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開店
とあるレストラン。
看板も出さず、営業しているのも誰も知らない。
その筋で有名な野菜料理を食べさせるレストランだが、知る者は一部限りだ。
レストランは、闇の中にぼうっと浮かんでいる。
森の小道を分け入ったこんもりとしたムクノキの茂みに隠れている。
「マスター。今日は仕入れはこれだけで?」
「客が少ないんだ。多く仕入れたって、経費がかさばってしょうがねえだろ」
レストランの主人は、綺堂宗。
有名日本料理店で修業した経歴を持つ。
短く刈り込んだ髪は料理のために清潔を心がけているからだ。
「今日メイン料理は、どうするつもりですか?」
「うん?にんじんのポタージュだ」
「にんじん、ですかい?」
「ああ」
「この前、チーズのフライ。評判だったのに、もう出さないのですかい?」
「ああ」
綺堂の前には、太い体に白い料理人の制服をぱんぱんにした男、佐藤勘次郎。
四角い顔をてかてかと光らせ、額にねじり鉢巻きをしている。
いかにも日本料理人風の男。だが、柔和な表情をしている。
「おっかしいな」
勘次郎は綺堂の答えが納得できておらず、何度も首をかしげて、おかしい、おかしいと言っている。
「あんな美味しいチーズフライ、なぜ出さねえんだ」
綺堂の長年の補助料理人で、入念に机を拭いている勘次郎が納得できないものは、答えが永遠に知れることがないのは、毎度のことである。
レストラン「木の洞」のマスター、綺堂宗は気難しい料理人で、いちいち答えてくれやしないのである。
「おっかしい。出さないはずがないんだ」
勘次郎がまだぶつくさと言っているのを横目で見て、綺堂は厨房の片隅で新聞を広げる。
カラコロン。
扉につけた銅鐘が鳴る風変りな音がして、今日一番の客が来た。
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