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「エリ!」
タクヤは何かとエリに質問をする。それは分からないことばの意味だとか、何らかの事象についての説明を求める質問だ。彼は自分の知らないこと、知りたいことをエリに尋ねる。現代(いま)ならネットを使って自分で調べてれば、おおよそ大概のことが検索できそうだが、タクヤにはまず自分で調べてみようという考えが、もうだいぶ前に忘れられてしまい、とにかくエリという彼女の名前を呼べば、あとはなんとかしてくれるというような依存が彼に生まれていた。エリは彼に尋ねられたことばについて、代わりにせっせとネットで調べて、それをある程度把握した上で、彼に内容を説明するのだ。エリは、自分でまずことばの意味を一定の理解を持ってタクヤに伝えなければならない。そのため検索したことばに対する理解はもちろん、あり得るその他の候補についても一応目を通すから、この「代理」をするだけで彼女の知識はタクヤのものを遙かに上回るものになっていた。
そして今日も、もしいつか、エリが突然いなくなったら彼はどうするのだろうかと、第三者の目からすれば心配に思えるくらいに、何でも彼女に質問する。
タクヤのそういう態度、やり方についてエリが疑問を呈したり不満を云ったりすることは無い。もっとも、エリにしてみても彼の質問に何でも答えられるわけでは無い。彼が求めるような適切な内容の返答が出来ることは恐らく6割程度では無いだろうか。それに、エリは、そういうタクヤとのやりとりに愛情を感じている。だからこそ出来ているといえるだろう。「彼の役に立っている。必要とされている。私がいなければ……」という心持ちが彼女を支えているのだ。そういう意味では、この面でエリはタクヤを支配しているとも云えるだろう。
タクヤとエリはつきあい始めて2年近くになる。その間、タクヤは毎日、どうしても無理というとき以外は常にエリをそばに置いたし、どこにでも連れて行った。二人だけで海沿いの街を海岸線の道を駆け抜け夕日を見に行ったこともあった。友達と連なって同じように走り、はしゃぎながら走ったりもした。
たくさんの想い出が二人を繋いでいた。もちろん、思い出したくないような不快なことも時折あって、エリはタクヤのそういう嫌なことばを聞いたことがあるし、嫌な態度を目にしたこともあった。それでも、彼はエリを意味も無く粗暴に扱うことはしなかった。基本的には優しかった。傷つけないように優しく扱った。だからエリは彼に対して愛される悦びを常に抱いていた。抱くことが出来た。
いつも抱擁され、強く握りしめ、頬を寄せ撫でられて、囁かれた。
エリは自分のできるかぎりの力で彼の愛情に応えていた。
エリは、タクヤから、ほかの誰も聞いたことが無いであろう淫靡なことばを囁かれた経験があり、タクヤの知るほかの誰もしたことの無いようなコトをしてやったことが何度もあった。
タクヤにとってエリは「初めて」ではなかったが、エリは彼が「初めて」だった。ほかに誰も知らない。知らないけれど、エリにとってそれは幸運だったとも云える。なにしろとにかく、タクヤはエリの内部の極細かい、細部まで相当に手を伸ばしていた。ここまでされれば、恐らくほかのどんな相手でも不満は無いだろうというくらいに。
精神的にも肉体的にも充実した関係を保っていたエリと彼だが、そういう時間がいつまでも続かないことは、経験が多いほど分かっているだろう。
最近、タクヤはエリと違う相手を見つめることがあった。それは実物では無く写真でだ。
「どうよ?」
タクヤの男友達がそんなことばを口にして写真を見せたのが1ヶ月ほど前だった。
「ふうん。いいね。けどなぁ……どうしてもって云うほどでもない。今で、俺満足してるから」
「そうなのか。俺は興味あるな」
エリはタクヤが友人同士でそういう話をしているとき、もしそれを知ったらどういう気持ちになるか、それは分かりようが無かった。2年になるというつき合いの時間が、気持ちに穴を開け風を吹かせることをエリはよく分かっていなかった。エリは彼との関係を今も良好と思っていたが、彼はエリと自分とがこれから先「これ以上になることは無いだろう」と分かっていた。漠然とした満足はあるものの、確かにもの足りなく、飽きを感じさせる。自分の要求にほどよく応えてくれる安心感か、それとも新たな相手との革新がもたらす悦楽か。そういうものが想像をかき立てられたタクヤの頭に登ってきていた。
友達に誘われなければタクヤは、まだ当分、エリとの関係を解消しようとは思わなかっただろう。結局こういうことは、周りがそうすることで自分も釣られてしまう。誘惑だ。
タクヤはある晩、ベッドに横たわり、いつものようにエリを見つめた。けれどその、タクヤの瞳(め)は、いつもの彼の瞳では無いとエリにはすぐに分かった。彼が自分に触れる指先の感覚が「心ここにあらず」と気づかせていた。彼がエリを見る瞳は、何か古いもの、時代に取り残された過去の遺物でも見るような目つきに変わっているのを感じた。
エリは、タクヤがこれまでに相手を変えるとき、果たしてどんな気持ちでどのようにしてきたのだろうかと考えた。「彼にしてみれば、別れることにだってもう慣れている」そういうことなのだろうかと考えると、急に彼のかつてのエリに触れたときの力のこもった熱い指先をおも出さずにはいられなかった。その冷えた指に、またもう一度熱い火を灯すことが出来ないのだろうかと思った。エリは、自分のそんな疑問についてもネットで調べてみたが、時間の経ったわたしがかつての輝きを相手に与えることは難しく、新しい相手は常に簡単に相手に思った以上の輝きと興味を与えるものと決まっているのだと知った。
タクヤは明日、友達と遊びに行くという約束をエリは耳にしていた。
そのことからエリは、
「別れって、どんなものだろう」
エリは経験の無い自分の心でそう思った。
「ずっと一緒だった人と別れるって」
エリは何か自分の中に今まで抱えたことの無い憤りを感じた。やるせない、どこにぶつけたらいいのか分からないストレスを感じた。
エリは、今までタクヤのためにしてきたように、調べたいと思ったことをネットで調べてみようと思い立った。自分と同じ境遇の誰かがいないかネットで調べてみた。それは多くの事例が見つかった。そして、
「みんなが経験すること」「いつかはそういう日が来る」
そういう理解をするしか無いようだった。
始め、どんなに愛されてもいつかは熱も冷める。それは動かしがたく、受け入れなければならないことのようだった。「最後の最後まで一緒」にいられることも無いわけでは無いが、滅多に無いことと知った。奇蹟を信じるなら、それを願ってもいいらしい。そういうことだった。
着信音が鳴った。タクヤはエリを指で動かしていたのを中断し、友達と通話を始めた。
「ああ。なんか、写真見てたら、俺もイイナって思って来た。ハハハ。
まず見てからって気はするけど、気に入ったら、明日すぐでもいいかも」
タクヤは男友達とそんなことをニヤけ顔で話し始める。
「タクヤはわたしを捨てる」
エリはこみ上げた怒りが内部に蓄積されていくのを感じた。熱くなっていく。こんなに熱い自分をエリは感じたことが無かった。もう、抑えが効かなかった。エリの内芯の熱は制御が効かなかった。このままでは誰かを傷つけそうだった。それは自分であり、そして真っ先にタクヤが傷つくに決まっていた。けれど、エリは、タクヤを自分のこの怒りの道連れにしたいとは思わなかった。「消えるならわたし一人。……ネットで見た他の誰かのように、ひっそりと自分の役目を終えたい」
エリはそう思いながらも、心と裏腹に熱が彼女を膨張させ、その異変はタクヤにも分かるようになった。
「あ、ちょっと待って……あ、あれ?うわぁ、熱い!?」
通話中の友達はタクヤの戸惑う声と何かの破裂音を聞いた。
男性がスマートフォンで通話中、何らかの理由によりスマートフォン本体が発熱、破裂して重傷を負った事故は、その後、メーカーが調査中と云うことである。
自らの熱で焦がれた「エリ」は、とある会社のひっそりと冷たい部屋に仕舞い込まれて、これから当面の間、こうしてひとりぽっちで暮らしながら、かつて何も知らなかった自分が、初めのうちは、やはり今のように暗い箱の中にいたことを思いだしていた。
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