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「もう1杯、どう?」
「いいけど、あんまり強いのはちょっと」
「あー、じゃあ飲みやすいのにしようね」
こういう気が利く感じが榎本がモテる理由なんだろうなと関心しながら、谷川は皿に盛られたミックスナッツを口に運ぶ。普段行く店とあまりに違って、そわそわしてしまう。榎本は一日の仕事を終わらせた後とは思えないほどスーツに皺もなくきまっているが、自分は繁忙期というこどあってくたびれたさえないサラリーマンでしかない。
2杯目はもっと甘くて飲みやすく、すいすいとグラスを空けてしまった。
「そういえば、今日は檜山の愚痴はいいのか?」
「え?」
「いつもブツブツ言ってるじゃないか。旅費の申請がひどいとか、発注書の書き方がめちゃくちゃだとか……」
駅のホームで妙なことを言われてから、檜山の誤った旅費申請があっても、呼び出すことなく電話で事務的に用件だけ伝えて切ってしまった。マニュアルのお蔭でミスが減ったはずなのに、最近また増えている。懲りないヤツだ。発注書も、相変わらず気になる数量もあるが、とにかく彼と言葉を交わしたくなくて、かなり大口の注文が来たときもちょっと気にはなったものの、電卓をたたいて矛盾がなかったので処理してしまった。以前ならば電話して、こんなに大量に発注して大丈夫か確認したかもしれない。しかし檜山ならどこかで急に顧客を開拓できるだろう、とある意味で「信頼」してみたのだ。まあ、放置といえばそれまでだが。
「最近、そんなに変な書類出してこないから……」
「そういえば、あのトイレの蓋事件以降は静かだな。さすがの檜山も入社3年目にして落ち着いたか」
「そうかもね」
「あれっ、あんなに世話焼いてた癖に、つめたいんじゃないの」
榎本は探るような視線を向ける。
「別に、そんなつもりじゃないよ」
邪険にしているわけではない。しかし、今までのように振る舞う勇気もない。
社内で檜山の姿を見かけることはあった。後輩の女子社員と笑顔で会話しながら廊下の向こう側から歩いてくるのに気がついて、トイレに逃げ込んだことさえあった。あのときは何故そ知らぬ顔ですれ違えないのかと、洗面台の鏡に映る自分の顔を殴りたくなった。それでも谷川は檜山に近寄れなくなっていた。もし目が合って話しかけられたら、なんと返して良いかわからなくなりそうなのだ。そのくせ電車の中で谷川の腕を掴んできたときのあの目を思い出しては、勝手に緊張して体を熱くして立ちすくんでしまう。
「まあ、あの檜山くんがそこそこの成績を収めてるのは、谷川くんのフォローの賜物だろうね」
「よせよ」
「謙遜しなくていいって。ほら、俺のお勧めその3。甘いけど大人の味だから」
谷川はカフェオレのような色のカクテルに口をつける。チョコレートのような味が口の中に広がった。
「谷川って、耳から赤くなるんだね」
「……」
飲み干したとたん苦味が舌の奥に絡まるような気がして、谷川はにわかに吐き気をおぼえた。
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