きみと 逃避行

10/14
前へ
/15ページ
次へ
「…あの曲はもう、歌えないんだ」 となりにいる彼が口を開いて、わたしは黙ってそれをきいていた。 「言わなくてもわかるだろ、彼女のために作った歌、別れてから外で歌えるわけねえし、思い出すから無理なんだ」 ギターのネック部分を握りしめた手にぎゅっと力が込められて、未練を示すようなため息が真下に落ちた。 「未練がましいって、笑っていいよ」 乾いた笑いとともに発されたその言葉に首を振った。 「わたしも一緒だから、笑わないよ」 気づいたら手を伸ばしていて、その指先はネックを強く握りしめた拳に触れていた。 ぴく、と動いたそこを手で覆えば、そこは冷たくて、悲しくなった。 「もうあの曲は、うたわないの?」 「うん、たぶん」 「じゃあ、最後に、歌って」 自分の口からこぼれた言葉に自分でも耳を疑った。 わたしは、もうあの曲を聴けないのに。 そんなわたしをみて、同じように驚いている彼と目があった。 「話、きいてた?」 「うん、きいてた」 どうしても、あの曲を、この人には嫌ってもらいたくなかった。 あの歌はもう好きじゃないし、聴きたくないけど、それでもわたしのなかでは大切なうただった。 それはきっと、大好きだった人のことを考えて歌ったこの人も、おんなじだ。
/15ページ

最初のコメントを投稿しよう!

151人が本棚に入れています
本棚に追加