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「とにかく!交通費は京王線からJRの乗り換えでしか出さないからな。差し戻しておくから入力を直せ」
「俺、これから出張なんだけどなあ」
「5分もあれば直せる。まさか人差し指でキーボード押してる訳じゃないだろ」
別に気の利いた冗談を言ったつもりでもないのだが、檜山はちょっと笑った。それがまた腹立たしい。谷川は差し戻しボタンを押すと、しっしっと手を振った。もう顔を上げたくなかったが、かすかに風が舞って檜山が出て行ったのがわかった。
「谷川く~ん、言葉キツいよぉ」
近藤が苦笑している。もう6年経理にいるベテランだ。営業の経験もあるから、すこしは檜山の謎行動が理解できるのかもしれない。
「とはいえ、なんで副都心線をチョイスするかはわたしもわからないわ。案内板にはメトロとJRが並んでるから、普通はJR選ぶもん」
……理解できないようだ。
「やっぱりバカなんですよ、バカ。ヤツの中には小学生がいるんです」
近藤は笑った。
「あ~、確かにうちの小2男子に似てるかも」
低学年に似ているなんてさすがに言い過ぎじゃないかと谷川は思ったが、3人の子供を育てている近藤が言うと信憑性がある。
谷川はぬるくなったコーヒーを飲み、残っている申請の確認に集中した。
交通費の確認が終わり、次の仕事に取りかかろうとしたところで、総務課の同期である榎本がやってきた。
「元気?」
榎本は誠実そうな見た目とは裏腹に、入社してすぐに先輩社員と交際を始めて上司を困惑させた逸材だが、仕事ぶりは信頼できる。今は会社外の女子と付き合っているらしい。
「朝からどっと疲れたところ」
「檜山か」
谷川が頷くと、
「大変ついでで悪いけどさ、これも頼む」
榎本が手渡したのは1枚の見積書だった。
「トイレタンク交換……62,000円?どこか故障したのか」
「知らないのか?」
榎本はおかしくて堪らないという風に手で口を押さえた。
「檜山が3階のトイレ壊しちゃってさ」
「はっ?トイレ壊すって……ついに暴れたのか、あいつ」
「いやいや、さすがにそれはない。檜山の名誉のために言っておくけど、あいつは一応被害者だから」
檜山が会社の備品をもう3回も壊していて、修理にあわせて10万円近くかかっている。最初は入社1日目にロッカーの鍵が合わないのを無理矢理鍵穴に突っ込んで潰してしまった(違う鍵を渡したロッカー担当者も悪いが)。次はノートパソコンを持ったまま階段を転がり落ちて、自分は無傷なのにパソコンだけ大破した(これは始末書ものだった)。倉庫にあった大型の脚立を壊したこともある。そのたびに、谷川は修繕や購入の請求書を処理していて、なんともいえない気分になっている。
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