転落

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 思わず檜山の手を強くつかみ、声を上げる。 「檜山!聞こえるか?しっかりしろよ!」  怒鳴ってから谷川は我に返り、急に恥ずかしくなった。手を離そうするとぎゅっと握られて驚き、檜山の顔を見た。眠りから覚めたような表情で、まばたきをしている。 「檜山」  頬に触りたい衝動を谷川は堪えた。 「大丈夫か?」 「うーん、左脚がちょっと痛いけど……」  起き上がろうとするのを谷川と警備員が止めた。 「えっ、何ともないよ?」 「お前、気絶してたんだぞ。もうじき救急車が来るから」 「そんな大事になってるの?階段から落ちただけなのに~」  いつもの口調に安心するどころか腹立たしくなってしまい、谷川は声を荒げた。 「馬鹿!ひとを心配させておいて……早く病院行け!」  ストレッチャーを携えた救急隊が到着した。檜山は何か言いかけたが、谷川が睨むとおとなしくなり、頭部を固定されてストレッチャーに乗せられた。 「君、ついていく?」  社員の質問に谷川は首を振った。  救急隊がいなくなると野次馬も引き上げて急に静かになった。警備員が壊れたパソコンを拾い集めている。サイレンの音が聞こえるような気がした。  谷川は立ち上がって経理部の部屋に戻ろうとしたが、仕事をする気力がわかなかった。ほんの10分くらいの出来事だったのに、数時間走ったかのような疲労感だった。覚束ない足取りで歩き、谷川はフロアの外れにある休憩スペースにたどり着いた。  大きな葉の観葉植物の周りにソファを配し、窓から陽の光が差し込む部屋には珍しく誰もおらず、自動販売機のモーター音だけが漂っている。谷川はこのスペースが好きだったが、いつも近所のコンビニで買ったコーヒーを持ち込んでいた。というのも、ここの自動販売機に入っている缶コーヒーが好きではないからである。しかし今は選り好みはしていられない。目の醒めるものを補給しなくては。  檜山のそばにいるとなんだか上手く振る舞えないときがあって、不安になってしまう。この感覚は何なのだろう。いつもならばもっと冷静でいられるはずなのに、気を失っている檜山を目の当たりにしたときは自分が自分でないようだった。  何なんだ、これは。  小銭を投入口に入れ、ボタンを押す。無機質な落下音が響く。ブラックコーヒーを体現した黒い缶だ。しかしその装飾にはなんの感慨もなく、ただカフェインを摂取するためだけに谷川はプルトップを開ける。  救急車はもう病院に着いた頃だろうか。谷川は救急に駆け込んだ経験がないので、どんな検査や治療を受けるのかまったく想像できない。ただ頭を打って失神したという事実が怖いのだ。  また檜山のことを考えているじゃないか。  谷川は缶の中身を口に流し込んだ。苦味と酸味が舌の奥に広がり、喉の細胞を毛羽立たせた。目が醒めるどころか脳の血管が膨らんでじわじわと痛む。  ソファに座り込んだ谷川は、頭の中から檜山の姿を追い出そうとしていた。しかし完全には意識を切り離すことはできず、時間切れのような形で職場に戻った。  その日はもう仕事にならなかった。
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