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ちょっとした誘惑
榎本と飲むときは、電車で何駅か離れたところにある店に行くのが常だった。会社に近い居酒屋は知り合いに遭いそうで落ち着かない。特に営業部の連中は人数が多いうえに変な結束があってしょっちゅう飲みに行っている。谷川が経理部の先輩たちと残業後にちょっと一杯……と店に行くと、たいがい奥に営業部の誰かがいるのだ。気兼ねなく会話を楽しみたいとなると、会社から離れた店に行くか家飲みするしかないのである。
その日榎本が連れて行ってくれたのは、いつもよりも洒落たバーだった。座席は20席ほどで、落ち着いたオレンジ色の照明がブラックウォールナットのカウンターを照らしている。周囲は男女のふたり連ればかりでなんとなく気後れするが、皆自分たちだけの世界で声をひそめて語り合っている。
「何にする?こんな店でカシオレなんかやめろよ」
「えっ……どうしよう」
「それなら、ジントニックにしとこうか」
「それでいいです……」
榎本のチョイスが間違いないと信じて、谷川は従うことにした。
カウンター席のすこし背の高い椅子に落ち着かず、谷川はもじもじと腰を動かした。
「こういう店、あまり行かないの?」
谷川の様子を観察していた榎本が面白そうに訊ねる。
「はじめてだなあ」
「えー、じゃあデートはどこに行ってるの」
谷川はしばらく黙ってしまった。大学生の頃は同級生の女子とデートのようなものをしたことはあるが、このような店に行くほどまで進展せずに終わってしまった。
「……最近はそういうの無い」
「まあ、お前のところ忙しそうだしな」
とりあえず頷いておけば余計な詮索はされないと谷川は思った。
「遊びにもいかないで社員寮だと、息が詰まるんじゃない」
「まあね。だから金貯まったら、引っ越そうと思ってるよ」
「そうだろ。上下左右みんな会社の人間じゃ、女の子も連れ込めない」
微かに泡立つグラスが目の前に置かれた。谷川は一口飲んで意外にアルコールがきついことに気がついた。チェーン店の氷でかさ増ししているカクテルとは違う。油断しているとすぐ酔ってしまうに違いない。
「榎本はひとり暮らしだろ?民間のアパートだと家賃高いんじゃないか」
「そうだよ。俺の住んでる地域だとワンルームで8万くらいかなあ」
「ワンルームでも結構するな」
谷川は社員寮を出たらできるだけ広い家に住みたいのである。しかし奨学金の返還もあるし、無尽蔵に家賃を払える訳ではない。
「まあ、俺は築浅でバストイレ別は絶対譲れなかったから。それがなければもう少し安くなるんじゃないか。それか、通勤時間を長くするか……」
「うーん、俺2LDKは欲しいし」
「そりゃ結構するな……ってひとりなのにそんな広い部屋いるのか?」
喋りすぎたなと谷川は後悔した。
「実は付き合ってる子がいるの?」
「いないって……俺、シラトリの家具で欲しいのがあるから、広い家がいいの」
「そういえばシラトリの椅子でめちゃくちゃ語れるよな、お前」
あらためて言われるとなんだか恥ずかしくなり、谷川は頬が熱くなるのを感じた。
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