心に蓋

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次の駅は大して客の動きはなく、檜山と向かい合ったままの位置は変えられないままだった。  窓の外に、ライトで照らされたいつもの看板が現れる。 「降りなきゃ……」  檜山がそっと腕を掴んできた。誰かの目に止まっていやしないかと谷川は緊張したが、よく考えれば腕にちょっと触るくらい不審な動作ではない。自分が過敏になっているだけだ。  電車が減速しホームに滑り込んでいく。車内が大きく揺れる。 「ごめん、今日は……忙しいから……」  口の中でもごもご弁解すると、檜山は手を離した。谷川はまだ開ききらないドアの隙間からホームに抜け出し、早足で階段に向かった。あまり緊張感のない発車チャイムが鳴り響いた。  階段をいちばん下まで駆け降りる。出発した電車の走行音が次第に小さくなる。すっかり静かになってから見上げると、階段には誰もいなかった。  経理部の部屋に足を踏み入れて、谷川はようやく安堵した。頭が鈍く痛む。 「お帰り、ずいぶん時間かかったね」  近藤が顔を上げて言った。いつもは残業をしない彼女だが、年4回の決算期には夫や実家の協力を得て仕事に励んでいる。 「顔色悪いよ。問題でもあったの?」 「いえ、違います……大丈夫です」  谷川は自席のパソコンを起動させた。ブランドロゴが浮かび画面が展開していく。疲労のせいか文字が滲んで見えた。思い出すまいとしても、檜山の姿が脳裏に現れてしまう。どうにか業務に集中しようと、目を強く閉じて頭を振ってみたが、幻はなかなか消えない。いつもなら考えられないくらいに切羽詰まった声で囁いた声すら蘇る。谷川は混乱した。  あのとき笑い飛ばしてしまえばよかったのに。そうしたら檜山もきっとつられて笑って……無かったことにできたはずだ。なぜ、つまらない戯れ言だと受け流せなかったのか。  谷川は奥歯を噛んだ。  檜山のあの様子……好きという言葉はたぶん軽い意味ではないのだ。そして谷川も、きっと同じような感情を檜山に抱いている。いつからかはわからないけれど、だいぶ前からそうだったに違いない。  だが、わからないのだ。  自分の気持ちをどうしたいのか、が。  もしも今日のようなことさえなくて、自らのこの思いに気がつかずにいにいられたら、檜山に多少もやもやしながらも平和に過ごせていたのではないか。ただの同期としてたまに昼食に行ったり、酒を飲み交わしたりして、それだけで済んでいたはずだ。  でも、気づいてしまった。  もう一度、心に蓋ができるだろうか。  アイコンが整列している画面が表示される。谷川は息を吐いた。今は仕事に集中しなくては。  檜山の幻影を追い払いながら、谷川はのろのろと溜まった仕事に取りかかった。
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