそれは、ご苦労なさったでしょう」
ほんわかした肌色の、ふわっとした塊はどこを見てももふっとしていてやわらかい。
優しく言われると、綺堂の心が安らいだ。
男なので、そこまで辛く思ってないのだが、モズの心遣いは嬉しい。
「いいえ、私なんか、まだまだ大変なもののうちに入らないと思っているのですよ。会社や店を経営するとね、波がありますから」
「そうですか」
「おかげで、自分の店を始められたのですから、災い転じてなんとやらです。私は、これで良かったと思っているのです。何事も頼れるのは己自身。自分がしっかりしてさえいれば、なんとでも先はどうにかなる」
人に裏切られ、すべてを失って、今なら良かったと思える。
本当に大切なものに出会えたから。
けれど・・
まさか、妖怪が客になるとは思わなかった。
こんな辺鄙なところに立つ捨てられたぼろ小屋だから、無料だったわけだ。
思えば不動産屋に紹介してもらった爺さんが、お前さんにぜひと押し付けられたのが、この出来事の始まりだったかもしれない。
はげた頭から長い髪があちこち伸びて、目はぎょろっとしたあの人。
見かけたときから、怪しいと思っていたんだ。あの爺さん。
「苦労された人ってのは、強くなれる。何も苦労も知らない。苦しみも知らない人ってのは、幅がないと思いますね。綺堂さんの料理はだから、これだけ幅の広い味が出ていると思いますよ」
「そうですか。ありがとうございます」
今日初めて会う者同士の会話とはいえ、本気で言ってくれるもふもふもいる。
料理を出すということは、だから、綺堂には生きがいだ。
相手はまあ、細かいことを言わねば、こだわる必要はない。
美味しく食べてくれるのなら、料理人としたら本望だ。
「ジャガイモの焼き物と温野菜です。マスタードソースをつけて、どうぞ」
ニンニク、パン粉とパセリのフィリングを乗せ、こんがりと焼いたジャガイモに、蒸かした根菜をつけた。素朴な野菜の味わいを堪能しながら、触感が違った美味しさも味わえるはずだ。
綺堂の料理人人生をかけて、ひとつずつ出す。どれもこれも、綺堂の執念と汗の結晶がつまったものだ。
「おお、なんとうまい」
「わたし、これ、いくらでも、いけます」
次はすりつぶした枝豆を固めたものを冷蔵庫から出して、煮物の椀を作っていると、横から勘次郎が顔を出した。
「兄貴、チーズは使いますか?フライにするなら、用意しますけど?」
「チーズフライは作らねえんだ。あれは、タンパク分と脂分が多いから、お客様にこたえるんだよ」
綺堂は、こだわりのある料理人だ。その日の天気や客の様子から判断して、料理を作ることまでするのだ。
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