心に蓋

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 人ごみをかき分けて檜山が近づいてきた。 「谷川、どうしたの。もう帰り?」 「……家に帰るのにこの駅は使わないだろ」  これ以上立ち止まっているのはさすがに通行人の邪魔なので、谷川は檜山を引きずるようにして人の波に乗った。 「出張してたんだよ」 「へえ~珍しい。これから、会社に戻るの?……俺、ちょっと寄りたいところがあって」 「途中下車か?仕事ならちゃんと申請してくれれば旅費はつけるぞ」 「いや、そうじゃなくて」  檜山はくすぐったいような表情になった。 「谷川に見てもらいたいものがあってさ」  よくわからないまま谷川は急に早足になった檜山を追いかけて階段を駆け上がり、ちょうどホームに入ってきた電車に乗った。車内は吊革の前が5割方埋まっているくらいの混み具合だが、スーツ姿ばかりのせいか静まり返っていて、会話をするのは憚られた。背の高い檜山は吊革をぶら下げている金属の横棒につかまり、相変わらずきょろきょろしている。  谷川は通勤中はもっぱら本を読んでいるので気にしたことがなかったが、車内にはたくさんの広告が掲示されていて、檜山の目を惹くらしい。とくに彼が時間をかけて眺めていたのが、シラトリのライバル企業であるハツホ文具の高級シャープペンシルの広告だった。谷川もたまに目にするが、なかなかセンスの良いポスターだと思う。檜山は舐めるようにじっくりと見入っていた。  仕事熱心だなあと谷川はちょっと感心したが、そのあと檜山がじっと見つめていたのは漫画の広告だったので、たまたまなのかもしれない。そのあとも檜山は窓の外に目をやったり忙しそうにしている。 「あっ、降りるんだった」  会社の最寄り駅から3つ手前の駅で檜山は突然呟き、谷川の手を引いて発車ベルが終わりかけたところでホームに飛び降りた。檜山の手に触れたのは2回目だ。彼が階段から落ちて気を失っているときに思わず握ってしまったのが初めてで、つめたくて不安になったのを覚えている。今、谷川の手を包んでいる手はあたたかい。熱いくらいだ。  思わずつなぎ返そうとしたところで、檜山がぱっと手を離した。よく考えるとスーツ姿の男がふたり、人目のあるところで手をつないでいるなんて奇妙である。 「えっと……駅を出たら、すぐだから」  檜山は言い訳じみた感じで言うと、背を向けて歩き出した。谷川は周囲に誰もいないのを確認して、後を追った。
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