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「谷川くん」
聞き覚えのある声に谷川は振り返った。
「澤井課長」
澤井は営業第二課長で、檜山の上司である。谷川はインターンのときに世話になったこともあり、就職してからも懇意にしている。まだ40代で、管理職であるが自らも営業で毎日飛び回っている。
「檜山くんなら、課内の若い連中と飲みに行っちゃったよ」
谷川の表情が曇ったのを澤井は見逃さなかった。
「今朝はすまなかったね。若手の旅費申請はなるべく目を通すようにしてるんだけど、僕もちょっと立て込んでてね」
「そんな、課長がわざわざ見ていただく必要はありません。経理でチェックしますから」
「そうかい。でも、檜山くんのは酷いだろう」
「……それは否定しません」
澤井は声を上げて笑った。
「彼は行き当たりばったりだからなあ。その割に契約取ってくるんだから、よほど商売の神様に好かれてるんだろう」
崩れた書類の中には去年の日付の入ったものがいくつもある。よほど整理をしていないのだろう。
「そういえば、檜山がトイレで事故ったと聞いたんですが」
「ああ、昨日のあれね。僕もビックリしたなあ」
「檜山、怪我しなかったですか?」
やさしいね、と返されて谷川はドキッとした。
「いや、そういうわけじゃなくて、同期なんで……」
あわてて弁解したが澤井にこにこしている。
「わかった、わかった。怪我してないよ。服はかなり濡らしたみたいだけどね」
「そうですか、よかったです」
つとめて冷静な声で返して、谷川はぐちゃぐちゃの山の中に置こうとしたものを澤井に手渡した。
「これ、檜山にあげてください。旅費申請のマニュアルです」
「マニュアルはもう君が作ったんじゃないの」
「いえ、あれは普通の社員向けで……これは10倍くらい丁寧に説明してます」
言いながら、なんだか恥ずかしくなってきた。檜山ひとりのためにどこまでやっているのか。
澤井はファイルを開いて中身に目を通した。
「いいじゃないか。新入社員の説明用にも使えるよ。檜山くんひとりのためには勿体ないから、営業部で共有させてもらうよ」
「あ、ありがとうございます」
なんだか大ごとになってしまった。
「じゃあ、月曜にデータをお送りしますよ。そのファイルはそのう……檜山のために色々と書きこみしてあるので」
「はは、そうだね。これじゃ檜山くんの評判が落ちてしまうな」
マニュアルはもちろんパソコンで作ったのだが、いざプリントアウトしたら太字や色変更も檜山には足りないような気がして、さらに手書きであれこれ書き足してしまい、罵詈雑言とまではいかないが若干乱暴な言葉も含まれている。婉曲的な表現は檜山には伝わらないのだ。
「すみません、あまりに繰り返されて腹立っちゃって」
「檜山くんは気にしないから大丈夫だよ。それに、君には社員を育てようとする気持ちを感じるよ。良いことだ」
そんなに大それたことを考えていたわけではないので、谷川は面喰らってしまった。
「いやホントに檜山があんまりなので、嫌になって……」
謙遜しているのか誤魔化しているのか、自分でもわからなくなり、谷川の声はだんだん小さくなる。
「檜山くんのことが嫌いならとおり一辺の指示だけして、関わらないようにすると思うけどな。そうじゃないんだろう?」
「はあ、まあそうかもしれません。同期として、あまりポンコツだと皆に迷惑かけちゃいますし……」
「彼を採用したのは君じゃなくて人事担当と幹部だけどね」
からかわれているような気がしたが、そうとらえてしまうのも、谷川のほうに後ろめたい気持ちがあるからかもしれない。
「……帰ります」
「お疲れ様」
澤井が微笑む。谷川は逃げるように営業部の部屋を出た。
駅までの道のりは金曜日らしく賑やかで、ロータリーには待ち合わせをしているスーツの群れが何組もいた。その中に檜山がいるかもしれないなと思いながら、谷川はその間をすり抜けて改札に入った。檜山の姿を探す気にはなれなかった。いたとしても、その視線は自分に向けられているわけではないのだ。
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