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第一章
1
「これから貴方の人生の時間が遡って行きます……そして貴方の心は、今までに貴方が一番楽しかった時にまで戻って行きます……良いですね、リラックスして下さい……」
セラピストの女性の声は抑揚が無く、少しエコーがかっている様に心地良く響いた。
それは無機質で、まるで天から降って来る様な音色だった。
その声を聞きながら目を閉じてベッドに横になっていると、今にも眠りに落ちてしまいそうになる。
「それでは高本進さん。私の言う言葉を良く聞いて、心のままに素直に感じて下さい。そして貴方の目に見えた物をありのままに教えて下さい……」
「はい」
2時間で6000円と言うカウンセリング料を払っている以上、心底から浸って元を取らなければ……と言う貧乏根性で進は心を素直にしようと勤めた。
「貴方の目の前には下に向って降りている白い螺旋階段が見えて来ます……見えましたか?」
「……はい」
「その階段をゆっくりと降りてみましょう。真っ白な螺旋階段です。一歩一歩降りて行きます……ゆっくりとカーブしている階段を回って、貴方はどんどん下の方へと降りて行きます……下の方からだんだん何かが見えてきました。何が見えますか?」
「トンネルがあります。暗い、細いトンネルです……」
「それを見ているとどんな気がしますか?」
「恐い……」
「恐いですか? もうその先へは行きたくありませんか?」
「いえ、何だか、行ってみたい」
「それは時間のトンネルです。そのトンネルを抜ければ、貴方が今までで一番楽しかったところへと行くことが出来るんですよ」
「はい……」
「さぁ、行ってみましょう。心配いりませんよ、勇気を出して」
「はい……」
「トンネルは暗いですか?」
「暗い……でも行きたい……」
「行ってみましょう。トンネルを入って行くとず~っと先の方に光が見えて来ます。最初は小さな星みたいに輝いていた小さな光が、だんだん近付いて行くと大きくなってきます」
目を瞑ってベッドに寝たままの進は、そのまま眩しそうに顔を歪めた。
「今貴方の全身を眩い光が包み込んで行きます。あまりの眩しさに貴方はもう目を開けていることも出来ません」
「ううっ……」
「そしてだんだん光が貴方の身体から引いて行きます。光の強さが弱まって、徐々に周りが見えて来ました。その場の空気も、温度も、臭いも分かって来ます……どうですか、何か見えますか?」
「……ここは……原っぱです。下の方には海が見える……高いところにあるみたいだ……山の上の……風が吹いて、空が青くて、白い雲が、凄い勢いで流れてる」
「そこには誰かいますか?」
「はい、人が……」
「どんな人ですか? 知っている人ですか?」
「あれっ、あれは……クーだ、あっニンジン、シュウ、マキロンもいる……」
「それは誰ですか?」
「…友達です、小学校の頃の……あっ、シュウ! なんだよ、ずるいぞっ!」
進の声が急に小学生の様に子供じみて発せられた。進はベッドに寝たままなのに、まるで辺りに何か見えている様に顔をキョロキョロし始める。
まるでそこらじゅうを走り回っているかの様にベッドの中で身体を揺する。
「そしたら今度は僕が鬼やけんな、みんな良いか、いくぞっ! いーち、にーい、さーん、しーい、ごーお、ろーく、しーち、はーち、きゅーう、じゅうっ! あっ! ニンジンみーっけっ! へへーんだ」
進は友達と缶ケリに興じている様だった。屈託なく笑う進の顔はまるで小学生そのものである。缶を蹴られない様に気を付けながら、進は夢中になって辺りを駈けずり回っているのだ。
「絶対皆つかまえちゃるけんのう!」
目を瞑ったままトリップした世界で遊んでいる進の様子を、ベッド脇の椅子に座ったセラピストは満足気に見守っている。
進が横になっているベッドの脇に置かれたタイマーを見て、セラピストはそっと進に声をかける。
「はい、それでは高本さん。私がみっつ数えたら、貴方は目を覚まして今の自分に戻って行きますよ。良いですね、いち、にぃ、さんっ!」
進は目を開ける。気がつくとそこは海を見下ろす高原ではなく、催眠セラピーを受ける為の小さな個室のベッドの上である。
急激に現実世界に引き戻されてしまった進は、自分が今まで見ていたことが夢だったことに気付き、ガッカリしてしまう。
「どうですか? 大丈夫ですか?」
「はい……」
「どんなお気持ちですか?」
「楽しかった……」
「疲れを感じているでしょう。お疲れ様でした」
思いがけず涙がこぼれて来る。
進が鼻をすすって涙を拭いているのを見て、セラピストはテーブルにあったティッシュを差し出す。
「どうぞ、暫らくゆっくりなさって下さい、落ち着くまでお休みになって頂いて結構ですから」
「ありがとうございます」
胸元までかけられていた薄い毛布を取って上半身を起こす。
進はネクタイを取ったワイシャツに下はスーツのズボンを履いている。
進は以前から仕事の外回りで前を通る度にこの店のことが気になっていた。
『催眠療法・ストレス解消して極上の癒しが得られます』と言う看板の宣伝文句に心惹かれるものを感じていたのだ。
高本進は35歳。仕事のストレスが溜まって、近頃何をしても疲れが抜けない様な日々が続いている。
それまであまり心療セラピーや催眠療法と言ったことに興味は無かったのだが、6千円で本当に心の癒しが得られるのならと、物は試しと言う気持ちで門を叩いてみたのだ。
セラピストによる催眠効果で進は記憶の中に残る一番楽しかった時へと旅立っていた。
それは進がまだ九州の大分市に住んでいた頃、小学5年生の時の遠足で海岸を望む高原へ行った時の思い出だった。
その中で進は大勢の友達と思い切り走り、思い切り笑った。出来ればそのままずっとその世界に行っていたかった。
セラピストの声に呼びかけられて目を覚ました時、何故いつまでもあの世界にいさせてくれなかったのかと、セラピストに腹を立ててしまったくらいだった。
そして悲しくなった。あの楽しい子供時代に比べて、今の現実は何て白けてストレスに満ち、詰まらないのだろうと。あまりのギャップに悲しくなる。
帰りの受付で次回の予約をお入れしますかと問われたが、進はまた連絡しますとだけ言って店を出る。
4月の夜の東京はまだ新入社員等の歓迎会も多いのか、あちこちで酔っ払ったサラリーマンたちのグループが騒々しく漂っている。
退行催眠と言うものがここまで凄いとは思ってもみなかった。
進は先ほどまでいたあの少年時代に切ない程の郷愁を覚える。ああ……出来ることならずっと目を覚まさずにあの世界の中で遊んでいたかったなぁ。
本当は次の予約も入れたかったのだが、安月給のサラリーマンで小遣いも少ない進には6千円と言っても大金である。それ程の余裕も無いのだ。
仕方ないな……小遣いを切り詰めて、来月にでもまた来よう。と思いつつ繁華街の雑踏を歩き、電車に乗り、帰途につく。
「鬱病」と言う言葉を最近よく耳にする様になった。特に営業成績やノルマを課せられるサラリーマンに多いと聞く。
恐らく自分もご多分に漏れずその口なのであろう。と思う。鬱だなんて、最近まで自分には縁の無いものと思っていた。でもある日ふと、一日中笑うこともなくむっつりと過ごす日があることに気が付いた。
それでも以前は一日そんな日があっても翌日にはケロッとしていたのだ。だがやがてそれが翌日も鬱の状態を引きずる様になり、やがて3日続き、4日目に直り……と言う様に鬱状態になっている日の比率がだんだん多くなって来た。そして今では一週間の内で気持ちの晴れる日が1日か2日あれば良いくらいにまでなってしまっていた。
家にいても押し黙り、子供といても、テレビでお笑い番組を見ても空笑いしか出て来ない。ああ、最後に腹の底から笑ったのはいつだったろう……。
新宿駅から京王線の快速に乗り換えて、最寄の国領駅までは途中のつつじヶ丘駅で各駅停車に乗り換えて25分程であった。
帰宅を急ぐ人の群れに押し流される様にして駅を出て、駐輪場から自転車を引っ張り出してマンションへと向う。
3年前にマンションを買ってから、もうすっかり通い慣れた道を自転車を走らせて行く。
顔に当たる夜風が心地良い。まだ先ほどリアルに甦った小学生時代の甘味な思い出が全身に痺れをもたらしている様だ。
マンションに着くと入り口の脇にあるピロティに自転車を止め、エレベーターで4階へ上がる。
「ただいまぁ」
「おかえりなさい」
ドアを開けると奥の部屋から妻の好江の声が聞こえて来た。きっと娘の美由を寝かし付けていたところなのだろう。
そっと靴を脱いで玄関を上がり、廊下を歩いてそうっと奥の寝室まで行き、中を覗いてみる。
「パパ……帰って来たの?」
小さな子供用ベッドに横になった美由が進に呼びかけた。
「ただいま、美由ちゃん。ごめんね遅くなって、また明日お話しようね、お休み」
「お休みなさい」
ベッドの脇にいた好江が美由に毛布を掛け直してやり、進に振り返って微笑んだ。
進は居間に入って鞄を置き、スーツを脱いでソファに掛ける。
「お帰りなさい、遅かったね」
美由を寝かし付けた好江が入って来る。
「うん」
「何か食べるでしょ」
「ああ、先に風呂入るけど」
「うん。沸いてるから、入ってる間に用意するね」
進はその場に洋服を脱ぎ散らかして裸になり、そのまま浴室へと向う。
好江は黙って進の脱いで行った服をたたんで仕舞い、キッチンに立って食事の用意を始める。
進が帰宅する時間は日によってまちまちだったが、いつも帰って来るとすぐに入れる様に風呂が温められている。
風呂から上がるとタイミングを見計らって好江がテーブルに冷えたビールとコップを用意して来る。
「今日ね、美由ったら吉川さんちのヒロユキちゃんから愛を告白されたのよ」
進にビールを注ぎながら用意していた今日の話題を好江が振ってくる。
「へぇ~何て言ったの?」
「それがね、笑っちゃうんだけど、大人になったら僕が一番に美由ちゃんの彼氏になるから、今から予約しときたいんだって」
「へぇ~予約ってか」
と好江の調子に合わせて面白そうに反応してやると「そうでしょう」と好江は嬉しそうな顔をして笑う。
妻とのいつものたわいもない会話だけれど、近頃はそんな会話にも、何処か予定調和で進行されている様で白けた感じを引きずっている。
近頃進が感じている自分の鬱状態を好江は全く気付いていないのだろうか、進としては好江や美由のいる前では心配をかけてはならないと思い、努めて明るく振舞っているつもりだったが、時としてどうしても浮かない表情を浮かべて黙ってしまう時もある。
そんな進の様子に妻の好江はまるで気に止める様子も無い。それは本当に気付かないでいるのか、それとも鬱などと言うネガティブな側面にはわざと無関心を装っているのか分からなかったが、進としては好江は多分本当に気付かないのだろう、と解釈していた。その方がわざと無関心でいられるよりは良いと思っていたのだ。
2
ピッ……ピッ……ピッ……ピッ……小さく鳴り始めたアラームで進は眠りから呼び戻されて行く。最初は小さく優しい音で、それが徐々に大きな音に変わって行く目覚まし時計だ。
薄っすらと目を開けて枕元の目覚ましに手を伸ばし、アラームのスイッチを切る。
もう朝か、ついさっき布団に入ったばかりの様な気がする……。
もうちょっとだけ目を瞑っていたいな。と思う間もなくガラリと寝室の戸を開けてバタバタと好江が入って来た。
「おはよー、今日は天気が良いから布団干すからねっ、さぁ進さん起きて~」
情け容赦なく掛け布団が引き剥がされる。進はエビの様に蹲った。4月の初旬はまだまだ寒い。
やるせない表情で洗面所へ向い、もう少しベッドでまどろんでいたかったのに……とクヨクヨ思いながらゴシゴシと歯を磨く。
バシャバシャと顔を洗うといつの間に掛けられたのか新しいタオルが洗面台の横にかけられている。
顔を拭いて寝室に戻るとそこには洗いたてのワイシャツから靴下、ネクタイに至るまで今日着る物が取り揃えられている。
着替えてダイニングに入って行くと既に保育園の制服に着替えた美由がムシャムシャとトーストを頬張っている。
「パパお早う~」
「お早う美由ちゃん」
テーブルの美由のいる向かい側に進の朝食も用意されており、スープが湯気を立てている。
進も座ってトーストにパクついた。
「私今日は遅くなるかもしれないから~、夜は用意しとくからチンして先に食べといてね~」
ベランダで洗濯物を干しながら好江は進に呼びかけた。好江は美由を保育園に送り届けた後、近所のファミリーレストランにパートに出ているのだ。
「ああ、分かったよー」
半ば上の空で返事しながらトーストを頬張っていると、いつからこう言う風になったのだろう……と言う思いが過ぎる。
朝目が覚めてから、何もかもが好江に仕切られて、嫌それが不満と言う訳でもない、朝起きて顔洗って着替えて食事して、誰もがやっている当たり前のことだ。
でも何か「やらされている」と言う気持ちになることがある。確かに進がせっせと稼いで来た金で女房と娘を養っている。そりゃ大した稼ぎでもないからマンションのローンを払うだけでアップアップだし、その為に好江も毎日パートに出て家計を助けてくれている。そんな女房に感謝こそすれ不満に思うこと等ないはずだ。
目の前で口の周りをジャムだらけにしながらトーストを頬張る娘の美由。なんて可愛いんだろう。いつの間に僕にはこんな娘が出来たんだろう……と不思議になるくらいだ。
けれどこれも好江の計画通りだったのかなぁ、等と取りとめもなく思ってみたり。
好江は進より2歳年下で、進の勤める会社に短大卒で入社して来たのだった。
その年は丁度長年努めていた総務と経理の女子社員2名が立て続けに退職したこともあり、進のいる営業所には好江を含む二名の女子社員が新卒で配属されて来た。
その年好江と同期で配属された男子社員は塩中透と言う4大卒が一名だけだったのだが、慶応大学卒のこの男は、進より3年後輩であったが、進は大学に入る時に一年浪人しており、その大学を2年で中退していた為に塩中は同い年で、学生時代はバスケットをやっていたと言うだけあってスラリとして容姿が良く、たちまち女子社員たちの間で人気者になった。
当初は好江も同期で入社したこの塩中にぞっこんなのが傍から見てもアリアリと分かった。
だが、やがて塩中に長年付き合っている恋人がいて、行く行くはその彼女と結婚するつもりであると言う噂が広まると、途端に好江は目先を変えて他の男性社員にアプローチをし始めた。
それでもまだ好江には進のことなど眼中に無かった。しばらく他の独身の男性社員を飲みに誘ったり、他の会社に勤める女友達と連絡を取り合って合コンに勤しんだりしている様子だったが、そのどれもに良い相手と巡り会うことが出来なかったらしく、とうとうしょうがなくなって、ふと気が付いたらそこにいたと言う感じの進に、目を向けて来たのだった。
進は真面目に勤めるだけが取り柄だったが、かと言ってそれ程の営業成績を上げている訳でもなく、黙っていると全く存在感の無い男なのであった。
ある時好江から「帰りに軽く飲みませんか?」と誘われ、断る理由を思いつかなかったと言うだけで付き合った日から、好江はそんな進の反応を良しと見て積極的に誘いを掛けて来る様になったのだった。
進はそれまでそんなに女性から積極的にアプローチされたことが無かったので、満更な気持ちでも無かった。
決して美人と言う訳では無い、お節介な程世話好きで、年下でも姉御肌なところもあるが、好江はことあるごとに自分の旦那様として進を立ててくれる女であった。
好江のそんな性格と、どちらかと言うと引っ込み思案で大人しい進の性質とは、結婚生活において中々相性が良いのではないかと進は思っている。
上手く行っている。そう、自分と好江との夫婦生活は上手く行っているのだ。
でも、こうも思うのだった。全ては好江の目算通りではないかと。
そもそも好江は入社したのも結婚相手を見つけるのが目的で入って来た様なものだったのだ。
最初に目に付いた慶大卒で男前の塩中に振られたと見るや他の男性社員たちに目を向けたが、こちらからアプローチしても誰からも相手にされず、最後に仕方なく残っていた進に声を掛けてみたら、コレが思いがけず好意的な反応を示したので妥協した……。
でも……それでも良いじゃないか……と進は思う。こんな可愛い娘も出来て、家に帰ればいつも風呂を沸かし、食事の用意をして待ってくれている女房がいる……良いじゃないか。
このマンションを買おうと言い出したのも、この物件を探して来たのも好江だった。
当たり前のことだが好江はこれからの進の生涯収入を見越して、その金額で買うには一戸建ての家は無理だと思い、マンションを買うことにして不動産情報を駆使して探し、売りに出ていたこの物件を契約したのだ。
それに美由の他にもう子供を作ろうと言う気が無いらしいことも、きっと進の稼ぎでは子供はひとり育てるのが精一杯と高をくくっているのでは無いだろうか、それは考えすぎと言われるかもしれないけれど、進はそれに間違い無いと思っている。
付き合い始めた当初から好江はとにかく早く結婚したいと言う願望だけが見え見えで嫌な気がしたのだが、女性から積極的に迫られた経験の無い進は半ば嬉しい気持ちもあって、そのままズルズルと引きずられるまま結婚したのであった。
僕のこれからの人生は全て好江の思い通りになって、好江の為にあるのではないか……進はそんな卑屈な見方をしてしまう自分は嫌なので無視することにしている。
こんな風に親密になって何年もひとりの女性と付き合った経験が進には無かった。そんな進にこんなに親身になって世話を焼いてくれる女性が現れたのだから、文句を言ってもしょうがない。どう思おうと今はこれで幸せなのだ。
等ととりとめも無く思いながらふと見ると、テレビ画面の隅に表示されている時刻が家を出るまでにあと2分しか無いことを告げている。そんなことつらつらと思ってる暇はないじゃないか。
朝食を切り上げてバタバタと上着を着て鞄を持ち、玄関へと急ぎ足に行く。
洗濯物を干し終えた好江が入って来て慌てて新しいハンカチを進に持たせる。
「行ってらっしゃい、今日も頑張ってね」
好江は毎朝こうやって進を元気付ける様に勢い良く仕事へ送り出す。まるで「私たちの為にいっぱい稼いでいらっしゃいよ~」とでもけしかけられている様な気がする。
マンションの4階にある家を出た進はエレベーターで一階におり、脇に作られているピロティから自転車を引っ張り出して、駅まで走る。
調布市の郊外にある進のマンションから最寄駅である京王線の国領駅まではゆっくり走っても10分くらいだ。
朝の街が気持ち良く通り過ぎて行く。爽やかな風に乗って自転車を走らせていると、このまま駅などへは行かず、ずっと遠くまで走って行きたい気持ちに襲われてしまう。
僕だって自分の人生を自分なりに考えて生きて来たつもりだ。でも、いつの間にかお節介な女房に押し切られる様にして結婚し、子供も出来て、すっかり尻に敷かれたままいつの間にかマンションを買っていた。
思えば僕の人生は全てが「いつの間にか」だったんじゃないか。
でもそれも良いじゃないか。ローンを払い終わるまでにあと25年、これから僕の人生はあのマンションを買う為にあるんだ。あの部屋が僕の人生なんだ。都心まで25分の2LDK。僕の人生、こんなにちっぽけだけれど……。
駐輪場に自転車を止めて、いつもの様に改札を入ると地下通路を潜って新宿方面行きのホームに出る。
停車する電車の扉の位置にそれぞれ目印が付けられており、その場所その場所に乗車する通勤客たちが列を作って待っている。
進もいつも乗る位置に出来ている列の最後尾に並ぶ。
ひとことも言葉を交わしたことは無いけれど、毎朝顔を合わせる常連たちに紛れてしばしの間電車を待つ。
「まもなく、1番線に……」
と言うアナウンスの後、各駅停車の新宿行き電車がホームに滑り込んで来た。
その窓窓はギッシリ詰まった通勤客ですでに満員の様相なのに、そこへさらにこのホームで待っている山ほどの人間が突入して行くのだ。
開いたドア一杯に乗っている人ごみの中へ、ホームから連なった人々が入って行く。その流れの中で進も車内に足を踏み入れる。
後から更にドカドカと人がなだれ込み、ギュウギュウに押されて進は思ってもみなかった程奥の方へ押され流されて行く……いつものことだ。
余りにも身動きが取れず、回りを囲む人間に不快感を感じる。でも仕方がない、その人たちから見れば、逆に自分が不快に思われているのだから……。
どうして人は職場の隣に住むことが出来ないんだろう……。
顔を歪めて揺れるにまかせていると、人間として扱われていない気がしてくる。
どうして毎日わざわざ遠くからこんな思いをしてまで会社に通わなければならないのか。等と無駄なことを思ってしまう。
コレが僕の人生なのだ。家があり女房がいて可愛い娘がいて仕事もある……僕の技量でこれ以上何が望めると言うのだ。
京王線で新線新宿駅から先はそのまま都営新宿線に乗り入れて、市ヶ谷駅でJR中央線に乗り換える。それから三駅先の御茶ノ水駅で降りる。進の勤める会社はそこにある。
進の勤めている会社はシャノンメディカル株式会社と言う。海外から輸入した医療器具や自社で開発した新製品を病院や研究施設等に販売するメーカーである。
本来新卒者しか採用しないのだが、地方の医大を中退していた進は教授に紹介して貰い、特別に採用して貰ったのだった。進が入社してから既に十四年が経っている。
御茶ノ水駅から歩いて5分程のところにある豪奢なオフィスビルの6階にその営業所はある。
進はこの会社で万年平社員な人生を歩むことになるのだ。何年経っても相変わらずの営業とメンテナンスに回る毎日。いつか自分が現場から離れ管理職の地位に着く日が来るとは到底思えない。
6階でエレベーターを降り、広々とした受付けのカウンターの脇に設置されている電子式のタイムレコーダーにタイムカードを差し入れてオフィスへ入る。
同僚達に「お早う御座います」と挨拶しながら営業部にある自分のデスクに着いた。
外部から届いたファクスと留守番電話のメッセージをチェックし、今日回る予定の病院や紹介する機器の資料等をチェックする。
そして入り口脇のパーティションに掛けられた行く先予定表のホワイトボードの自分の欄にマーカーで「営業」と書き入れて進は部屋を出ようとする。
「おぅ、高本君、ちょっと」
その時出社して来た課長の島に呼び止められる。
進は内心「しまった」と思いながら笑顔で「お早う御座います」と答え、島課長のデスクへと赴く。
「何でしょうか」
島は進に透明のA4版のホルダーに入った資料を手渡して言う。
「本社から今年ドイツで発売される新製品のレーザーメスの資料が届いてるから、良く目を通しておいて、月曜日のミーティングで皆に説明出来る様にしておいてくれ」
「えっ、でも……」
「俺はまだ新入社員の研修で手が一杯だからな、頼んだよ」
反論する余地も無く、島はそれっきり進を見ようともせずにデスクに置かれた受話器を取って連絡を始めてしまう。
渡された資料を手に進は茫然とするしかない。
他にも社員は沢山いるのに、何故僕に頼むんだろう? その訳は分かっている。僕が一番頼みやすいからだ。
進は社会で生きて行く上で必要なことは何よりも周りと上手くやって行くことだと思っている。
その為に一番重要なことはまず身近な人間との関係を円滑にすることだ。だから例え嫌な相手がいても、腹を立てる様なことがあったとしても、いつも笑顔を絶やさずに、人に良い印象を持たれる様に心掛けよう。それが進のサラリーマンとしての信条だ。
だが、いつもそんな風に振舞っているので、いつの間にか進は頼まれれば何でも引き受けてしまうお人好しだと言うキャラクターが定着してしまい、その為に時としてこんな貧乏くじを引いてしまうことも珍しくない。
そもそも新製品の概要を把握して社員に伝えると言うのは課長の仕事じゃないか、と言いたかったが、進にはそんなことを言える訳も無い。
ちくしょう、また余計な仕事を押し付けやがって……トボトボと社外へ出ようとした時「高本さん」と後輩の塩中透に声を掛けられた。
「来週の新入社員歓迎会は15日に駅前の居酒屋『錦の茶屋』でやることに決まりましたから、宜しくお願いします」
「ああ、分かったよ、15日だね」
好江がまだこの男を夢中で追いかけていた頃、塩中には長年付き合っている彼女がいて、その女性と結婚すると言う噂が立って好江も諦めたのだが、その後その女性とはどうなったのか、結局塩中は進と同じ35歳になった今も独身のままで、時おり他の女性と一緒にいるところを目撃されることがあったりで、結局は独身貴族を決め込んでいろんな女性との情事を楽しんでいる様子であった。
それでも進はこの男に悪い印象は持っていない。高学歴も、女にモテることも全く鼻に掛けたところがなく、誰に対しても爽やかで、お人好しで他の社員にバカにされがちな進のことも先輩としてしっかり立ててくれ、気を遣ってくれていることが分かる。
コレが彼の処世術なのかとも思うが、ろくな営業成績も上げていないのに上司たちからの受けも良いのだ。
塩中と入り口のカウンターの脇で話していた総務の倉橋俊子が声を掛けてくる。
「でも高本君は好江ちゃんが恐いから、あんまり遅くまではゆっくりしてられないわよねぇ」
倉橋俊子はお局様と影で呼ばれている。確か40歳くらいにはなっているはずだが、まだ独身であり、男性社員も含めてこの営業所では一二を争う古株であった。
なので進より3年遅れて入社した好江のこともよく知っており、好江が塩中のことを諦めて、他の男にも散々振られた挙句に妥協して進に向かい。進はそんな好江に押し切られて結婚したと言う経緯も承知しているのだ。
「いえ、そんな、新入社員の歓迎会の時くらい、ちゃんとお付き合いしますよ」
進はカチンと来た心とは裏腹に俊子に笑顔でそう答える。
「あら、そうなの、珍しいわね、でも会費は5000円ですからね、大丈夫? 好江ちゃん少ししかお小遣いあげて無いみたいだから可哀そうだけど」
「大丈夫ですので、ご心配なく、あ、そうだ今月の領収書と交通費の清算書が溜まってますので、こちらの処理をお願いしますよ」
と言って進は鞄のポケットから接待費や移動に使った交通費の清算書の束を出して俊子に差し出した。
「そう、じゃ一応預かっとくけど、ひとつずつ審査しますからねぇ、全部出るとは思わないでよ」
俊子は用紙の束を迷惑そうに進の手からもぎ取ると、ツカツカと歩いて行った。
朝から何とも不愉快な気分にさせられながら、進は「それじゃ、行って来ます」と言ってそそくさと会社を後にした。
我慢しなきゃ、あんなに頭に来るお局様だけど、きっと根は悪い人じゃないんだ。きっとあんな歳までひとりでいて、寂しい思いをしているに違いないんだ。
そうさ、何事もこっちが折れて、上手くやって行かなくちゃ。僕が我慢すれば良い事なんだから……。
進はそんな風に自分に言い聞かせた。社会で生きて行く為には、自分の中の葛藤は自分が良い子になって事態を収拾して行くしかないんだと思っていた。それを生活信条としてやって来たのだ。
3
御茶ノ水駅へ来た進は新宿方面行きの電車に乗った。
進の仕事は都内の総合病院や大学病院、その他開業医等を回って新式の医療機器の売り込みをしたり、既に納品された各種機器のメンテナンスやアフターサービスに奔走すると言う。総合的な営業である。
進の会社で扱っている製品は外科手術向けの電子メスや内視鏡、整形外科向けの人口関節、耳鼻科用の特種な手術器具、また麻酔科や脳神経外科で使う電子機器に至るまで広範囲に渡っている。
これ等は物によってはかなり高額なもので、家庭の電化製品の様においそれと買い換えられる代物ではない。物によっては何百万、いや何千万もする製品がザラにある。
営業先の病院で今使っている器具が壊れたり、旧式になったので買い換えると言うタイミングを待つ為に、長年に渡っていつ実るとも分からない営業努力を続けなければならないと言う、根気のいる仕事なのだ。
気長に細々とながらも顧客との関係を保ち続けていくことが大切なのだ。
進が入社して以来始めて担当した顧客で、文京区にある大手の総合病院、昭和台病院で医局長をしている村麦実と言う46歳の男がいた。
進とは10年前村麦がまだ一介の勤務医だった頃からの付き合いであり、以降その病院で器具の買い替えや新しいシステムの導入に当たっては全て進を窓口としたシャノンメディカルからの購入を約束されている。
進が始めて営業の実績と言える成績を残せたのはこの男のお蔭であった。
ことあるごとに進は村麦の元へご機嫌伺いに顔を出し、例え私的な用事であっても呼ばれればいつでもはせ参じて来た。
夜のお付き合いは勿論のこと、時には浮気の為に奥さんへのアリバイ工作までした。
「こんにちは、お早うございまーす」
いつもの様に4階の医局長室へ顔を出すと、村麦は机やテーブルの上に沢山の資料を山積みにして、てんてこ舞いしていた。
「おう、良いところに来た」
と嬉しそうに進を手招きする。山積みになった資料はこの病院の内科で扱ったクランケのカルテであり、この中から今までに村麦が担当したクランケをピックアップしてリストにし、パソコンにデータとして入力しなければならないのだが、捗らなくて困っていたと言う。
進は心の中で「ああ、今日はこれで一日終りだな……」と思いつつ「手伝いましょう」と笑顔で応えながら鞄を置いて腕まくりを始める。
要領を教わった進は暫らく黙々と村麦と共に作業に没頭する。そして正午近くになると「おう、そろそろメシにするか」と村麦は進を誘って外へ向う。これもいつものパターンだった。向うのは近くにある高級ホテルのレストランである。
「お前がこれまで営業としてやってこられたのは俺のお蔭なんだからな」
村麦は上機嫌でデザートとコーヒーを飲み終わると、当然の様に支払いは進に任せてサッサと席を立って行く。
進もまた当然の様に支払いを済ませ、村麦と共に病院に戻ると再び資料の整理作業に取りかかる。
村麦の方から「今日はもう帰って良いよ」と言うまで絶対に席を外したりはしない。
夕方近くなっても作業は一向に終わる気配が無い。
アイウエオ順に並ぶ膨大な数のカルテの中から担当医の欄に村麦の名前がある物をピックアップし、その日付け及び概要をコピーして行くのだが、まだやっと「な行」までが終わったところで、分量としてはまだ3分の1くらいが残されている。
作業にも退屈したのか、村麦は革張りのプレジデントチェアに踏ん反り返りながら、誰かと電話でお喋りを始めた。話す相手は銀座辺りの高級クラブの女らしい。
「それでさー明日までにどうしても資料そろえておくようにって院長に言われちゃってるのよ、うん、今俺の子分に手伝わせてんだけどね、う~ん、もうあと2時間くらいはかかっちゃうかなぁ……」
結局6時になった時点で残りの作業は進が請け負うことになり、村麦はいそいそと病院を後にして出かけて行ってしまう。
どうせ今日は好江も遅くなるって言ってたし、連絡しなくても大丈夫だろう……。
嫌気が差して放り出したくなる衝動を抑えながら、進は一人黙々と作業を続ける。進が座っている応接セットのソファの側らに大きな鷹の剥製があり、何処かキョトンとした目で進をじっと見つめている。
企業の社長室を思わせる豪奢な室内には、剥製の他にも村麦が優勝したゴルフコンペのトロフィーや、スポーツ選手や芸能人と一緒に写っている村麦の写真が額縁に入れて飾られている。
7時近くになってようやく作業が終り、階下に降りて病院の人に挨拶をした後、進はやっと外へ出た。
夜風が冷たい、会社には直帰すると連絡を入れてある。
ふと見るとまだ病院に残っている医師たちもいるのか、駐車場にはフェラーリやメルセデス等の高級車がズラリと並んでいる。それらを眺めて歩いていると、やっぱり医者ってのは金持ちなんだな、と思う。進などはマンションだけで精一杯で、とてもマイカーまでは手が回らないと言うのに。
病院を出た進はJRの水道橋駅まで歩いて行き、そこから新宿方面行きの電車に乗った。過ぎって行く窓外をぼーっと眺めていると、ガラスに映った自分の疲れた顔があった。
これが僕の仕事なんだ。相手がどんな奴だろうが、傍から見れば屈辱を与えられていようが構わない。それで僕はサラリーを貰って、そのお金でマンションを買ったり、家族を養ったりすることが出来ているんだ。
万年平社員で営業職。決して表には出さないけれど、自分で持て余すくらいストレスとイライラが募る毎日。
でも生きて行くには温和に周りと上手くやって行くしかないじゃないか。僕だけじゃない、世の中で働いている人たちは皆こうやって辛抱しているんだ。
家に帰ると好江は美由がまだ風呂に入ってないと言うので、進が入れてやることになった。
進はくすぐったいと言ってキャッキャと騒ぐ美由の衣服を脱がせてやり、美由がお気に入りのアヒルの玩具を持って裸になって一緒に浴室に入る。
美由の小さな手、小さな足、脇を洗うとくすぐったがってキャッキャと笑う。
「パパー見て、アヒルさんだよーアヒルさんが泳ぐの上手でしょ? ねぇ見て見てぇ」
ついボーっとしてしまいがちな進の顎を突っ突いて美由が言う。
今年5歳になった美由は、もう顔立ちも表情もしっかりして来ている。
すましていると顔の形は好江に似ているが、笑ったり泣いたりして、表情を崩すととたんに進そっくりの顔つきになる。
可愛い……今更確認するまでもないけれど、間違いなく僕と好江の子供なんだ。
でも、以前ならお風呂ではしゃぐ美由の小さな手や顔を見ていると、昼間の仕事での嫌なことや腹立たしい事等はどうでも良くなってしまったものなのに、近頃はそんな美由の癒し効果も作用しないくらい、肩にストレスが厚く積もっている様だった。
風呂から上がり、いつもの様に好江が用意してくれるビールを飲んでツマミを食べ、今日の昼間あったことについて好江の取りとめもないお喋りを聞く。
そんなことだけでもいつもならウサ晴らしになり、明日への活力を養える物なのに、近頃は好江のお喋りの内容さえも、同級生の息子が私立の有名小学校へ入ったとか、近所の誰さんが高級住宅街に家を建てて引っ越して行ったのだとか、まるで進のスケールの小ささを揶揄しているかの様に進には受け止められてしまい、ともすれば卑屈な気持ちになってしまう。
そんな時進は自分に向ってこう言い聞かせる。僕にこれ以上の何が望めると言うのだ。
小市民と呼ぶなら呼べばいい、これが僕の幸せなんだ。ちっぽけで何が悪い。平凡こそが人の幸せじゃないか、人生に大きいも小さいもあるもんか。自分が良ければそれで良いんだ。
4
翌日いつもの様に出社した進は、また昭和台病院の医局長、村麦に呼び出される。
聞けば今日は引越しをするから人手がいるので大至急来て欲しいと言う。
行く先の住所を聞くと村麦の自宅がある世田谷ではなく、新宿区だと言う。その住所にあるアパートから荷物を運び出し、近くのマンションまで運び込んで欲しいと言うのだ。
タクシーで向ってみると、そこは賃貸の古びたアパートであり、行くと既にそこに住んでいた女の子と運送会社の男がアルミバンのトラックに荷物を運び込んでいる。
進が挨拶して自己紹介すると若い女は村麦から聞いていたらしく「村麦さんの子分の方ですね」と言ってニコッと笑う。
子分……その言葉に少し引っ掛かったが、それよりも気になったのはその女の子のおかしな日本語の発音だ。どうも日本人ではないようだが、深く追求してはならないと思い、進は鞄を置くと腕まくりをする。
作業服の男に手を貸してせっせとベッドやテーブルをトラックに運び入れて行く。
背広を汚して汗だくになりながら、ようやく全ての荷物をトラックに運び入れる。
そして女の子と一緒にトラックに乗せて貰い、村麦の指示した転居先のマンションへと向う。
住所の場所にトラックが着くと、そのマンションは大通りに面したオシャレで都会風でピカピカな印象である。荷物を運び出して来たさっきの旧式のアパートとは凄い違いだ。
通り沿いにトラックを止めて降りて行くと、マンションの入り口にジャガーを横付けした村麦が待っている。
村麦は「おう」と手を上げて近付いて来ると進に一本の鍵を渡す。
マンションの入り口はガラス張りのエントランスになっており、オートロック式なのでその鍵が無いと外からは開けることが出来ないのだ。
村麦は「じゃ、後頼むよ」と言って女の肩に手を回すとジャガーの方へ歩いて行く。
助手席に女の子を乗せ、エンジンを響かせて走り去る。
残された運転手は人材派遣会社から来ているらしかったが、この仕事を始めて間もないらしく、何かにつけて荷物運びの手際も要領を得ず、ともすると素人である進と同じレベルで苦戦している。
ガイーン!
そのうちに進は運んでいたテーブルの角をエレベーターホールのガラスの縁にぶつけてしまい、大きな傷をつけてしまう。
その音を聞き付けて管理人の初老の男が慌ててやって来る。
「あーあ、コレ弁償して貰いますよ」
「えっ」
「大体こういう物を運び込む時はね、みなさんぶつけても良い様にプラスチックの板とかベニヤを貼り付けてやるんですよ、そのまんまやるならよっぽど気を付けて貰わなきゃ困るじゃないですか」
凄い剣幕で捲くし立てられて進は唖然としてしまうが、こうなったからには仕方がない、運転手が派遣されて来た会社にはこう言う場合の保険等の用意はないのかと訊ねてみたが、運転手は傷をつけたのは進なので自分には関係ないの一点張りだ。
彼としても自分のミスとして会社に処理を頼むのが嫌なことは察しがつく。どうにもならない。
こんなことを村麦に言う訳にも行かないし。進の会社に言ったところで引越しの手伝い等は業務のうちに入っていないのだから、どうなるものでもない。
そもそもあの総務のお局様に物を頼む気になんかなれないし。村麦先生は進にとって背に腹は変えられない大事な顧客なのだ。
仕方がない、自腹を切って弁償するしかないと思う。
進は管理人に自分の会社と連絡先を教え、工務店からの見積もりと請求書を回して貰う様に話を付ける。
そうしてその日は午後までかかって全ての荷物を運び入れた後、その場を引き取った。
……あのガラスの縁を弁償するのに幾らくらいかかるんだろうか。満員の通勤電車の窓に映る自分の疲れた顔を見つめながら、進は思っている。まるで検討もつかないけれど、きっと何万円かはするんだろうな……。
電車に揺られながらそんなことを考えていると、いつになく重く憂鬱な気持ちが圧し掛かって来る。
好江に相談してみようか、好江は優しい世話女房で、甲斐甲斐しく何でもしてくれるけど、進が無駄な金の使い方をしたり、高い買い物をした後にもっと安く買う方法があることが分かったりすると、物凄く怒る。
きっとこのことを相談しようものなら一気に機嫌が悪くなって、2~3日はあのヒステリーの応酬に甘んじなければならなくなる。
それは嫌だ。だから何とか僕の乏しいヘソクリだけで賄える金額であることを願うばかりだ。
今頃村麦先生はあの可愛い何処かの国から来た女の子と楽しく過ごしているんだろうな……。
いつもの様に国領駅を降りた進は、脇に作られている駐輪場から自転車を出してマンションへ走る。
その夜は風呂に入ってもビールを飲んでいても、あの新ピカマンションのガラスの弁償代のことが頭の隅から離れない。
なんであんな愛人の引越しなんかを僕が手伝わなければならないんだろう。
しょうがないのは分かってる、分かっている、けれど……。
只でさえ無償奉仕でやらされているのに、それで失敗したのは自分で責任を取らされて、どうしてそんなことまで……いや、考えたってしょうがない、分かってる、分かってるけど……。
自分は立場が弱いんだからしょうがない……と言うのが進の出した結論だった。いつもと同じことだ。
「ねぇ見て、この人凄いんだよ、死んだ人の霊魂が普通に見えるんだって……」
進の気も知らず話しかけて来る好江にふとテレビを見ると、近頃活躍中で話題になっている霊能者の姿が映っている。
それは霞里周安と名乗る和服姿の中年の男で、相談者の守護霊や前世の姿等を手に取る様に見ることが出来るのだと言う。
そして相談に来た人が抱えている悩みや問題について、的確な指導をしてくれると言うことで評判になっているらしかった。
霞里周安は昔の高貴なお坊さんを思わせる様な和服を着ており、恵比寿様の様な笑顔を浮かべ、優しく相談者の話に聞き入っている。
だが右頬の上に引きつれた様な大きな傷跡があり、それだけが柔和な顔の中に違和感を際立たせている。
そんな番組を見ても今の進には上の空だったが、膝の上に美由を抱きながら見ている好江はその番組に夢中になっている。
テレビ番組の中では最近不慮の事故で夫を失ったと言う若い妻と残された娘が相談者として出演している。
亡くなった夫に宛てて娘と一緒に書いたと言う手紙を、周安を通じてあの世の夫の元へ届けて欲しいと願っているのだ。
周安はその手紙を視聴者に向って紹介し、それを天国にいる御主人の霊にお伝えしたところ、この様な返事が返って来ましたと言って懐から和紙に包まれた文を恭しく取り出して見せた。
「それじゃ、良いですか、御主人から奥さんと娘さんに送られて来たメッセージを、私が代わって受け取らさせて頂きましたから。今からそれをお読みしたいと思いますので、聞いて下さいね」
「はい、お願いします……」
既にハンカチを目に当てながら、若い妻は娘の肩を抱いて周安の言葉に耳を傾けている。
周安は文を両手で広げながら、静かにその文章を読み始める。
「愛する妻と娘へ……」
好江は夢中になってテレビに見入っている。
「……こんなに早く、あなた達の元から去らなければならないことになろうとは、パパ自身、全く思っていなかったので驚いています。今はただただ、ママと瞳ちゃんがこれから先、生きて行くことを守ってやれなくなってしまったことが悔しくてなりません……」
周安の言葉に聞いていた妻は滂沱の涙を流し、テレビに見入っている好江もつられて涙を浮かべている。
きっと好江にしてみれば、テレビで周安に相談を持ち掛けている妻と娘の姿に自分と美由のことを重ねて見ているに違いなかった。
ふん……僕は死んだってこんな殊勝な手紙なんか天国から書いて寄越したりしないぞ。
テレビの中のことと、それに心を奪われて涙を流している好江の姿とが、進の目にはまるで滑稽でバカげたことにしか映らない。
何だよこんなもの……僕の頭はあのガラスの弁償代金のことで一杯だって言うのに。
そんな進の心情を他所に、テレビの中では周安の言葉が続いている。
「……これから先、どんな時もパパは貴方たちの側にいます。どうかこれからも幸せにママと暮らして行って下さい。瞳がすくすくと成長して行く姿を、パパはいつも見守っていますからね……」
霞里周安は実しやかに天国にいる夫からの手紙だと言う文を読み上げて妻と娘を泣かせ、またテレビを見ている視聴者たちにも、今ここにいる好江の様に感動を与えているのだろう。
進には世の中の霊能者と称する者たちが言う、守護霊が見えるとか、前世の姿が見えるのだとか言ったことは全く信じられない。
そんな物は全て嘘八百のペテンに違いないと思っている。
けれどもこの霞里周安と言う男にはどこか憎めないと言うか、何故か悪い印象は持っていなかった。
例えペテンの嘘八百だとしても、夫を失って絶望している妻と娘に、例え嘘でもこれだけの勇気を与え、生きる希望を与えているのだから、それには罪は無いだろうと思った。
第二章
1
番組が終わると好江は美由と一緒に寝室へ入ってしまい、進はひとりダイニングに残って水割りを啜っている。
どんなに酔っても今の進にはあのガラスの弁償代金のことが全てなのだ。
こんな日はもう早く寝てしまおうと思い、少し強めの水割りを作り、酔いが回ってフラつき始めたところで歯を磨いて寝室へ入る。
ダブルベッドの上では好江がでんと横たわって鼾をかいて眠っている、その向こうでは子供用ベッドで美由が静かな寝息を立てている。
進はそっと布団をめくると好江の横に小さく縮こまる様にして潜り込み、目を閉じる。
ああ……何処かに飛んで行ってしまいたい……。
あの催眠療法を受けた時に行った、小学生時代の友達とまた遊びたい……。
セラピストの女性は催眠は決して自分一人ではやろうとしないで下さい、と言った。
一人で催眠状態に陥ってしまうと自分の力では戻ることが出来なくなり、ヘタをすると生涯正気に戻ることが出来なくなることもあるのだと言う。
でも……それならと進は思う。帰って来れなくなるのならそのままでも良い。もうこんな毎日は沢山だから。空想の中でだって良いから、僕はそのまま少年時代にいたいんだ。だってあんなに楽しかったじゃないか。
等と思っているうちにウトウトし始めてしまい、進はそのままあの懐かしい世界への瞑想に入り始めてしまう。
小さい頃に過ごした大分県、そう、小学校、進が小学生時代を過ごした、九州の大分県大分市立、浜永小学校……あの頃に戻って浜永小学校に行ってみたい……。
浜永小学校……進は精一杯記憶を遡って行く。何か手掛かりになる様な物はないかと記憶の中をさ迷う。
何が見える? 何があった?……あ、銀杏の木、そうそう、大きな銀杏の木が、6年生の新校舎の前にあった……それから……その側に真っ直ぐに伸びた長い校舎の一番端が音楽室で……。
よく休み時間に音楽の先生が大きなステレオで僕等が持って来たレコードをかけてくれたっけ。
その隣りが図工室で、そうそう……それから保健室と職員室。保健室の前を左に曲がると給食室があって、真っ直ぐに行くと1年生~5年生までの教室がズラッと並んでる校舎に突き当たる……思い出す……思い出す……音楽室の横が渡り廊下になっていて、新校舎へ続く間に便所が、木造の汲み取り式で、臭かったな……よく当番で掃除をさせられたっけ。凄い、こんなこと思い出すのは20年振りなのに、どんどん精彩に浮かび上がって来るじゃないか。
人間の脳は今までに見た物を全て記憶しているのだと言う。
脳の中には海馬と呼ばれる4千万個の神経細胞から出来ている部位があり、その中に今まで見た事聞いた事の全てがコンピューターのメモリーの様に記録されていると言うのだ。
ただ人間はそれを自由に思い出すことが出来ないと言うだけで。何かきっかけになる物さえあれば、そこから辿って全ての記憶を呼び覚ますことが出来るのだと何かの本で読んだことがある。
進の目の前に、まるで自分がそこにやって来たかの様に鮮明に、小学校の光景が浮かび上がって来る。
校舎の向こうが正門だ。門を出て真っ直ぐに伸びた道を行くと両側に商店が並んでるんだ。よし、学校の外に出て歩いて行ってみよう。
ここは同級生のクーのお父さんがやってる洋服屋さん。こっちの裏にはニンジンの家が、そして突き当たりは兄貴の同級生だった丸谷君の家の自転車屋さんだ。
そこからこう行って……こう行くと……そうそう、ここが大通りになっていて、歩道橋を渡る時、上からよくバキュームカーが通るのを数えたっけ、何でそんなことまで覚えてるんだろう……。
大通りを右に行くと大分川にかかる舞鶴橋があって、その土手の前にそびえ建つのが西鉄グランドホテルだ。河原でよく友達が釣りをしていたな。
そうそう、舞鶴橋の下の水道管の上にボロボロの毛布とかが積んであって、ホームレスがいた。コンクリの橋桁にチョークで女の人のヌードの絵が描いてあって、みんなで「エロ乞食」とか言ってからかってたな。懐かしい。
もっと街を歩いてみよう。ここがオデキの家の酒屋さん。この家は貧乏だってよくみんなに苛められていたショウタの家。僕もからかったことがあったな、ごめんよ。
鮮明にある場面が映し出された。それは小学2年の時、貧乏で体操服も買って貰えなかったショウタは何と2学年上の姉が着ていたお古のブルマーを履いて体育の授業に出て来たのだ。
「女や! こいつブルマ履いちょるけん女やぁ、やーいやーい……」
号泣するショウタを取り囲んで進たちは囃し立てた。今思えば何て酷いことをしていたのかと思う。涙をボロボロ流して泣いているショウタの顔……あの時ショウタの心はどれだけ傷ついたことだろうか、思いがけず鮮明に再現されたその光景の中にいて、進は申し訳ない気持ちで一杯になった。
ごめんよショウタ。彼は中学に入ってから素行が悪くなって、当時不良と呼ばれていたグループのリーダーになった。
その後学校から姿を消して、噂では福岡で暴力団の組員になったとかって聞いたけど、今はどうしてるんだろうか、そりゃあんな少年時代を過ごしたら、世の中を恨みたくもなるだろう……本当に悪いことしたな。
再び進は懐かしい街を歩き進めた。商店街を抜けて住宅地を暫らく行くと、進の家のすぐ側にある舞鶴公園に差し掛かる。
よく遊んだなぁ……野球も、ドッチボールも、メンコも、夏は木を蹴ると雨の様にコガネムシが降って来たっけ。それを捕まえて脚をちぎったり、砂場で作ったトンネルに水を溜めて浮かべて泳がせてみたり、今思えばよくあんな残酷なことしてたもんだ……。
進の目に舞鶴公園で遊ぶ少年時代の友たちの姿が展開される。
もうここからはうちの実家がすぐ側だ。行ってみようか。もう何年帰ってないんだろう。
進はそのまま懐かしい道のりを記憶を頼りに歩いて行った。
こう行ってこう行って、ここを曲がると……あった。あれ、家に着いたら夜になっちゃったな。
進の実家は元々農業を営んでいたのだが、時代の移り変わりの中でやがて土地を切り売りし、今はマンションと駐車場経営で生計を立てている。
だけど家の建物は昔のままだ。懐かしいな。でも真っ暗だ、もう親父もお袋も寝てるんだろうか。せっかく来たんだから入ってみようか。
「こんばんは~」と玄関に向うといつのまにか中に入っている。広い上がりかまちがあって、左右に廊下が伸びている。右へ行くと進が子供の頃兄と過ごした子供部屋だ。
冷たい廊下を歩いて、そっと襖を開けて覗いてみた。四畳半は今は物置になって荷物が山積みされている。
子供の頃はこの部屋で兄貴と一緒に遊んだり、勉強したりしていた……小さいな、こんな小さな部屋だったのか。襖を閉めて、廊下を歩いて反対側にある居間へ行ってみる。
居間は昔の面影そのままだな。家具とかは多少買い換えられて新しい物になっているけど、そうそう、ここにテレビがあって。真ん中にある大きな座卓は冬はコタツになるんだ。
居間の隣りは8畳間だ。そっと襖を開けて入ってみた。そこに布団を並べて寝静まっている親父とお袋がいた。
「お母さん……」
そっと枕元に来て、寝息を立てている母親の顔を覗いてみた。
「……元気にしてるかい? ちっとも親孝行しないでごめんよ……僕は東京でもみくちゃになりながら、毎日元気にやってるよ」
不意にポロポロと涙がこぼれてきた。もし面と向ってはこんなことは絶対に言えないクセに、想像の中でだとどうしてこんなに素直な気持ちになれるんだろう……。
すっかり老いた両親の寝顔を見ていたら、申し訳ない気持ちで一杯になってしまった。
だが、進が申し訳ないと思う気持ちは両親によりも兄の陽一に対しての方が強かった。と言うより、進は兄の陽一が恐かった。
進よりも三歳年上の陽一は医者になると行って地元を飛び出して行った進とは対照的に、ずっと田舎に残り実家を守っている。
行き詰まった農業経営に苦闘し、畑だった土地を駐車場とマンション経営に切り換えて、高い固定資産税を払いながら切り盛りしている。
自分の夢を追って飛び出して行った進に対して、兄は田舎に縛り付けられた自分の境遇に不満を持っていることが、素振りや佇まいから痛い程感じられた。
おまけに進はそうして送り出して貰っておきながら医大を中退してしまい、医者になると言う夢も実現出来なかった。
そんな進に対して陽一が腹を立てるのは無理もないことだった。
この家には子供部屋だった四畳半と、両親が寝ている八畳間と、居間である六畳間と、その他にもう一つ部屋があった。
それは庭に面してちょっと離れ的に位置する六畳間で、当時は客間として使われていたのだが、今はその部屋に陽一が寝ているらしかった。
部屋の中から陽一のゴーゴーと腹に響く低音の鼾が絶え間なく聞こえている。
その音を聞いた進は畏怖を感じて縮み上がってしまう。
さっさと外へ出てしまおうと思い、そそくさと足音を忍ばせる様にして離れ、玄関へ向う。
実家から外へ出た。空を見上げるとさすがに東京では見られない星の大パノラマが輝いている。
ふと何か身体がふわふわと浮遊する様な感じがしたので飛べるかと思い、飛び上がってみると、そのままスイスイと身体が宙に舞い上がって行く。
飛べるんだ……きっと想像の中だからこんなことも出来るんだろう、でもなんてリアルなんだ。この空気感、風を感じる。
みるみる夜空の上へと進の身体が舞い上がって行く。あれ、全然恐くないぞ、そうか、きっと自分で飛ぶ分にはどんなに高くても恐くないんだ。
進めるんだろうか、進める。両手を突き出してみるとそっちの方へ身体が流されて行くみたいだ。ちょっとバランスが取れなくて不恰好だけれど、これは良いぞ! よし、このまま行けるところまで飛んで行ってみよう。
進はどんどん上へ登ってみた、九州の輪郭が見えるくらい上の方までずっと……。息苦しくなるかと思ったが、全然平気だ。
それから本州の方角へと進路を取った。流される流される……いや違う、自分で進んでるんだ。顔や身体に風が当たるのを感じる。
もしこの時の進を目撃した人がいれば、不恰好でガニ股の進が飛んでいるのを見て、まるで逆さまになったクワガタが横に飛んでいる様に見えたことだろう。
JRの大分駅の上空から別府方向へ、線路の上を伝って行こう。
早い早い、グングンスピードが上がる。みるみる別府湾が広がって来る。
あそこに見えるのは沢山の野性の猿が餌付けされていることで有名な高崎山だ。昔は良く家族で行ったっけ、今は真っ暗だな、猿たちも寝てるんだろうか。
別府の温泉地を通り超えて福岡県へ入る……アッと言う間に下関海峡だ。橋を通る車の光の列を遥か下に見ながら本州へ飛ぶ、ようし、もっともっとスピードを上げるぞ。本州に入ったら海岸線を辿って行こう。日本海の向こうに四国を横目に見ながら、目指すは東京だ。
あー飛行機が飛んで来た。ジャンボジェットだ。もの凄い轟音を響かせて、なんて大きいんだろう。こうして見るとまるで海の中をゆっくりと浮かんでるみたいに見える。
まさか僕には気づかないだろうな。ズラッと並んだ窓明かりの中に乗ってる人たちが見える。まるで精巧に出来たプラモデルみたいだ。カッコ良いな。何処まで行くんだろう。さようなら、気をつけて。
本州の形が遥か先まで見渡せるぞ、地理は苦手だったからよく分からないけど、きっとこの辺はもう広島かな、その横が岡山県、兵庫県、そして大阪、京都と続くんだ。あっちに見える大きな黒いのが琵琶湖なんだきっと。
三重県から愛知県へは伊勢湾の上を越えて行こう。海の上へ出ると地上の明かりが無くなって真っ暗になる。
広い海。こうして見ると地球で人間の住んでる部分なんてほんの狭いところだけなんだってことが分かる。
静岡県の清水港を通過すればもうすぐだ。伊豆半島……箱根……あそこに走ってるのは小田急線のロマンスカーかな? もうすぐ東京に到着だ。
東京、東京、やっぱり副都心の高層ビルの方へ行ってみたいな。ああ、もう見えるぞ、あっちだ。
進の身体はスイスイとあり得ないスピードで中空を移動し、遥かに建ち並ぶ超高層ビル群を見つけたかと思うとみるみる上空へ飛来した。
ああ……東京だ……なんて綺麗なんだろう。思わず息を飲んでしまう。他の街とは比べ物にならない。何て言う光の数なんだ。無数のダイヤモンドが噴き出した様にキラキラ輝いて……空から見るとこんなにも美しい街だったのか。
その上を自由自在に飛んでいる、僕は自由だ。頬に涙が伝って行く……美しい……進は思わず思っていた。
「こんな美しい光景を、葵ちゃんにも見せてあげたい……」
葵ちゃん。咄嗟に出て来たその名前に進は自分で戸惑ってしまった。
こんなふうにあり得ない程美しい物を目にして、思わず見せて上げたいと思った相手が女房の好江じゃなくて、かつて好きだった葵ちゃんだなんて……進はちょっと寂しい気持ちになってしまう。結婚って何だろう……等と今更ながら思ってしまう。
女房に主導権を握られてここまで来た。僕の人生を決めているのは今じゃ好江だ。若い頃から進は自分から好きな女をつかみ取ることなど到底出来ない男であった。だからしょうがないんだ。葵ちゃん。今はどうしているんだろう、懐かしい懐かしい……。
そうだ、栃木へ行ってみようか……行ってみたい様な、思い出すだけでも切ない様な。 大分を離れて初めて一人で住んだ学生時代、ほんの2年近くだったけれど。医者になるべく勉強していたあの頃……。
行ってみよう。大分からここまで飛んで来たんだから、栃木なんてどうせひとっ飛びじゃないか、進路を変えて栃木県宇都宮市を訊ねてみよう……。
ここからだとどっちの方なんだろう、そうだ、大分から来たのと同じ様に電車の線路を辿って行けば良いんだ。
下に見える新宿駅から山手線を辿って、池袋へ来たら埼京線へ分かれて……そう、大宮からは新幹線の線路の上を飛んで行けば……等と思っているうちにアッと言う間に宇都宮駅まで来てしまった。
駅の上へ低空まで降りて来ると、そこから乗り換える支線の上を辿って行く。乗り換えて二駅……そう、ここだ。この駅前からバスに乗って……こっちだ。
記憶を頼りにバスの経路を辿って行くと、やがて見覚えのある街並が広がって来る。
懐かしい街を歩いてみたいと思い、そっと地上に舞い降りてみた。足の下に確かな地面の感触がある。この街、ここで僕は短い学生時代を過ごした……。
あの頃……大分県の片田舎からいきなりこんな遠くへ来て、初めての一人暮らしだった。 あの時は本当に心細かったな。子供の頃から医者になりたいって夢があって。あれは確かマンガの『ブラックジャック』を読んでから、いやTVで観た黒澤明の映画『赤ひげ』の方が影響が強かったかな……夢は大きかったけど、結局挫折してなれなかった。
この街も今見るとこんなにのどかだけれど、家から遠く離れて初めて来た時は、本当に強烈な印象だったなぁ……。
ほんの2年の間だったけど通ったキャンパス。進は中退した大学まで歩いて来てみた。
緑に囲まれた広い敷地の中に、美しい白い建物が整然と建ち並んでいる。
既に閉まっている門を飛び越えて、進は敷地の中へ足を踏み入れる。
広がる緑の芝生の上を歩く。辺りは真っ暗だけれど、建物の中にところどころ灯りの点いた部屋があるのは、まだ残って研究や勉強してる学生がいるんだろうな、僕も何度か学校に残って徹夜に近いことしてた日もあったっけ。学期の途中は毎日勉強が沢山ありすぎて、一日もサボってる暇なんて無かった。
でも若かったし、夢があったから頑張れたんだ。それに何よりも葵ちゃんがいた……。
埼玉の高校を卒業してこちらに来ていた葵ちゃんは現役で合格していたので進より一つ年下だった。
どちらかと言うと都会育ちだったが化粧もせず、他の若い女の子たちの様にファッションやヘアースタイルにもあまり気を使うこともなかった。だけど医師になる為に勉強に望む真剣な表情と共に、小柄な葵ちゃんには素朴な可愛らしさがあった。
引っ込み思案で大人しく、女の子とまともに付き合ったことも無かった進にとって、それはまさしく初めての恋だった。
進は葵ちゃんを守ってあげたいと言う様な、愛しく思う気持ちを募らせていたが、実のところ葵ちゃんの方が進よりもずっとしっかりしており、テスト前には必ず進が分からないところを教えて貰ったりしていた。
懐かしいキャンパスを一通り歩いた後、再び進は正門へ戻って来た。
正門を出てこの坂を降りて、そう、最初のバス亭からバスに乗って、僕と葵ちゃんはよく帰った。
そうそう、この道。あのバスの経路を辿って歩いてみよう。
進はキャンパスの前にあるバス亭から、当時自分が住んでいたアパートまで通っていたバスの経路を思い出しながら歩いて行く。
葵ちゃんの住んでいたアパートは僕のところよりもずっと手前にあって、そうそう、いつもこのバス亭で先に降りてたんだ。
タラップを降りて、僕が走って行くバスの中から手を振るのを笑顔で見送ってくれたっけ。
葵ちゃんが住んでたアパート。確かこっちの、そうそう、ここだ。
このアパート。一度だけ飲み会の帰りに僕が送って行くよって、部屋の前まで来たことがあったっけ。
ふふ……あの頃の僕はまさに純真ウブで、ろくに手を握ることも出来なかったな。ここの、そう二階のあの部屋だ……電気が点いてるぞ。
もしかしたらまだここに住んでたりして……いや、まさかそんなことはないだろう、もう15年も経ってるんだ。
今頃はきっと立派なお医者さんになって、何処かの勤務医にでもなって、結婚して、子供もいるかもしれないな、幸せでいて欲しい。
懐かしい……進はフラフラと階段を登ってみた。角のこの部屋。葵ちゃんが住んでいた部屋。
中に入れないや、鍵がかかってるな。
進は宙を飛んでベランダの方へ回ってみる。部屋に電気が点いている。
葵ちゃん……窓の端のカーテンの隙間からそうっと中を覗いて見た。女の子が座って雑誌を眺めているのが見える。
ふと顔を上げて進の方を見た。知らない女の子だった。やっぱり葵ちゃんじゃないや……と目が合った瞬間に、女の子はみるみる目玉をひん剥いた。
「きゃあああああー!」
その叫び声の凄まじさにビクリと身体が跳ねる様になり、進は目を覚ました。
何だ今のは?……思わず起き上がると真っ暗な静寂の中で好江と、その向こうでは美由がスヤスヤと寝息を立てている。進の中で動悸が高鳴っている。
進は布団から出て、フラフラとベッドから降りるとキッチンへ向った。
冷蔵庫からペットボトルを取り出し、冷たい水をラッパ飲みする。
今のは何だったのか……夢か。そうだ、想像の中で大分の小学校に行って、それから空を飛んで、そんな夢想に耽っているうちにいつの間にか眠ってしまっていたんだ。
そうだ。アレは夢だ。けどこの妙な感じは何だろう?。
やはりカウンセリングの先生が言っていた様に、自分で勝手にやってはいけなかったんだ……。
何だか知らないけど、夢と現実と区別がつかない様な錯乱した状態になってしまっていたんだ……。
進の身体はまだ小刻みに震えており、夢の中から抜け切っていない様な感覚だった。
重たい様な、軽いような、身体が二重になってブレてるみたいな、それは今までに経験したことのない変な感じだった。
翌朝いつもの様に進は好江に起こされて、歯を磨き、背広に着替えた。そして美由と向かい合って朝食を取っていた。
新聞やテレビではいつもながらに信じられない様な血生臭い事件が報道されている。
子供が親を殺した事件、親が子供を殺した事件、引篭もりの若者が幼女を誘拐して殺した事件……。
同じ人間でありながら、一体どうしたらこんな酷いことが出来るんだろう……と思うくらい醜悪な事件が毎朝報道されている。
全くリアリティの無い悪夢の様なことが次々に起こっているなんて、まるでテレビの中はニュースにしろ現実とは思えない。フィクションの世界みたいだな……と感じずにはいられない。
進がそんなことを思いながらトーストを頬張っていると、この時間には珍しく電話が鳴った。キッチンにある端末で好江が受話器を取る。
「はいもしもし……あら、お母さん。どうもご無沙汰しています、いえいえ……」
どうやら進の実家の母からの電話らしかった。こんな朝から何だろうと思いながら、取り次がれるままに進は電話に出た。
「もしもし進ちゃん? お早う、元気しちょるん?」
「ああ、どうしたんだよこんな朝から」
「いやぁね、ちょっと気になったもんやけんね、昨夜ね、進ちゃんがわしの枕元に座って泣いちょる夢見たもんじゃけん……」
ドキー……とした。頭に血が上って引き絞られる様な感じになり、息が苦しくなる様であった。
だが暫らくするとすぐに思い直した。単なる偶然だろう。そうだ。僕があんな夢想をしたのと、母さんがたまたま僕の夢を見たのとが重なっただけなんだきっと。そうさ、そうに違いない。
毎日一刻を争う朝なのにそんなこと考えてる暇もないんだ。
そのことを単なる思い過ごしと片付けてしまい、進にはいつも通りの日常が通り過ぎて行くのだった……そして、いつもの様に満員電車に揺られている頃には、そんなことがあったことでさえ記憶の中から消え去っていたのだった。
それから何日かして、進の元へ訃報が届いた。宇都宮で二年間の学生生活をしていた頃、進の先輩だった大垣彰と言う男が、不慮の事故で死亡したと言う知らせだった。
「よっ、ご苦労さん……」
進の脳裏にフラッシュの様に白衣を着た大垣先輩の顔とあの一言が思い出された。大垣彰……そうか、あの人が亡くなったのか。
大垣さんとは進の在学中に人体病理学と言う科目で一緒だった。
学年が2つ上の先輩であり、それ程親しかった訳ではない。今だって知らせを受けて名前を聞くまでは忘れていたくらいなのだ。
大垣は卒業してから予定していた通り地元で開業している実家の病院に勤務し、次期院長になる予定だったらしい。
葬式に出るにも場所が栃木ではそう簡単に行ける距離ではない。それに進には大垣に対してそれ程の義理もないだろうと思う。
そもそも進は中退生な訳だし、この知らせだって数少ない当時の進を知る同級生が、たまたま連絡先を知っていたから教えてくれたのに過ぎないのだ。
そう思った進は弔電だけを打ってお葬式の方は失礼させて貰おう。と思ったのであった。
2
その朝も進は目覚ましのアラーム音に起こされたのだったが、起きた時に何か激しい夢を見ていた様な気がしていた。
内容までは覚えていないのだが、雰囲気だけが気分に残っている。何か気持ちが高揚している様な感じなのだ。
とにかく凄くテンションの高い夢を見ていたことが感覚として残っている。
何か凄まじく人と争っていた様な、攻撃した様な、手に何か握っていた様な……そんな感触までが残っているのだが、どうしても夢の内容までは思い出すことが出来ない。
考えていても仕方がないと思い、そんなもどかしい様な、落ち着かない気持ちのまま今日も歯を磨き、朝食を食べる。
「ねぇ貴方。近頃ちょっと痩せたんじゃない?」
そう好江に指摘されるまでもなく、進にも分かっていた。近頃何か、自分の顔が一時の間にずい分やつれてしまった様な気がする。 かと言って体重に前とそれ程差はないし、身体が疲れていると言う自覚もこれと言ってないのだが。
気のせいだろうか……仕事は相変わらずだし、まぁ辛いと言えば毎日辛いが、最近になってことさら辛いことが続いたと言う訳でもない。
原因も分からないのに気にしていてもしょうがないと思い、済ませていたのだった。
そんな今日。会社に出勤した進は驚くべき知らせを受けた。
昨夜神奈川県郊外の高速道路で昭和台病院の村麦医局長が、自分の運転する車で自損事故を起こし、死亡したと言うのだ。
事故の状況を聞いてみると、詳しいことは分からないが、夜中、高速道路を一人で運転していた村麦はハンドル操作を誤って側壁に激突し横転したのだと言う。
正直なところ、進はとても残念だと思った。だがその気持ちは人として村麦が亡くなったことが残念だと言うのではなく、今まで自分の営業成績を支えてくれた重要な顧客を失ってしまったことへの残念であった。
純粋に人間として気持ちを動かされることが全く無いことにさえ、何も感じることは無いのだった。
進の頭の中では、葬式に行かなければならないことや、喪服の準備は大丈夫だろうか等と言うことだけに気が行っているのだった。
何よりも重大なことは、村麦と言うパイプが途切れてしまっては、今後の昭和台病院との取り引きの為に、新たな窓口になる人物を確保しなければならないと言うことだった。
次の医局長が決まったら早急に手を打たねばならない。
村麦医局長の葬儀は自宅のある世田谷区の葬儀場にて、病院関係者を始め多くの参列者を迎えて盛大に行われた。当然の様に進は来参者の受付けや場内の運営等の業務を手伝いに奔走していた。
そんなこんなで慌ただしく村麦の葬儀が片付いて3日程経った日。出社した進は自分のデスクに届けられている一通の封筒に目を止めた。
それは工務店の会社名が印刷された窓付きの封筒で、進宛のアドレスが印字されたシールの横に「請求書在中」と言う文字がスタンプされている。
ああ……ついに来たのか。
例の村麦の愛人のマンションのガラスの修理代金の請求である。約束通りあの管理人が送って寄越したのだ。
ふと気が付くと渋い顔をして封筒を開いている進の様子を、目ざとく見つけた総務の倉橋俊子が見つめていた。
進と目が合うとフッといやらしい微笑を浮かべて話しかけて来る。
「高本君、まさか自宅でも新築するんじゃないでしょうね?」
「いえ、違いますよ」
無理に笑顔を浮かべてそう言うと進は封筒を手にバッと立ち上がり、鞄を持って出口へ向う。
……34万円だって! そんな馬鹿な……本当に材料費と施工費でそんな金額になるって言うのか? あんなガラス一枚。冗談じゃない、僕の月の小遣いが3万円なのに、その中から今まで根気良く貯金して、やっとの思いで溜めて来たヘソクリの16万円を全額出したとしても半分にもならないじゃないか、一体僕にどうしろって言うんだ。
女房にも上司にも相談出来ない以上、自分で何とかするより他にないと言うのに、進にはそんな金は無い。
こうなったら何処かでお金を借してもらうより他に手がない。でも進の周りにはそんな金を借りることの出来る上司も同僚も思い浮かばない。
高校を卒業して田舎を出て、大学を2年で中退して東京へ出て来た進には、職場以外で付き合いのある友人もいない。
親族と言っても女房には言えないし、ましてや大分の実家に金のこと等頼めた義理ではない。もしそんなことをすれば34万くらいの金も遣り繰り出来ないのかと余計な心配をさせてしまう。
でもその34万円が進には大金なのだ。
こうなれば違法な高金利で金を貸し、やがては返済し切れなくなった人間を破滅にまで追い込むと言う消費者金融にでも頼るより他ないじゃないか。
僕に破滅しろって言うのか……。
進はこの高額の請求書を送りつけて来たあの管理人に対して、どうにもならない腹立たしさを覚えた。
本当にこんな金額になってしまうのだろうか、この修理代金の内訳について問い質してやりたい気持ちでいっぱいになる。
それに、今更村麦の愛人のマンションに付けた傷のことなんか僕が知るもんか、と言いたい。
だって村麦が死んでしまった今となっては、こうまでしてあいつに忠義を尽くす意味なんて無いじゃないか。
とは思ってみたものの、あの時進は管理人と約束し、また自分の所在も勤め先も明らかにしてしまっている。逃げる訳にも行かないのだ。
かと言ってこの高額を全くメリットも無いのに払わされるのも理不尽である。
無理を承知でも、進としてはどうしてもあの管理人と掛け合ってみないことには気が済まないのだった。
「いいですよ調べて貰っても、嘘の請求なんてしてませんから、こっちだってちゃんと払って貰えないのなら出るとこへ出たって良いんですからね」
初老の管理人はまともに進の顔を見ようともせず、にべもなく言う。
なんて強気なんだろう。きっとこう言うトラブルには慣れっこなんだろう。基本的に気弱な進には到底太刀打ち出来ないタイプだ。
でも自分が正論だからってこうまで高飛車な態度に出なくても良いじゃないか……とも思う。
進はどうにも理不尽な悔しさに打ちひしがれてしまう。進としては金額が金額なので簡単に諦める気にもなれないのだ。
「あのう、お取り込み中のところすいませんが……」
そこへ不意に割り込んで来る声がかかった。なんだろうと思い、進と管理人が見るとそこにはくたびれた装いの初老の男が申し訳なさそうに立っている。
だが驚いたことに、その男の手にはキラリと光る警察バッチが仕込まれた身分証が掲げられていた。
「け、警察の方ですか」
管理人もちょっと戸惑った様子だ。
「はい、すいません、ちょっとお願いがありまして、806号室にお住まいのリー・スミンさんのお宅に伺いたいのですが、在宅なのに下のドアを開けて下さらないんですよ、いや令状は無いので無理にお部屋に入ることは出来ないんですがね、せめてドア口まででもお尋ねしたいと思いまして、下のエントランスを開けて頂きたいんですがね」
「あ、ああそうですか、分かりました。良いですよ」
国家権力には弱いのか、そう言われると管理人は腰に提げた鍵の束の中から一本の鍵を選び、各部屋へ繋がるインターホンの脇にある鍵穴へ差してクルリと回した。
グィーンと音がしてガラスのドアが開く。
その刑事は「どうも」と片手を挙げて軽く会釈をするとそそくさとホールの中へ入り、エレベーターの方へ向って行く。
806号室にお住まいのリー・スミンさん……806号室……進はぼんやりと考えている。
806号室。それは確か村麦にやらされて荷物を運び込んだ部屋じゃなかっただろうか、それにリー・スミンと言う名前。あの外人の女の子のことじゃないのか。
何か事件にでも関係してるんだろうか……。
でもそれよりも今の進の問題は管理人から請求されている34万円のことである。
進は今の自分の経済状況や、会社にもあの運送会社の男にも頼めない自分の立場のことを訴え、泣きを入れてすがり付く作戦に出てみたのだが、管理人は聞く耳を持たず、ビタ一文まからないと言うガンコな態度を貫き通した。
進はもはや取り付く島もないと言う絶望的な気持ちになり、涙目になってしまう。
どうしよう……34万円のうち、16万円は必死で溜めたヘソクリで賄うことが出来る。けど問題は残りの18万円をどうするかだ。
給料は銀行に振り込まれるし、その通帳もカードも好江に握られている。
どう考えても進の個人的な収入源は毎月好江から手渡される3万円の小遣い以外には無いのだから、そこからやりくりする意外に方法は無いのだが、それでは無理だ。
仕事が終わってからアルバイトでもすればどうだろう。例えば居酒屋の店員とか、終夜営業のファミリーレストランとか……嫌だ!そんなことは考えただけでも嫌で気が狂ってしまう。
となればやはり街金で借りて月の小遣いの中から返済して行くより他にないのか。
小遣いの3万円のうちの幾らを月々の返済に回せば良いんだろう……只でさえ少ない3万円。いつもどんなに節約しても月末の頃になると1週間も財布に小銭しか入っていない日々が続く……でも、どんなに嫌でも他に方法は無いんだ。
そして更に進の頭を悩ませているのが、死亡した昭和台病院の村麦の後を引き継いで医局長の座に付いた滝川と言う男のことであった。
もともと医局長のポストは村麦よりも年配の滝川が狙っており、年功から言っても滝川が先になるべき順番だったのだが、やり手の村麦に出し抜かれる形でポストを奪われたと言うのが病院関係者の間で囁かれている噂であった。
そのせいなのか、滝川は前の医局長である村麦が自分の勢力を誇示する様にこき使っていた進のことを、あまり心良く思っていない様子だった。
進が尋ねて言って「今後ともどうぞ宜しくお願いします」と頭を下げても「今度は体制が変わったから、会議にかけてから検討しますから」等とはぐらかされてしまい、どうしても良い返事を貰うことが出来ないのだ。
今度は村麦に変わって自分が権力を握ったのだから、旧勢力の村麦に属していた者は一掃して自分の息のかかった者に一新したい。と言う考えらしいのだが、そんなことをされては進にとって死活問題だ。
今まで進は昭和台病院での売り上げ成績のお蔭で大手を振って会社にいることが出来た様な物なのに。
だからこそ村麦に対してはどんな屈辱にも耐え、無理難題も聞き入れて必死になって尽くして来たんじゃないか。そう言う努力で昭和台病院とのパイプを守って来たのではないか。
それをこんな形で断ち切られてしまったのでは堪ったものではない。
進は滝川に食い下がるべく毎日の様に病院へ詣でた。それはもう必死の思いで、何としても昭和台病院とのパイプを守り通さなければならないと思った。
どんなにしつこいと言われようと、そこまで卑屈になってまで契約が欲しいのかと蔑まれようと、なりふり構って等いられる状況ではない。
あ、また来た……と受け付けに座っている看護師に露骨に嫌な顔をされようとも、ここで引き下がる訳にはいかない。
「お願いします。度々お邪魔して御迷惑なのは重々承知しておりますが……」
今日も進が滝川医局長への面会を求めて必死の懇願をしている時、不意に後から肩を叩く者がある。
何だろう? と顔を上げた進の後に立っていたのは、先程村麦の愛人のマンションで管理人と揉めていた時に、突然声をかけて来た初老の刑事だった。
「いや、また会いましたな。お互いあちらこちらで苦労を重ねているようですな……」
と親しげな顔で進に微笑みかけている。
ここまで来るとさすがに進にも不審な思いが持ち上がって来る。
この刑事は間違いなく村麦とあの愛人のことを調べているんだ。
二人のことが何か事件に結びついているのだろうか、もしかしたら高速道路で事故死したと言う村麦の死因に何か事件性があるとでも言うのか。
所田と名乗る刑事の容貌は、極めて温和なオジサンと言った印象であり、人の良さそうな暖かみさえ感じさせた。
「それではどうも」
と所田は軽く会釈をして帰って行く。気になった進は病院の人たちに聞いてみずにはいられなかった。
「あの刑事さんは村麦先生のことを何か調べていらっしゃるんですか?」
あの刑事から聞き込みを受けた病院の人たちによると、あの刑事は生前の村麦の病院での評判や交友関係について聞き込みをしているのだと言う。
そしてもうひとつ進が驚いた事は、所田刑事は警視庁の管轄ではなく、栃木県内の警察署から来ていると言うことであった。
何故栃木県の刑事がわざわざ東京まで来て村麦の身辺を捜査しているのか?。
その時の進には所田がここまでどうやって辿り着いて来たのか、その長く地道な、でも恐るべき執念の遍歴を知る由もなかった。
3
その翌日、進は夜遅くまで三鷹市にある開業内科医で検診用の医療器具の新製品の営業にかかっていた。
来診の患者の診察が終わるまで待ってくれと言う医師の為に夕方まで待った後からの営業だったので、一通りの説明を終えるだけで夜の8時を回ってしまっていた。
院長は検討すると言ってくれたが、それは断る時の常套句だ。今日も見通しの立たない営業に進は疲労を感じる。
思えば思うほど昭和台病院の村麦が死んでしまったのは痛手だった。
進は村麦の後任になった滝川に疎まれているばかりか、ここぞとばかりに他社の営業マンが出入りし始めて、進が今後も昭和台病院との取り引きを継続出来るかどうか危うい状況に追い込まれてしまっているのだ。
そんなことをトボトボと考えながら電車を降り、いつもの様に自転車を走らせてマンションへ帰って来る。
人気の無いピロティに自転車を入れ、マンションの入り口に差し掛かった時、エントランスの脇にうっそりと立っている一人の男の影に気が付く。
なんだろう、と思って通り過ぎようとすると「こんばんは、高本さんですね」と声をかけてその男が近付いて来る。
「夜分にすみません。私は栃木県警真岡署の所田と申します」
暗がりからスッと姿を現したのは、紛れもなく昨日村麦の愛人宅のマンションと昭和台病院で会ったあの初老の刑事だ。
栃木県から単身上京して村麦の身辺を聞き取りして回っていると言う。その刑事が進にまで聞き込みにやって来たのだ。咄嗟にそう理解した進は迷惑と言うよりもその労を労いたい様な気持ちになってしまう。そして思わず笑顔を作り。
「あ、どうも、ご苦労様です」
と会釈している。
「何か僕に御用でしょうか?」
所田は相変わらず温和な笑みを浮かべている。
「すみません。出来ればちょっと落ち着いたところでお話を伺いたいのですが」
と頼まれたが、進はさすがに自宅に警察の人間を入れるのは嫌な気がする。
この刑事が調べている何かの事件と自分とは全く関係無いとしても、好江や美由に余計な心配をかけたくない。
それならと所田を連れて少し駅までの道を戻り、なるべく人目につかない様な喫茶店に入ることにする。
進と所田は国領駅の側の、少し寂れてはいるが落ち着いた感じの店に入る。
「いや、こんな時間にご無理を言って申し訳ありません」
席に着いた所田はそう言って深々と頭を下げる。
所田と言う男は進が思うに、世間で言う「刑事」の印象からは程遠い、何処か気の毒な自営業のオジサンと言った感じの人物である。 まるでくたびれて哀れを誘う様な風貌だ。何日も風呂に入っていないのか、肌は薄汚れており、何となく臭い体臭を漂わせている。息も臭い。
アメリカのテレビドラマの刑事コロンボを想像する。コロンボも映像で見ている分にはユニークで魅力的だけど、きっと実際側にいたら臭いのかもしれないな……等と進はとりとめもなく思っている。しかし目の前にいる所田は日本人のせいかコロンボに比べれば相当に貧相でヒョロヒョロな印象だ。
「いや~貴方に辿り着くまでには苦労しましたよ。実は昨日の病院での聞き込みで何もつかめなかったら、もう栃木へ帰ろうと思ってたもんですからね」
心良く所田の申し出を受け入れてくれた進に対して、まるで自分のここまでの苦労を労って貰いたいとでも言う様に所田は言う。
「高本さんもコーヒーで良いですか?」
「あ、はい」
「それじゃコーヒーふたつお願いします」
と所田は水とオシボリを置きに来たウェイトレスに注文する。
「この事件は……いや、まだ事件と言える段階でも無いんですがね、栃木くんだりから私ひとりで来てやってたものですから」
中々本題に入ろうとしない所田にイライラした進は先に質問を切り出してしまう。
「あのう、何か亡くなった村麦先生が事件に関係していたのでしょうか?」
「ええ、まぁそうなんですがね」
「でも刑事さんは栃木県の方なんですよね?どうしてまた栃木の方がこちらへ来て聞き込みなんかなさってるんですか?」
「高本さんはかつて栃木県の両際医科大学と言うところに2年間在籍していたことがありますよね」
「は?」
一瞬自分が何を聞かれたのかさえ分からなかった、思わず聞き返してしまった。この刑事は急に何を言い出すんだろう……と思った。
「そこで貴方の2学年先輩だった大垣彰さんと言う医師のことを御存じですね?」
東名高速で事故死した昭和台病院の村麦との関係について事情を聞かれるものとばかり思っていた。それ以外のことに刑事の話が及ぶ等とは思ってなかったので一瞬キョトンとしてしまった。何故この男の口から大垣彰の名が出て来たのか、その時は全く理解出来なかった。
「は、はい、存じてますけど、確か先日亡くなったとか」
「そうです。貴方が大学にいた時は親しい間柄だったのですか?」
ふいにまた、フラッシュの様に進の脳裏に過ぎる白衣を着た大垣彰の姿があった。そして進に微笑んでこう言う。
「よっ、ご苦労さん……」
脳裏の映像とは別に進は目の前の所田の質問に応えている。
「いえ、まぁ2年も先輩でしたから、それ程親しかったと言う訳ではなかったんですけど……」
嘘ではない。確かに進と大垣とは2年間進が両際医科大学に在学中にたまたま同じゼミに所属していたと言うだけで、それ程親しかった訳ではないのだ。それ程には……。
「大垣さんが亡くなられた時の状況は御存じですか?」
「いえ、それは、僕は事故で亡くなったと言う連絡を貰っただけで、詳しい事情までは聞いてないですから。それにお葬式に出ようにもおいそれと行ける距離ではないので、弔電を打っただけで失礼させて貰ったもんですから」
「そうでしたか。いえね、私は地元の管轄で実はそっちの事故を先に担当してたんですよ。実際現場検証にも当たったんですが、大垣さんは4月16日に自宅マンションのベランダから転落死なさったんです」
「転落死、ですか?」
「はい」
それって自殺なのか? と思ったが、あの大垣先輩が自殺なんかする訳はないと思ったので、口に出して言うのはためらった。それに何故かその意見をここで刑事に言うのは得策では無い様な気もして、口をつぐんでいたのだった。そして次に所田が語り出すことに耳を傾けていた。
「それにちょっと不思議な状況がありましてね」
「不思議って? 何がですか?」
「大垣さんが亡くなられたのは今月の15日の深夜、つまり16日の午前0時20分頃です。大垣さんの自宅は栃木県真岡市八条にあるマンションの8階なんですが、事故当時ひとりで居間でテレビを見ながら酒を飲んでいたらしいんです。その時隣の部屋では奥さんの圭子さんがお休みになっていたんですが、突然凄まじい叫び声を聞いたかと思うとドタバタと走り出て行く様な物音がして、圭子さんが駆けつけてみると大垣氏の姿がなく、開け放たれたベランダへ出て下を見てみると、植え込みに倒れている大垣氏の姿を発見したと言うんです。この時家にいたのは他に子供部屋で寝ていた小学生の男女二人の子供さんだけでした」
初めて聞く生々しい話に進はショックを受けて言葉を失ってしまい、所田の顔を見つめる。
「でも何故大垣氏は突然ベランダへ出て欄干を乗り越える様な事態になったのか、発作的な自殺とも考えられるんですが、圭子さんは理由として思いつくことは何もないとおっしゃってるし、遺書らしき物も発見されてないんですよ。だから何らかの事情で誤って転落死したと言う以外に解釈の仕様がないんですがね、私としてはどうも腑に落ちない点がありまして……」
と言うと所田は胸ポケットからタバコの箱を出し、一本引き抜いて口に咥え、百円ライターを出して火を点けようとして進を見る。
「あ、タバコ、良いですかね?」
「はぁ、どうぞ、僕は吸いませんけど」
所田はタバコの先に火を点けるとゆっくりと味わう様に吸い込み、しばし間を置いた後濃い色をした煙を意外な程の勢いで上へ噴き出す。
その所田の顔を見ていた時、進はさっきから感じていた違和感が何だったのかに気が付いた。さっきから所田は話している最中も、タバコを出して火を点けて煙を吸い込む最中も、片時も進の顔から目を離さないのだ。
特に恐い目をして睨んでいると言う訳ではない、さりげない仕草を装いながら、考えながらゆったり話している様なふりをしながら、進の表情を逐一漏らさず観察しているのだ。
嫌な気分になる。一体このくたびれた刑事さんは進に何を聞きたくてここまでやって来たと言うのか。溜まらずに進は所田の話に先を促す。
「それで? その刑事さんが気になるところって言うのは何なんですか?」
「はい、一番に私が思うのは、何故大垣氏はベランダへ出る必要があったのかと言うことなんですがね。その夜の栃木県の外の気温は4度ですよ。ちょっと酔いを醒ましにベランダに出ると言うのは考え難いですよね。それに酔っていたとはいえ何故欄干を乗り越える必要があったのか。しかも圭子さんの証言によれば慌てふためいて窓を開けて外へ出た様な物音だったと言うんです。とすればやはり酔いを醒ましに出たのではない。私が思うに侵入者から逃れようとして逃げ出た様な印象なんですよ。そう考えれば転落した大垣さんの顔のことも理解出来るんです」
「えっ? 顔って?」
「大垣さんは8階から転落したんで遺体はかなり損傷を受けていたんですが、顔にはそれ程の変形はなかったんです。でもその表情がね……私の経験では不慮の事故で亡くなった方はあんな表情はしてません」
「あんな表情って言うのは?」
「あれは自分が死ぬことに対しての恐怖の表情ではなくて。何か恐ろしい他者に襲われた時の驚きと言うか、驚愕と言うか……」
一体あの大垣さんがどんな顔をして死んだと言うのか、進には全く想像もつかなかったが、何か背筋が寒くなる様な怖さを感じるのだった。所田の話はまだ続く。
「私の思うにやはり大垣さんは自分から飛び降りたのではなく、誰か侵入して来た他者に襲われて、それから逃れようと必死のあまりベランダへ追い詰められて落ちる結果になったのではないかと思うんです。でもそれにしては誰かが玄関のドアを開けて押入って来るなり、乱入して来るなりの物音がしたはずじゃないですか、でも隣の部屋で寝ていた圭子さんは大垣さんの叫び声と、ドタバタとベランダに出て行く物音を聞くまでは何も気付かなかったと言うんです。圭子さんと大垣さん以外に家の合鍵を持っている人はいないはずなんですよ。それにもし私の思う様に何者かがマンションの合鍵を持って物音も立てずに侵入して来ることが出来たのだとしても、大垣さんをベランダに追い詰めて落とした後、間髪を置かずに駆け込んで来た圭子さんに見つからずに部屋を出て行くことが出来たんだろうかと、そこにも疑問が残るわけですよ」
タバコが長い灰になっていることにも気付かずに話続けている所田は、やはり進の顔から目を離さない。
所田の手にしたタバコに気を止めた進の視線に気付いたのか、所田は思い出した様にタバコを灰皿にポンと弾いて灰を落とし、再び口に持って行き、深呼吸する様に深く煙を吸い込むと、一度間を置いてから、再び深い色の煙をボウと吐き出す。
「もし他者の犯行だとすると、状況からして一番疑わしいのは奥さんなんですが、これはまずあり得ないと言って差し支えないでしょう。なんせ動機が考えられない、夫を殺しても何の得にもならないばかりか、これまで順風満帆だった人生を台無しにしてしまう訳ですから。何より私には圭子さんのあの尋常でない動揺の仕方がね、長年刑事をやって来た私でも居た堪れなくなる様な嘆き方には、疑いを差し挟む余地が無い様に思えましてね。その他に家にいたのは二人の子供さんですが、まだ小学2年生の長男と1年生の長女の犯行と言うのは常識的にも考え難い。例え何か隠された特別な事情があったのだとしても、小学生の体力で大人の男をベランダの欄干を乗り越えさせて落とすと言うのは、物理的にも不可能に思えるんでね」
そこまで話すと所田は一時進の顔から目線を逸らし、短くなったタバコを灰皿に押し付けて揉み消した。そして再び進の顔に目線を戻して話始める。
「いえね、うちの上層部の判断はもうすっかり大垣さんは酒を飲んで泥酔状態における事故死ってことで片付いてしまってるんですがね、私はどうにも気になりまして、いやね、正直私はもうあと少しで定年の身なんですよ。結局最後まで現場を駆けずり回って終わりましたけど、もう今じゃ若い頃の様な元気もなくて、刑事部屋でもすっかり隠居扱いされてましてね、そうなると私にも意地がありまして、長年現場を踏んで来た経験を活かして、いっちょ普通の捜査では見逃してしまいそうな難事件でも解決してやって、最後に若い奴らの鼻を明かしてやろうなんて、はは……そんな気持ちもありましてね、いやこんなこと話しても貴方には関係ありませんでしたね」
「いえ、そんなことは、ないですけど……」
くたびれた所田の笑う顔を見ていると、進はふと何年か先の自分の姿を見ている様な気がして、妙な共感じみた感覚さえ覚えてしまうのであった。
「県警の方ではこの事故を事件として扱ってる人間は私以外に誰もいないんですよ、ま、それでも何人か私のことを慕ってる若い奴等が協力してくれてはいるんですがね、それで私は一人で捜査を始めた訳です。まず大垣氏の奥さんから御主人の交友関係について話を聞いたんですが、地元の大病院の跡継ぎとして生まれた御主人は朗らかな人柄で、今までに他人とトラブルを起こしたことなんか無いって言うんですよ。家庭でも良い夫で、子供たちには優しい父親だったそうです。仕事上のことで揉め事やトラブルに巻き込まれる様なことも思い当たることは何も無いと言うことでした。それから大垣さんが勤務していた病院へ行って、そこの院長をしている大垣さんのお父さんにもお会いしたんですが、あの落胆振りは見ていて気の毒でしたよ。そりゃ跡継ぎとして大いに期待していた一人息子を失ったんですから無理も無いですが。お父様の話も、奥さんの圭子さんと同じで、大垣さんが人から恨みを買ったり、トラブルに巻き込まれていた様な気配は全くなかったと断言されました。それから病院の他の方たちにも聞いて回ったんですが、誰が言うにも、あの若先生が人に恨みを買う様なトラブルに巻き込まれるなんてことは考えられないとおっしゃりましてね。院長の息子と言ってもお父様は厳格な方で、彰さんを甘やかす様なことは一切なかったそうで、あくまで一勤務医としてしか扱わなかったそうです。一生懸命職務をこなしている姿が健気であったとさえ言う人がいましたよ。他の同僚の先生たちも同様に、あの若先生が外で女を作ったり、また悪い犯罪に加担する様な暇なんか絶対に無かったと口を揃えて仰るんですよ。ただ若い頃には……」
「えっ?」
若い頃には……その言葉への進の反応を、微妙ではあったが所田は見逃さなかった。
「いえね、若い頃にはまぁ地元でも有数の大病院の御子息と言うこともあって、また朗らかでハンサムな容姿だったことから、女性の患者さんから看護師まで、女の人からは人気がありましてね、結婚してからは落ち着いたものの、若い頃には随分浮名を流した時期もあったんだそうです」
「そうですか……」
ここで所田は進の反応をじっくりと見る様に落ち着いて一息つくと、ちょっと間をおいてから先を続ける。
「そこで私の捜査は行き詰まってしまったんです。大垣さんの身辺からは家庭からも職場からもそれらしきトラブルの話は嗅ぎ付けることが出来なかったんですよ」
「そうですか」
そこまで話を聞いた進は何と言ってよいやら分からなくなってしまった。
一体この刑事は何が言いたくて進を付き合わせているのか。行き詰まった捜査の愚痴を聞かせる為にわざわざ進が帰宅するのを待ち伏せし、喫茶店に連れ込んで長々と話していると言うのか。
そんな進の気持ちには気付きもしない様に所田は続ける。
「そんな時なんですよ、私が神奈川県で起こった村麦実さんの事故の話を聞いたのは、いや偶然なんですがね、私には県警の交通課で長年課長を勤めてる脇坂と言う同期がおりまして、たまたまそいつと食堂で一緒になった時に、お互いに抱えてる事件や事故の案件についてお喋りしてるうちに耳にしたんですよ」
「はあ」
「そりゃ他人が聞いたら栃木県で起きた転落死事故と、遠く離れた神奈川県で起きた自損事故とは何の関係も無いと思われるでしょうが、私はどちらも当事者が一人で不自然な死に方をしたと言う点と、これも偶然と言ってしまえばそれまでなんですが、どちらも医者を職業としているというところに引っ掛かりましてね、それで神奈川県警まで訊ねて行って事故の詳細を聞いてみようと思った訳なんですよ」
「はぁ」
「無くなった村麦さんは事故当夜自家用車のジャガーを運転して伊豆方面から帰宅途中の東名高速道路で、見通しの良い長い直線を走行中に突然ハンドルを切ってスピンを起こし側壁へ激突、車は横転して村麦さんは全身を強く打つショックと頚椎を含む全身4箇所の骨を骨折して死亡したそうです」
進は初めて聞く村麦の事故の実情に恐ろしい思いだったが、そんな進の心情を気に止める様子もなく、所田は話を続ける。
「事故を起こした場所と言うのはかなり長い直線の続くところで、対向車線は互いに独立していて相互通行ではなかったんです。それに追い越し車線を含む片側3車線でかなり見通しの良い場所だったらしいんです。しかも事故当時他に走っていた車は少なくて、少なくとも村麦氏の車の前後約100メートル以内には他に車がいた形跡は無いと言うんですよ。不思議だと思いませんか?」
「は、はぁ」
「村麦さんはそんな状況の中でどうしてスピンを起こすほど急にハンドルを切ってしまったんでしょう」
まるで進に答えを求めるかの様に、所田は身を乗り出して進の顔を見つめて来る。
そんなことを聞かれても進に分かる訳はないのだが、進も考えて何かしら応えなければならない様な雰囲気だったので、仕方なく思いついたことを口に出してみる。
「居眠り運転とかじゃないんですか?」
「居眠り運転ならば徐々に方向を失って側壁に車体を擦る様な形で事故になるのが一般的なんです」
「それじゃ酔っ払いとか……」
「遺体からアルコール分は検出されなかったし、司法解剖の結果麻薬性の薬物等が検出されたと言う報告もありません」
「だけど……」
進は何か他の原因を考えあぐねて言葉に詰まってしまう。それを察したのか先回りする様に所田は言う。
「道路に何か大きな動物が立ち入ったと言う可能性もありますが、そこは高架になってる部分だし、今までに動物が入ったなんてことは一度も無かったそうです」
「それじゃ……誰か他に同乗者がいたとか」
「私もそれを言ったんですがね、もし他に同乗者がいて、何らかの形で事故の原因を作ったのだとすれば、あれだけの事故を起こした車に乗っていて本人も無事で済む訳は無いと言われまして。実際事故を起こした車を見ましたが、私もそう思いましたよ」
「車に何か仕掛けがしてあったとか、良く小説とか映画であるじゃないですか、一定のスピードを超えるとブレーキが効かなくなる仕掛けとか」
「それも含めて車体を調査したらしいんですが、そうした仕掛けを施した痕跡もなかったそうです」
「でもそれじゃ……」
「不思議でしょう?」
まるで進がその謎を解く鍵を握っているとでも言う様な所田の問い詰めに、いい加減進は面倒臭くなって来てしまう。
「それじゃやっぱり、単なる事故だったんですよ」
と半ば突き放す様な言い方で言う。
「ただね、やはり私は現場写真の村麦さんの顔が気になりましてね」
「顔ですか?」
「はい、栃木の大垣さんと同じ顔をしているんですよ、その死顔が」
「同じ顔……ですか?」
「ええ、村麦さんも大垣さんと同じく何か恐ろしい物を見てしまったと言うか、あり得ない物に遭遇して驚愕している様な顔なんです」
「恐ろしい物って何ですか?」
「それが分からないんですよ」
「はぁ、それは刑事さんにも分からないんじゃ、尚更僕に聞いても分かる訳ないじゃありませんか」
進としてはいい加減ウンザリしていると言う意思表示をしたつもりだったのだが、所田はそれが分かっているのかいないのか分からない表情で、進の意志など意に介さない様に話を続ける。
「私は神奈川県警にお邪魔した後、その足で世田谷区成城の村麦さんのお宅に伺って、近頃の村麦さんの行動や周辺に不審なことが無かったかをご家族の方に聞いたんです。村麦さんはお仕事が大変に忙しかったらしく、休日も家を空けることが多かったそうですが、ご家族はそんな村麦さんのことを理解していた様です。でも本当のところは外で何をしているのか分からない部分も多かったそうです」
さもありなん……と進は心の内で思ったが、口に出して言うのは謹んだ。
「そんな訳でご家族からは村麦さんが犯罪に巻き込まれていたとか、怪しい人物の影があったとか言う情報は得ることが出来なかったんですよ」
「はぁ」
「それで今度は職場である昭和台病院の方へ伺った訳です。そもそも村麦さんは八王子市内の開業医で勤務していたそうなんですが、昭和台病院の前任の院長に引き抜かれて来られたそうで、それから10年で医局長にまで出世されたんですから相当なやり手と言われていた様なんですが、実は職場の同僚、特に助手とか看護師とか、下に付いていた方たちからの評判はすこぶる悪くてですね。目上の人には機嫌を取って自分の処遇を良くすることに長けていたんですが、自分がその地位に着くと途端に威張りだして、自分より目下の者に対しては酷いくらいにコキ使っていたと漏らす方もいましてね」
そりゃそうだろう、あの人ならば……。
その時の所田の目にギクリとした。進はそんな村麦の悪い評判を聞いて「さもありなん」な表情をしていたに違いない。所田の顔は「そうでしょう? 貴方もそう思っていたでしょう?」とでも言わんばかりの顔つきだった。
「それに私の聞き込みによると仕事以外にも銀座のクラブや違法なカジノバー等にも出入りしていた様でしてね、夜の遊びの方でもかなりお盛んだったみたいですね」
「はぁ……」
そんなことは僕が一番良く知ってるよ! と言いたかったが、ここも進は黙っていた。 もうこれ以上この刑事の話を聞かされていることに我慢が出来なくなっている。
「私はこの手の話を当事者の友人等から聞き出すのが得意でしてね、生前村麦さんと良く遊んでいたと言う病院の某氏からもいろいろと情報を得ることが出来たんですよ」
もう本当に進は聞いているのが辛くなっていたのだが、話を打ち切って帰ると言うことが出来ない。
「その人によると、村麦さんはここ数年密かに若い愛人を作って囲っていたそうでしてね、あ、これはここだけの話にしといて下さいね」
そんなことはもうずっと前から知ってるよ……。
「銀座とか六本木のクラブで知り合ったホステスを愛人にすることが多かったらしいんですが、その人が近頃聞いた話ではアジア系の出稼ぎ女が金が掛からなくて良いとか漏らしていたそうです」
それがあの例のマンションの女だと言うんだろう……やっと話の繋がりが出て来たのか。
「昭和台病院の受付の女性から、村麦さんが死亡したと言っても信用せずに頻繁に電話をかけて来た発音のおかしい女がいると言う話を聞きましてね、ピンと来たんですよ、それはきっと村麦さんが囲っていた愛人に違いないとね、それで私は電話局に頼んで病院に掛かって来た電話の通話記録と、死亡した村麦氏が所持していた携帯電話の通話記録とを取り寄せて照らし合わせてみたんです。そこに共通する番号が村麦さんの愛人の電話番号に違いないと思いましてね。でもその人は村麦さんの事故を信用していない訳だから、あの事故が事件だとしてもまず関係ないとは思ったんですが、そこが私が犬の所田と言われる所以でして……」
そんなことは僕の知ったことじゃないよ。と言いたかったが、進は早く帰りたい一心で黙っている。
「私はどんな細い線でも調べてみないことには気が済まない性質でしてね」
「ああ、そうですか」
ついに進はかなり露骨な態度に出してしまったのだが、やはり所田は気に止めないのか、それとも本当に気が付かない様子である。
「そこで見つけたんですよ、村麦さんの愛人の物だと思われる電話番号をね、電話局に要請してその携帯の持ち主を洗い出して貰ったところ、それは渋谷でバーを経営している人物だったんですが、私が行って問い詰めるとその携帯を所持している27歳の中国籍の女のことを白状しましてね、さっそくその女が最近引越したと言うマンションを訪ねてみたんです」
「……」
「そうです、そこで初めて貴方にお会いしたんですよ」
やっとここまで話が来ましたと言わんばかりに所田は笑顔を見せると、一息つく様に新しいタバコに火を点け、店内のウェイトレスに「コーヒーお代わり下さい」と大きな声で言い付ける。
「あ、貴方も飲みますか?」と進にも聞いて来たが、進のカップにはまだ冷め切ったコーヒーが半分程残っているし、進としてはもう早く帰りたかったので「あ、まだありますから」と断ったのだが「もう冷めちゃってるでしょ、私が御馳走しますから」と言って「あ、お姉さん! コーヒーお代わりふたつね、ふたつっ!」と叫ぶ。
「その女はね、半年程前からその渋谷のバーにホステスとして勤めてたらしいんですが、そこに客として来ていた村麦さんと知り合ったんですよ。店の者によると村麦さんは金払いも良くて、他の客とのトラブルもなく良いお客さんだったそうです。それからあのマンションですよ、貴方も御存じの通り、あそこはオートロック式になっていてインターホンで上の部屋からロックを解いて貰わないと敷地に入れないじゃないですか、私が警察だって言うとどうしても開けてくれないんで、それで貴方もご承知の通り管理人さんに頼んで入れて貰って部屋の前まで行ったんです。でもやっぱり中々ドアを開けてくれませんでね、私が事情を説明して、旅券や在留許可の件で来たのではなくて、聞きたいのは村麦さんのことだけだってことを説明したらようやく開けてくれました。それで話を聞くことが出来たんですが、村麦さんとの関係については、上海から来たあの女の子は日本の裕福な男に愛人として囲われると言うありがちなパターンでね、こんな言い方もヘンですが、特に変わったところは無かったんです。彼女としては村麦さんはこれからずっと生活費を出して貰っていっぱい稼ぎ出そうと思っていた相手だった訳だから、突然死んでしまったと言われてもどうにも信用出来ずに何度も病院へ電話を掛けていたと言う訳です。あのマンションの家賃も村麦さんが出していたんでしょう。可哀相に重要なパトロンを失って酷く落胆してる様子でしたよ。彼女は村麦さんが人から命を狙われていたと言う様なことは知らないと言うことでした」
ウェイトレスが新しいコーヒーをふたつトレイに乗せて持って来た。所田は熱く湯気を立てているコーヒーカップをありがたく受け取ると、砂糖もミルクも入れずにズズと音をたてて啜り上げる。
進にはここから話がどんな展開になって行くのか、もう訳が分からなくなっていたが、何故か所田は余裕を持っており、まだまだこれから面白い展開があるのだよ……とでも言わんばかりの表情をしている。
「そこで私は八方塞がりになっちまいましてね、栃木県と神奈川県で起きた二つの不審な死亡事故に勝手に事件性を嗅ぎ付けて単身捜査に飛び出してみたは良いものの、ここまで来て何の手掛かりも発見することが出来ないんですから。二つの事故が何者かの故意による事件であると立証するには、二つの事故に共通点を発見する必要があるじゃないですか、それが全く分からなくなってしまった物ですからね……」
「で、やっと見つけた共通点が僕だったって言う訳ですか?」
思わず口走っていた。
思わぬ進の発言に所田は一瞬言葉に詰まったが、落ち着きを取り戻そうとする様に一口コーヒーを啜ると話始める。
「そうなんですよ、これだけ嗅ぎ回っても何も出て来ない訳ですからね、いい加減私も諦めて栃木へ帰らなきゃと思ってたんですが、最後にもう一度だけと思って昭和台病院を訪ねてみたところで、貴方と再会したんですよ、受付で新しい医局長との面会を求めて頼んでいたでしょ」
あの時の自分は我ながらあまり見られたくない姿であった。
「それで貴方のことが気になりましてね、失礼とは思ったんですが、他の方に貴方のことを聞いてみたんです。そうしたら貴方、村麦先生に専属の営業マンで、村麦さんからは子分の様に扱われて、コキ使われてたって言うじゃないですか」
子分の様にコキ使われてた……他の人からどう見られようと、そんなことは気にしていられないのが営業の仕事だと思っていたが、他の病院関係者たちが自分のことをそんな風に見ていたのかと思うと、所田の言葉に少なからずショックを受ける。
「それで私は、貴方の経歴とか現在の境遇とかを調べさせて貰いましてね、もうこの事件に関してはこれで最後にしようと思ってね、もし何も出て来なかったら大人しく栃木へ帰ろうと思ってたんですよ。そうしたら貴方、出たじゃないですか、栃木で死亡した大垣さんの出身した大学に同じ時期貴方は在学していた……」
どうです、よくも私はここまで辿り着いて来たでしょう? 私の労力を褒めて下さいよ。とでも言わんばかりの得意顔をして所田は進に微笑みかける。
ここまで来ると進は不気味と言うより気持ち悪いと言う感情が胸に湧いて来るのを感じている。
この刑事は勝手に自分の趣味で、どう見ても不慮の事故としか思えない二つの死亡事故に無理矢理事件性をこじ付けて、進をまるで重要参考人の様に位置づけようとしているのだ。
偏執狂と言うか、長年刑事等をやっているとこう言う人物も出来上がって来るのかと、呆れる思いだった。
「それで何ですか? だからどうだって言うんですか? まさかその二つの事故が殺人事件で、僕がその容疑者だなんて言うんじゃないでしょうね」
「いや、まだそこまでは言ってませんよ。ただ、現時点で私が聞きたいのは、大垣さんの事故があった4月16日の午前0時20分頃と、村麦さんが高速で事故を起こした19日の夜11時頃に、貴方が何処で何をしていたかと言うことなんですがね」
進は仰天してしまった。まさかそんな展開になるとは思いもしていなかった。
「……アリバイと言うことですか、分かりました。ちょっと待って下さい」
進は鞄からシステム手帳を取り出した。そんなことに真面目に応えようとしている自分にさえ苛立つのを感じながら、その日のスケジュールを調べてみる。
「刑事さん。そうならそうと最初に仰って下さいよ、アリバイがしっかりしてれば良い訳でしょう。それならこんなに長々と話を聞く必要も無かったじゃないですか」
そんな進の抗議じみた言動にも表情ひとつ変えずに所田はタバコをくゆらせている。これが刑事の仕事なのだからしょうがないだろう……とでも言ったところなのか。全く普通にしている。
システム手帳の問題の日付けのページを繰り出すと進は次の様な内容を出来るだけ事細かに所田に説明した。
まず第一の大垣彰が転落死した時刻、4月16日の午前0時20分頃。
この日、つまり15日の夜は今年新卒で入社した2名の新入社員の歓迎会として御茶ノ水にある割烹居酒屋「錦の茶屋」にて一次会が午後の9時まで行われていた。
その後進は営業課長の島孝二郎につかまり、二次会の会場へ行った。そこは島の普段からの行き着けのスナックで、進がそこから解放されたのが午後10時30分頃。
そして自宅マンションに帰宅したのが11時30分頃で、その後就寝、翌朝家を出るまで自宅にいた。
第二の村麦が東名高速で事故を起こした19日の夜11時頃。この日は後輩社員の塩中透と共に練馬区の顧客である籠原医院に医療器具のメンテナンスに伺い、その後院長を接待する為に池袋へタクシーで移動、池袋駅近くのスナック「スワニー」で飲食し、店を出て院長をタクシーに乗せたのがほぼ11時頃。この間塩中がずっと同行していた。
お代わりのコーヒーが冷めるのも気にせず所田は進の話を逐一漏らさず手帳に記入している。後でアリバイの裏づけを取る為なのであろう。進はもう気にせずに放っておくことにする。
ひととおり話を聞き終わると、所田はポケットからさりげなくジッポのライターを取り出して、テーブルに置く。
「それとこのライターなんですがね、これに見覚えはありませんか?」
「は? いえ、僕はタバコは吸いませんから」
「そうですか、ちょっと手に取って良く見て貰えませんかね」
疑うことも知らない進は言われるままにライターを手にとり、そのボディに彫刻された模様等を眺めて見た後、テーブルに置く。
「いえ、やっぱり見たことありませんけど」
「そうですか、それなら良いんです」
所田はさり気無くライターをハンカチですくい取る様にしてポケットに戻す。お人好しな進はまさかそこまでとは思っていなかったが、勿論指紋を取る為である。
「どうも遅くまでご足労おかけしました」
と、語るべきことは全て語ったと言う様に、ようやく腰を上げた所田は、進に礼を言って頭を下げる。だがその時も顔を完全には伏せず、進の顔から目を離さない。
進は所田がレジに行って金を支払うのを黙って見ている。それから店を出て駅に向う所田と別れた。
進はやれやれと言う風に急ぎ足で家に向う。
ふと気になって振り返って見ると、小さくなった所田がまだ店の前に立ってこちらを見ている。振り向いた進に小さく会釈する。
進は背筋にゾッとする物を感じるが、自分には何もやましいところは無いのだからと思い、気にせずに歩いて行く。
僕が大垣さんと村麦先生を殺した殺人の容疑者だって? 一体何をどう勘違いしたらそう言う見解になるんだろうか、しかし警察と言うものはそう言う無駄な捜査を無限に繰り返しながら、真実を探り出して行くものなのだろう。と解釈することにする。
しかし一番驚かされたのはやはり所田の口から出た大垣彰の名前だった。
「よっ、ご苦労さん……」
それは進の中では無かったことにしていたことだった。二度と思い出してはいけないことだった。もう既に「思い出す」と言うことさえ思いつかない程遠い過去として決着がついているはずの出来事だったのだ。
それなのに……封印をしていた映像が進の意志に反して再生されてしまう。スイッチを切ろうとしても勝手に始められて、最初の断片が……。
……あの日、夜遅くに大学の研修室にいる大垣から電話があり、調べ物をしているのだが、どうしても進の持っている研究データを見せて欲しいので持って来てくれないか、と呼び出されたのだった。
仕方なく進は大垣が要求した資料を持って大学へと出かけた。人気のない校内を歩いて灯りの点いた研修室を見つけ、ひっそりとした室内に入って来た時、最初に聞こえて来たのがその喘ぎ声だった。
最初は微かに聞こえてきて、何だろうと思っていた……それは鼻にかかった女の鳴き声の様だった。
ああ、あの声が……もうやめてくれ! 拒絶しようとする進の意志に反してそれはどんどん進の中で映像を再生して行く。
ペチンペチンと言う肌がぶつかり合う音。これ以上開かんと言わんばかりにほぼ180度に開かれた女の真っ白な太腿の間に割って入って、凄い勢いで打ち付けられていた男の尻。それは引き締まった大垣の尻だった……。
まだ女性の身体に触れたこともない進には一瞬自分が何を見ているのかも理解出来なかった。余りの驚愕に声を出すことも忘れ、衝立の陰からそっとその様子に見入ってしまった。
その時の、上半身は白衣を着たままの大垣に組み敷かれて身体を揺さぶられている女が葵ちゃんだと気付いた時の衝撃は、とうてい進の身体では受け止めきれる範囲の物ではなかった。
衝立の脚部に足が当たって、小さく出してしまった音に大垣が反応したのを進は見逃さなかった。
大垣はその時進が覗き見ていることを分かっていたのだ。
それでいて知らんフリをしながら尻を振り続けた。進の視線を意識してからは前後に揺すられる尻の動きが一層激しくなり、それにつれて葵ちゃんの呻き声も一層甲高く継続的に響き始めた。
愕然としたまま進はその行為が終わるまでそこに立ち尽くしていた。
遂に「ううっ」と呻いた後激しく尻を痙攣させながら大垣がうな垂れた。葵ちゃんはエビ反る様にベッドの上で跳ねた後、目を瞑ってグッタリと沈み込んでしまった。
「……おう、高本、いるんだろう」
そ知らぬフリをして声をかけた大垣に葵ちゃんは驚いて起き上がり、慌てて衣服を身に付け始める。
進は何も言えず、強烈に居た堪れず、かと言って動くことも出来ずに、ただそこに立ち尽くしている。
進がそこにいることが分かった葵ちゃんはみるみる顔色が真赤になり、俯いて顔を強張らせていく。
葵ちゃんは激しく動揺し、取る物も取り敢えずと言った感じでどうにか服を身体にあてがうと、ダッと駆け抜ける様にして進の脇を通り抜けて行った。
その間も大垣は何も意に介さないかの様にゆっくりとズボンを上げ、至極普通にしながらベルトを通していた。
そして白衣の乱れを直し、そこで初めて進に向き直って手を出した。
「よっ、ご苦労さん……」
進は持って来た資料を無言のまま大垣に突き出すと、そのままクルリと背を向けて室内を出た。
あの夜の、一部始終が進の中で再生されてしまった。もう二度と思い出すことは無いと思っていたのに。そんなことは記憶の中にさえ残っていないはずだったのに、何と言うことだ……。
あの刑事は、一体何の権利があって僕に……僕にこんな苦しい思いを思い起こさせてくれたのか!。
夜道の途中で頭を抱え込んだ進は、呻き声を上げながら、そのままよろめく様にして道端に蹲ってしまった。
4
翌日の早朝。まだ通勤ラッシュの始まらない早朝の時刻。JR御茶ノ水駅に所田刑事が降り立った。
所田は高本進の勤めるシャノンメディカル株式会社があるオフィスビルの脇に隠れ、そこから出社してくるサラリーマンたちに向けて望遠レンズの付いたカメラを構える。
やがて社員たちが出社して来る時刻になると、所田の覗くファインダーの中、ぞろぞろと群をなして出社して来る背広姿の社員たちが溢れて来る。
そしてその中に、所田が待っていた高本進の顔が現れる。
所田は息を殺し、ファインダーの中に揺れる進の顔を中心に据えて幾度もシャッターを切る。
その後所田は物陰に隠れて待つ。やがて営業に出て行くであろう高本進の後姿を確認した後、シャノンメディカルのオフィスを訪れて聞き込みに回るつもりである。
所田は昨夜の進のアリバイの話に出て来た課長の島や後輩の塩中から聞き込みをして、進のアリバイの裏を取るつもりでいる。
進はいつもの様に朝の営業に出た後、昼前に社に戻って来て驚いた。そこには他の社員のデスクにすり寄ってメモを取りながら話を聞いている所田の姿があるではないか。
進の同僚や課長の島にまで取り入って、昨夜の進の供述の裏付けの為に聞き込みをしているのだ。
冗談ではない、アリバイの裏を取りたいのなら勝手に取れば良い、しかしこんな真昼間に堂々とオフィスの中でやられたのでは、まるで進が殺人事件の容疑者だと言うことを会社中に言って回っている様なもんじゃないか。警察だからってここまでする権利があると言うのか。
「ちょっと刑事さん。良い加減にして下さいよ、困るじゃないですかこんなところまで来られては」
と進は所田の側へ行ってトゲのある口調で訴える。
「いや~すいませんすいません。いやね、御迷惑とは思ったんですが、どうしても今日は栃木の方へ帰らなきゃならないもんですからね、昨夜貴方に伺った関係者の方からの聞き取りをしておかなければならないと思って。いや本当に申し訳ない」
口から出る言葉とは裏腹に、所田には全く悪びれた様子は無い。
これには閉口してしまう。だが考えてみれば、進のアリバイを証明してくれる会社の同僚や上司たちに、一通りの確認を取って貰いさえすれば、晴れて進の疑いは無くなり、二度とこの刑事の追及に遭う心配も無いのだから、と進は思い直す。
「あっははは……あの刑事さんも刑事さんだな、高本が村麦さんを殺したとでも本気で思ってるのかね、あまりにも有り得なくって気の毒になって来たよ」
と課長の島は笑い飛ばした。
「高本君も災難よね、きっと好江ちゃんに話したら大笑いするでしょうね」
と総務の倉橋俊子も嬉しそうに言った。
所田が帰った後で進は聞き込みをされた同僚や上司たちに事の経緯を説明し、全くの誤解であること、そしてあり得ないことを立証しようとしている所田と言う男の偏執ぶりを説明して回ったのだが、どうやらそんなに心配する必要もなかった。
進の人柄を知る社の人々は、所田が進に対して持っている疑いを、まるで荒唐無稽な想像ででもあるかの様に微塵も本気にしてはいなかったのだ。
第三章
1
シャノンメディカル株式会社で高本進の言うアリバイの裏づけの為の聞き込みを終えた所田は、御茶ノ水駅からJR中央線で東京駅に出て、新幹線で宇都宮へと向っていた。
この出張は県警の上層部の許可も得ずに自腹を切って来ていた為、所田としては少しでも経費を節約したいところだったが、今はそれよりも時間が惜しい。
高本進の勤めるシャノンメディカルでの、他の社員たちへの聞き込みの結果は、全て高本進の語る16日及び17日の彼の行動を立証するものに他ならなかった。
上司や同僚たちの証言する限り、高本の語るアリバイに疑いの余地は全く無い。
特に村麦実の事故があった17日の夜11時に関しては完璧である。
だが栃木県の大垣彰の場合はどうか、16日の午前12時。その日高本は新入社員の歓迎会があり、その2次会の会場となった御茶ノ水のスナックを出た10時30分には自由の身になっている。その時間からなら栃木の犯行時刻に間に合うのではないか? こちらの件に関してはまだ調べる余地がありそうではないか。
所田には、高本のアリバイを裏づけたそれらの証言者たちに偽証の臭いを感じ取ることは出来なかった。高本を庇う必要など彼等には全く無いと思われた。
所田は新幹線の車窓をフルスピードで過ぎって行く景色を眺めながら、思えば自分はよくこんな取り留めもない捜査に独断で暴走してしまったものだと思う。
栃木県で起きた医師の謎の転落死と、神奈川県で起きた同じく医師の自損死亡事故に、所田は全くの直感で関連性を見出して、上司の許可も取らずに単身神奈川県警まで押しかけて行った。
神奈川県警では誰が見ても自損事故として決着がついている事故の調書を見せてくれと頼み、そんな栃木くんだりから訊ねて来た老刑事に対し、交通課の警官たちから奇異な目を向けられた。
それでも現場検証に当たった警察官たちに頼み込んで話を聞いて回った。
そして村麦医師の自宅から勤め先である昭和台病院、村麦の愛人であったと見られる中国籍の女のマンション……散々にあちらこちらを嗅ぎ回って聞き込みを繰り返したものの、何の手掛かりを得ることも出来ず、もう諦めようかと思っていた。
だがこれで最後と思って訪れた昭和台病院で、村麦の愛人宅マンションにいた高本進と再び会うことによって、始めて手掛かりらしき物を見出した。
高本進と言う人物は、このままでは全てが徒労に終わるかと思われた時、やっと見つけた光明だった。その時の所田は高本進と言う存在に興奮した。
そして高本の自宅にまで押しかけて、今までの自分の捜査の経緯を語って聞かせ、その反応を見たのだが、その時の高本の表情には全く何も見出すことが出来なかった。
所田の心づもりとしては、今まで自分の捜査によって高本進に辿り着いた経過を説明すれば、高本が犯人だとすれば隠し様のない動揺を露わにするに違いないと踏んでいたのだ。
だが表情の変化を逐一見逃すまいと高本の顔から目を離さずにいたのに、それらしき動揺を読み取ることは出来なかった。
そして今日は会社に押し掛けて事件当夜のアリバイの裏付けを行ったが。結局は彼のアリバイ証言に嘘が無いことを確認して回ったにすぎなかった。
我ながら老体に鞭打って良くここまで奔走したものだと思うが、一方ではそんな自分に呆れる思いだった。
しかしまだ諦めるのは早い、例えその時事故現場に犯人がいなかったとしても、何か間接的な方法で殺人を犯す可能性だってあるはずだ。
例えば催眠術をかけてその時間になると本人も気付かないまま自ら死に至らしめてしまう様に仕向けるとか、本人の知らぬ間に潜在意識の中に何等かのキーワードを埋め込んでおいて、その言葉を耳にすると自殺する様に命令しておくとか、そんな方法があることをテレビか何かで聞いたことがある。所田はそんなことまでも想定しているのであった。
時代はどんどん移り変わり、犯罪の方法もどんどん新しくなって行くのだ。警察だってそんな可能性までも視野に入れて考えていかなくては、新しい時代の犯罪に対応出来なくなってしまうではないか。
所田はまだ諦めるつもりではなかった。第一の被害者である大垣彰と高本進が15年前の同時期に在籍していた両際医科大学。
そこは我が管轄なので大手を振って聞き込みに行くことが出来る。地元の捜査で何か新しい事実がつかめるかもしれないではないか。
ポケットにはハンカチに包んだジッポのライターが大切に保管されている。それには高本進の指紋がついているのだ。
高本には伏せてあったが、実は大垣彰の自宅から鑑識に指紋を取らせた結果、たったひとつだけ、大垣が死亡する直前まで酒を飲んでいた居間のドアノブから、大垣の家族以外の者の指紋が検出されているのだ。
所田はその指紋と、ジッポライターに付いた高本の指紋とを照合してみるつもりだった。
それに今朝隠し撮りした高本の顔写真を持って、大垣の自宅マンションの近隣住民に、もう一度聞き込みに回るつもりであった。
それに高本が両際医科大学にいた2年間に在籍していた他の学生たちを捜し、彼等の指導に当たった教授たちからも、また当時高本が居住していたアパートの持ち主等からも聞き込みをしたいと考えている。
そんなことを考えながらボーっと窓外を見るともなく見ていると。所田はふとそこにあるはずの無いものを見ている自分に気がついてギョッとなった。それは窓の外から所田の顔をじっと覗き見ている高本進の顔であった。走る新幹線の屋根にしがみついているのだ。
「!た、高本さん……あんた……」
と思わず口にした時、新幹線はトンネルに入り、バッと真暗になって高本の姿も見えなくなった。仰天した所田はそのままじっとその箇所を見つめていたが、再びトンネルから出た時には消えて無くなっていた。
時速200キロ近くで走っている新幹線の屋根にしがみ付いて窓から車内を覗き見るなんて、そんなことがある訳はない、きっと疲労した頭の中で高本のことばかり考えていたのでそんな幻覚を見たのだろう。と所田は解釈した。
だが、今の妙に青白い、それでいて目だけが黒くギョロッとして、所田を見つめていた高本の奇怪な表情が、妙に生々しく記憶に残っているのだった。
2
栃木県警真岡署は真岡鉄道の真岡駅の近く。県内から茨城県へと流れる美しい五行川を渡ったところにある。
宇都宮駅からバスに乗り、所田は4日振りに真岡署に戻って来た。
広い駐車場を横切り、警棒を手にした門番に軽く会釈を交わして正面玄関から中へ入る。
受付のカウンターを尻目に署内を進んで行くと、所田に気付いた警官たちがチラチラと白い眼線を向けるのを感じる。それを無視しながら真っ先に階段へと向かい、2階へと上がって行く。
2階に上がるとすぐのところに所田の所属する刑事二課の部屋があるのだが、所田はそのまま通過して廊下の奥にある鑑識課へと向う。
鑑識課に入った所田は昔からの馴染みである担当の南河に声をかけ、ハンカチに包んだジッポのライターを託して、高本進の指紋の検出を依頼した。
続いて大垣彰の住んでいたマンションの管理人から預かっていた防犯ビデオの画像の分析結果を聞く為に、所田を慕っている後輩の三浦刑事の所属する刑事一課へと赴いた。
大垣彰の住んでいたマンションには階段や踊り場等の5箇所に防犯カメラが設置されており、随時3秒ごとの静止画像が記録されていたのだ。
所田は事故が起こった時刻の5時間前から、事故が起きてから1時間が経過するまでの防犯ビデオのテープを管理人から預かり、その画像のチェックを三浦刑事に依頼していた。
あの夜大垣彰が部屋に侵入した何者かにベランダから突き落とされたのだとすれば、その部屋に侵入及び脱出するのには全ての防犯カメラの視角から逃れることは不可能だと思われた。不審者がいれば必ず写っているはずなのだ。
まだ30歳になったばかりの三浦は、22歳で真岡署に巡査として配属されて以来刑事志望であり、その時既に現場で最古株であった所田が刑事のイロハを一から仕込んでやったのだ。
三浦刑事の報告によれば、防犯ビデオに写っていた人物はどれも夕方から夜にかけて学校や仕事から帰宅した住人と幾人かの来訪者が全てであり、その他に不審者の人影を見つけることは出来なかったと言う。
「そうか……やっぱり」
がっかりする所田を見て、三浦はもじもじと何か言い出し難そうな素振りをしているので「どうした?」と問い質してみたところ「実は……」と言いながらパソコンからプリントアウトした三枚のビデオ画像の写真を差し出した。
「ちょっとヘンな物が写ってまして」
手に取って所田は見た。三枚の写真は防犯ビデオの静止画像で、どれも同じ角度であのマンションの階段の踊り場が連続写真の様に写されている。
「何だよコレは?」
と所田が問うと、三浦は「ここにヘンな光が映ってるでしょう」と写真を指さして言う。
これは時間的に大垣氏がベランダから転落するほんの5分程前に写された画像なのだと言う。
三浦の指し示す所には確かに暗い階段の中にポツンと光る不自然な光が浮かぶ様に写っている。
ビデオの画像は3秒にひとコマの割りで撮影されているのだが、その光はカメラの前を通過する経過に沿って、3コマの映像に連続して写っている。
1コマ目は階段の踊り場の手前、階段の下の方から登って来る様な形で光りの筋が来ており、2コマ目は丁度カメラの前を横切る様な位置で光の玉が後に尾を引いて浮かんでいる。
その玉は宙に浮かぶ人の横顔の様にも見えるが、定かではない。そして最後に写っている3コマ目では既に画像の上の方に光は消えかかっており、少しだけ光の尾筋が細い線になって下へ垂れ下がる様な感じで写っている。
それが何なのか所田にも検討がつかなかったが、三浦の言う様に「きっと何か、光の反射の悪戯だと思うんですが」としか解釈の仕様が無かった。それ以外に写真を分析する言葉は見つからない様に思われた。
その時はそれで片付けてしまったのだが、後から思うと所田の胸には何か言い知れぬ予感と言うか不安と言う様な、違和感が過ぎるのを感じていた気がするのであった。
続いて三浦は今日神奈川県警の伊谷交通課長から所田宛てに届いたA4版の封筒に入った資料を持って来た。
所田はうとましく思われることも承知の上で神奈川県警の伊谷交通課長に頼み込み、村麦の事故に関して2つの点で調査を依頼していたのだ。
まずそのひとつは村麦が事故を起こす前、伊豆のゴルフ場を出てから事故現場へ行く途中での村麦の運転する車の目撃者がいないかどうか探して欲しいと言うこと。
例えば高速道路の料金所の職員や速度違反の取締り用の撮影システム(オービス)に村麦の車が写っていないかを確認して欲しいと言うことであった。
その日村麦は医師会のゴルフコンペに参加した後、会場である伊豆のゴルフ場からひとりジャガーを運転して帰途に付いたことが他の参加者たちに確認されている。
もし事故に何者かの故意の関わりがあったとすれば、なんらかの犯人との接触なり、おかしな点等が見出されるのではないかと思ったのだ。
そしてもうひとつは神奈川県警内の保管場所に残されている事故車のジャガーの車内からの指紋の検出である。
大破したジャガーの車内はメチャメチャに破損しており、人が入ることもままならない状態だったが、処分する前に屋根等を分解して、出来る部分だけでも良いのでお願いしますと頭を下げて頼んでおいたのだ。
所田がそんな無理を言ってお願いしておいた調査の結果を伊谷交通課長が送って下さったのだ。
迷惑な所田の頼みを聞き、約束を守ってくれた伊谷に対して感謝の気持ちで一杯になる。
伊谷交通課長の報告によれば、村麦の車は制限速度を越えて走行中に高速道路に設置された撮影機に撮影されていたらしく、A4サイズにまで拡大した写真が同封されていた。
その写真には、運転する村麦が事故を起こす直前の姿が写し出されているのだが、誰もいないはずの助手席に人が乗っている様なぼうっとした光があり、人間の顔の様に不気味に目や鼻が形作られていた。すぐに連想したのは大垣のマンションの防犯ビデオに写っていた不審な光の残像であった。
コレについて伊谷交通課長はどう言う見解を持っているのかはまったく記されていなかった。
それは見ようによっては高本進の顔に似ているとも思うのだが、気のせいかもしれなかった。
そして第二点の指紋については、報告書にはたったひとつだが大破したジャガーのハンドルから村麦氏以外の者の指紋が検出されたとあり。封筒に指紋の検出箇所の写真とサンプルが同封されていた。
所田はそれを持って再び鑑識課に向かい、南河に大垣彰のマンションの居間のドアノブから検出された指紋と、ジッポのライターに付いた高本進の指紋と、そしてこの村麦の車のハンドルから検出された第三の指紋との照合を依頼した。
その結果三つの指紋は完全に一致し、南河はこの三つが同一人物の物に間違いないとの見解を述べた。
所田は興奮した。誰もが単なる事故と思っていた二つの死亡事故が、連続殺人事件に発展するかもしれないのだ。
所田は刑事課長に高本進に対する逮捕状の発行を裁判所に要請するよう依頼すべく、足早に刑事二課の部屋へと向った。
「これはちょっと無理だな」
まさかとは思ったが、恐れていたことが起きた。所田よりもずっと年若く、キャリア出身でありながら片田舎の警察署で刑事課長の地位に甘んじている川下は、上司の許可も得ずに自費で出張し、自分の憶測で勝手な捜査を進めている所田巡査部長を快く思っていないことは百も承知であった。
ここまで状況証拠がそろっていながら逮捕状の請求を許さないと言うのはどう言う了見かと、喰ってかかりたい気になったが、そんなことをしても無駄なことが分かっていたので思い留まる。
現場に指紋が残されていると言うだけで、容疑者に確固たるアリバイがあったのでは裁判所から逮捕状が降りるかどうか微妙である。 それに動機もいくら村麦にコキ使われていたとは言え、村麦は高本に取って大事な顧客なのだから、殺してしまっては今までの苦労が水の泡になってしまうのだ。
大垣の方にしたところで、過去に如何なる事情があったにせよ、15年も経った今になって復讐に走ると言うことも考え難い。
冷静に考えればそれももっともな見解なのだが、それ以前に川下刑事課長の反応は冷やかで「また困ったオッサンが余計なことを始めやがって」とでも言いたげな反応なのだ。
そもそも所田と川下との確執は川下が真岡署に赴任して来た4年前から始まっていた。
当時真岡署の管轄で起き世間を騒がせていた母親による一人娘殺害事件は、当初幼い幼女が誤って一人で河へ転落した事故死であると判断されていたのだが、所田が母親の言動に不審を抱き執拗な捜査を繰り返した結果、遂に手掛かりを得て母親の犯行を暴きだしたと言う経緯があった。
だがその時刑事課長として赴任したばかりの川下は、所田の唱える幼女の他殺の線を踏みにじり、言うことを聞かずに他の事件を放り出してまでその事件に執着し、ひとりで捜査を続ける所田を疎ましく思っていた。
上司の言うことが聞けないのなら降格するとまで息巻いていたクセに、いざ所田が苦労の末にやっと母親の犯行を裏付ける手掛かりを見つけて来ると、さも自分の指導による成果であると言わんばかりの記者発表を開き、全ての手柄を自分の功績としてしまい、所田の苦労を蔑ろにしたのだ。
依頼所田は親子程も歳の離れたこの若き上司を軽蔑している。
とは言っても今度のケースの場合、冷静に考えれば逮捕状を取ることは難しいと言う川下の判断も無理からぬところもある。
だが、ここまで散々な苦労を重ねて、やっとのことで辿り着いた所田にしてみれば、どうにもやり切れない思いを抱いてしまうのだ。
だがまだ諦めることは出来ない。そうだ、出来ることはまだある。思い直した所田は管轄内にある高本進と大垣彰の出身大学や、大垣の自宅周辺への聞き込みに出かけた。
3
あの煩い刑事が栃木へ帰って数日が過ぎた。
進にはまた煩雑だが不毛とも思える営業に回る日々が戻って来た。
例のガラスの弁償代金については、結局のところ仕方なく大手の消費者金融に借りることにし、月々の返済額を1万円にして、金利を含めて1年6ヶ月の長期に渡る返済期間で契約したのだった。
今から向こう1年と半年の間、僕のお小遣いは毎月2万円だ。考えてもしょうがない、しょうがないんだ……。
この頃になると進の容貌はますますやつれた顔つきになり、好江は心配していたが、進としてはこれと言って身体に調子の悪いところがある訳でもないのだから、放っておくより仕方がないのだった。
ただ……近頃よく見る様になっていた夢を、近頃は朝起きた時に徐々にだが思い出せる様になって来ていた。
たかが夢だからと言って片付けてしまえばそれまでなのだが、問題なのはその内容があまりにも異様なことであった。
それはとても人に話せる様な内容ではなかった。進としても何故自分がそんな夢を見てしまうのか、まったく説明もつかないのだった。
それは……夢の中で、自分が幼い女の子の首を締めているのだ。
その子の顔は知らないのだが、それはまだほんの4歳か5歳くらいの、美由より1つ下くらいの可愛い女の子だった。
気が付くと進はその幼女のか細い首を両手で締めているのだ。
女の子は苦しそうに目を引き瞑り、嫌々をする様に顔を左右に振って逃れようとするのだが、進の手はすっぽりと柔らかな首を包み込む様に締めているので、決して逃れることは出来ない。
このまま強く締めて殺すのは容易いことなのに、夢の中の進はそうはしない。
息が詰まるギリギリのところで僅かに力を緩めて、半殺しのまま死なない様に空気を吸い込ませてやる。かと言って苦しみから逃れられる訳ではない、喉に空気が通ったか通らないかのところでまた首を締め、やがて息を吸うことも吐くことも出来なくなって少女は絶句する……。
目覚めた進は覚えている。まるで手の中にまだ幼女の柔らかな首の感触が残っている様な感じだ。
嫌な気分だった。自分にはサディスティックな趣味等は無い。ましてや幼女趣味なんてある訳がない。
テレビで連日の様に放映される幼児の虐待事件や変態行為のニュースを見る度に激しい嫌悪感に見舞われ、そんな犯罪を犯す者に対してやりきれない怒りを感じてしまうくらいなのに。何故僕があんな夢を見てしまうんだろう……。
ましてや自分にも美由と言う年端も行かない娘がいて、もし美由がそんな目にあったらきっと気が狂って死んでしまうだろうとさえ思うのに、まったく訳が分からない。
そんなある日、営業に出て珍しく早い時間に会社に戻った進が帰宅しようと会社を出たところで、ビルの正面玄関の脇に立っている所田刑事ともうひとりの男の姿を見つけたのだった。
嫌な物を見つけてしまった。とウンザリした気持ちになった進は無視して急ぎ足で行き過ぎようとしたが、逃さず所田は進の横にピッタリとついて歩いて来る。
「また貴方ですか、今度は一体何の用なんですか」
進としては精一杯の怒りを込めて言ったつもりだった。
「いやぁ、どうもすいません。こちらは調布警察署の神原刑事さんです」
と所田は紹介したが、進はその男の顔も見る気にはなれない。
「何の用なんですか」
「すいません。今日は貴方に所轄の調布警察署まで任意の同行をお願いしたいと思ってやって参りました」
任意同行?……。
思わず立ち止まった進は泣きそうな顔で所田を見る。
「どう言うことなんですか」
さすがの所田も進のベソをかいた様な顔を見て恐縮したのか、話し方を出来るだけソフトにしようと意識しつつ言葉を続ける。
「すいません。先日の事件のことでもう少し高本さんにお話を聞きたいことがありまして、今度はもっと深い事情についてお聞きしたいと思ったものですから、他の人に聞かれてもマズイ部分もあるかと思いまして、それなら署の方へ来て頂いた方が良いと思ったもんですからね。かと言って私の管轄である栃木まで来て頂く訳にも参りませんし、貴方の住んでおられる調布署の方でご協力頂きまして、場所をお借りしようかと……」
「今日これからですか?」
「はい、出来れば」
「困りますよ、今日は珍しく早く帰れると思って、僕だってたまには家族とゆっくり食事したいじゃないですか、僕には小さな娘だっているんですよ、僕と遊んで欲しくて家で待ってるんですよ」
涙を浮かべた進の訴えが効いたのか、所田はこれ以上は押せないと思い、では明日の日中ではどうかと提案してきた。
任意同行ならば強制ではないのだから、拒否しても良いはずなのだが、それではきっとこの刑事のことだ、また自宅や会社にでもしつこく押し掛けられたのでは溜まったものではない。
こうなればいっそのこと警察にでも何でも行ってじっくり話に付き合ってやり、しっかりと自分の無実を証明してやるしかないと進は考える。
「それじゃ明日、午前中に僕の方から伺いますから、今日のところはお引取り願えませんか」
「分かりました。それじゃお待ちしてますので」
と言って所田は立ち止まり、駅の方へと歩き出す進を見送る。
所田の隣りに立っている調布署の刑事だと言う男も進に向って会釈したが、これには反応せずに進は急ぎ足に駅へと向って行く。
4
翌日進は営業に行くと言って会社を出て、所田の待つ調布署へ任意出頭する為に新宿から京王線に乗り、ついさっき電車に乗って来たばかりの国領駅まで戻り、そこから歩いて調布警察署へと赴いた。
駅の近くには好江がパートに出ているファミリーレストランがある。もし前を通って好江に見つかりでもすれば余計な心配をかけてしまうと思い、進は遠回りになりながらもその場所を避けて行くことにする。
自分の住む街の管轄である調布警察署に入るのは、ずっと以前に一度自転車の盗難に遭った時以来である。
まだ新しいビルの一階のフロアーは広く受付けカウンターが横に伸びており、どちらかと言うと区役所を思わせる様な清潔感がある。
受付けの担当者に声をかけていると、すでに隅のベンチに座って待っていた所田が進の姿を見つけて立ち上がり、スタスタと近くへやって来る。
「お忙しいところありがとうございます」と頭を下げて言う。
「あ、どうも」
「それじゃ、こちらへどうぞ」
所田はそそくさと進を促して通路を歩き始める。後に進が付いて来ているのを確かめて階段を上る。
「あのう、あまり時間が無いので出来るだけ早く済ませて頂きたいんですけど……」
その問いかけに所田は半分進の方に振り返りながらも微かに頷いただけで、曖昧に流されてしまう。
「こちらです」
と言って所田が扉を開けて進に入る様に促したのは「取調室」と書かれた小さな部屋であった。
入ってみるとそこは四畳半程の殺風景な部屋であり、向かい合って座る机と椅子が真ん中に置いてある。まるでテレビの刑事ドラマに出て来るセットの様な間取りである。
まさかこんなところに自分が座らされる日が来るとは、進は思ってもみなかった。
所田は当たり前の様に進の前に腰を下ろすと、さぁ今度は逃がさないぞと言わんばかりに目を爛々と輝かせ、タバコに火をつける。
「一体何が聞きたいんですか、もう早く聞いちゃって終わらせて下さいよ」
「まぁそう慌てずに、今記録官が来ますから、ちょっと待ってて下さいよ」
と言うと、そのまま黙ってタバコの煙をくゆらせ始める。進も仕方なく黙っている。
ちょうど所田が一本目のタバコを吸い終わろうとする時、ようやくノックの音がして制服を来た若い警官が「失礼します」と言って入って来る。そして部屋の隅に置かれている記録用の机に着く。
それを確認すると所田は進に向って姿勢を正し「お待たせしました。それでは始めましょうか」と言う。
「はい……」
「まずお聞きしたいのは、今から15年前。貴方が栃木県の両際医科大学に在籍していた時のことなんですが。その頃貴方と同じ学年で在籍していた依野葵さんと言う女性のことを御存じですよね」
その名前をこの人なんかの口から発音して欲しくなかった。嫌、例えこの男ではなくても、その名前を他人の口から聞くことは生涯無いと思っていた。あってはならないことだった。
「……」
「どうなんですか? 本当のことを言って下さいよ」
「分かってますよ、はい、知ってます。知ってますよ、確かにその女性は僕と同じ大学で同じ学年でした。一緒に在籍していましたよ」
「それでは時間も無いと言うことなので単刀直入に聞きますが、その頃二学年上だった大垣彰さんと、依野葵さんと言う女学生と、貴方とは三角関係にあったのではありませんか?」
「……」
この刑事はどうしても進が一番触れて欲しくないことを持ち出すのだ。いやこれこそが刑事と言う職業の成すべきことなのかもしれない。
しかし、捜査の為だからと言って何の罪も犯していない僕をこうまで苦しめても良いと言うのか、今日こうしてわざわざ出頭して来たことだって僕としては大変な好意だと言うのに、それをこの様な酷い仕打ちで迎えられるとは、進は胸中に怒りの炎が沸き立って来るのをどうしょうも無い。
「でも……どうしてそのことを?」
「いえね、私は栃木へ帰ってから貴方が在籍していた頃に同じ大学に通っていたと言う方々と何人かお会いしましてね、そこで皆さんから当時のことについてお話をお聞きしたんですよ」
「誰なんですかそれは」
「いや、それはここでは申せませんがね」
「その依野葵さんにも会ったんですか?」
「それにもお答え出来ません」
「貴方は何も答えられないけど、僕は全てに答えなければならないと、そう言うことですか」
「そうです」
「……」
「ある方の証言によれば、貴方は依野さんに対して片思いの感情を抱いていたけど、依野さんの方ではそうした貴方の気持ちには全く気付かずに、他の女学生の間でも大変人気のあった先輩の大垣彰氏に憧れを抱いていたそうじゃありませんか」
「……」
「どうです? もちろん貴方もそのことは知っていましたよね?」
「……はい」
「2年生の2学期の途中で貴方は突然大学を中退されていますね」
「はい」
「何故ですか?」
「……」
「その頃在学していた方にお聞きしたんですが、貴方が中退されてから大垣さんと依野さんとは公にも公表する形で大っぴらにお付き合いを始めたそうじゃないですか」
そうだったのか……進は知らなかった。
僕がいなくなった後、あの二人は本格的に付き合いを始めたんだ。きっと僕がいた頃はまだ陰でこっそり付き合ってたんだ。
そう思うと一層の悔しさがこみ上げて来て、進は思わず唇を噛み締める。
そんな分かりやすい進の表情を所田が見逃す訳も無い。
「貴方が大学を中退されたことと、依野さんと大垣さんとのことと、何か関係があるんじゃないんですか?」
食い入る様に質問してくる所田の視線が、進の顔に突き刺さる様でうっとおしい。
「そんなこと……ある訳がないじゃありませんか」
進はこういう場合に嘘をついて取り繕うことが全く出来ない人間だった。
所田の目には進の表情が「はい、全て貴方の言う通り、その通りでございます」と言っている様に読み取れるのだった。
だが、ここへ来て露わになる進のそうした性質が、前回国領の喫茶店で尋問した際の進の返答に全く嘘が無かったことを立証する結果にもなっているのだ。
「それでは何故高本さんは大学をお辞めになったんですか?」
「それは……勉強が難しくて、付いて行けなくなったからです」
「ほう、でも私立の医大と言うのは入学金にしろ授業料にしろ大変な高額なのではないですか? そんな大金を支払ってまで入学した大学をそう簡単に辞められる物ですかね」
「そんなことは、貴方の知ったことじゃないじゃないですか!」
思わず大声を出していた。所田は進がこんなに感情を露わにしたのを見るのは初めてのことだった。実に分かり易い……。
「それに……」
「は? 何でしょう?」
「それが刑事さんの言う通りだったとしても、もう15年も前の事じゃないですか、何で今更なんですか? 例えその時本当に僕が大垣さんに対して酷い憎しみを抱いていたとしてもですよ、何で15年も経った今になって恨みを晴らす様なことをしなければならないんですか」
「そうなんです……実はそれなんですがね、そこが私にも一番ひっかかっているところなんですよ」
「だから、僕は何もしていませんって」
進のそんな訴えは無視された。
「実は大垣氏の事故のあった翌日に、マンションの近隣に住んでいる人たちから聞き込みを行ったんですが、その中で一人だけ不審な人物を見たと言う目撃証言を得た方がおりましてね、その方が目撃したのは事故のあった日の夜12時過ぎで、その方が友人宅から帰宅した時のことだったと言うんですが。私は今回栃木へ帰った時に、貴方の写真を持参してその方に見て貰いに行ったんですよ」
「えっ、僕の写真をですか」
「はい」
進は所田が何処から自分の写真を手に入れていたのか、検討もつかなかった。
「それでその方の言うにはですね、あの夜目撃したと言う不審な人物は貴方に間違いないと言うんですよ、その人はその写真を一目見て迷わずそうおっしゃったんですよ」
「それは一体……どれですか? 僕のどの写真を見せたって言うんですか」
バサッと数枚の写真が進の前に投げ出された。それは望遠レンズで撮影された朝の出社して来る背広姿の進の顔である。
「こんな……」
こんなことまで警察はするのか……絶句して進は所田の顔を睨み付けた。この時初めて進は所田に対して明確な憎しみを抱いた。
「この写真を見てその人は即答しましたよ、この人に間違いありませんって」
「そんなの勘違いに決まってるじゃないですか、僕のアリバイが正しいことだって貴方は会社まで来てしっかり確認してたじゃないですか」
「それなんですがね、確かに貴方は大垣さんの事故のあった日の夜10時30分頃まで、課長の島さんと御茶ノ水にある行きつけのバーで一緒だったと言うことは確認出来ているんです。でも大垣さんが転落したのはそれから1時間50分も後の深夜0時20分頃なんですよ。東京駅から最終10時44分の新幹線に乗ることが出来れば、宇都宮へは11時39分に到着します、そこからタクシーを飛ばせば0時20分の犯行時刻までに大垣さんの自宅へ行くことは可能だと思われるんですよ」
「そんな、僕が自宅に帰ったことは妻に聞いて貰えば確認出来るじゃないですか」
「恐縮ですが高本さん。こう言う場合はご家族の方の証言は証拠としては認められないんですよ」
「そんな……」
「ちょうど大垣さんの転落事故が起きる前頃に貴方を目撃したと言う方はこう言ってます。その人は知人宅から自転車で帰って来たところだったらしいのですが、家の前まで近付いて来た時に真正面からこちらに向って歩いて来る男がおり、このままだとぶつかると思ったのだが相手には全く避ける意志がなさそうだったので、自分が避けてすれ違ったのだが。その時に見た男の顔は何だか妙に青白く光っている様な感じで、表情も虚ろで、まるで前など見えていない様な感じだった。だが、その人物は顔も髪型もこの写真の男にそっくりでしたと」
「そんなことある訳が無いじゃありませんか、それじゃ村麦さんの事故の場合はどうなんですか? 事故が起きた時間に僕は籠原医院の院長さんと後輩の塩中と一緒に池袋にいたってことは確認出来てるんでしょう」
「ええ、そっちの方はまぁ立派にアリバイが成立しているんですがね、今のところは」
「今のところはって何ですか」
「いえね、私は正直言って必ずしも犯行時刻に貴方が現場にいたとは考えていないんですよ、例えば催眠術をかけて、その時間になると脈絡もなく自ら死んでしまう様に仕向けるとか、あるキーワードを潜在意識の中に記憶させておいて、その言葉を聞くと自ら命を断ってしまう様にし向けておくとかね」
「そんなSF映画みたいな話がある訳ないじゃありませんか」
「いや、それは後催眠暗示と言ってね、調べてみたんですがそう言うことも理論的には可能だし、実際それに近いことが出来たと言う実験結果も発表されているんですよ。だから可能性はあると私は考えています」
「そんな……僕にそんなことが出来る訳ないじゃありませんか。貴方はどうしても僕を殺人犯にしたいんですか。そんなに僕のことを陥れたいんですか、こんなことまでして貴方は自分の功績が欲しいんですか!」
所田には自分に向って必死に抗議するこの進の表情も、全く澱みが無く真実だと思えてしまうのだった。
もし本当に高本が犯行を犯しているのだとすれば、高本進と言う男は確信的な精神分裂病なのか、もしそうでないとすれば……もしコレが全て演技なのだとすれば……悪魔……所田は背筋がゾッとするのを感じた。
また奥深い迷宮が所田の前に入り口を広げている様な思いがした。
「それでは貴方は飽くまでこの事件に自分は関係ないとおっしゃるんですね」
「当たり前じゃないですか。だからそもそも、これは事件なんかじゃないんですよ」
「それじゃ、コレはどうですか」
と言って所田は一枚の指紋サンプルを進の前に提示する。
「コレはこのライターから採取した貴方の指紋サンプルです」
とポケットから出したジッポのライターを進の前に置く。
「コレは……」
一層の憎しみを込めて進は所田を睨みつける。
だが所田は全く動じる様子も無く、進の表情だけをじっと分析するように見つめている。
「そしてこれ」
と言って二枚目のサンプルを提示する。
「コレは大垣さんが転落する前に酒を飲んでいた居間のドアノブから、たったひとつだけ検出された大垣さんのご家族以外の指紋です」
それがどうした? と言わんばかりに進は手に取って二つを比べて見る。
「そして最後に、コレは村麦さんが乗っていた車のハンドルに付いていた村麦さん以外の者の指紋です」
「えっ」
三枚の指紋を比べて見ると、確かに似た様な模様を描いている様である。思わず進は自分の指を目に近付けて見る。
「うちの鑑識官に分析させたところ、この三つの指紋は同一人物の物に間違い無いとの見解を得ました」
「そんな! そんなバカな! 僕は栃木県の大垣さんの家になんて行ったことありませんよ、村麦さんのジャガーにだって乗せて貰ったことなんか一度も無いし」
「ではコレをどう説明するんですか」
「そんなこと分かりませんよ、汚い! 卑怯じゃないですか、こんなことまでして容疑者をでっち上げて逮捕してるんですか日本の警察ってところは!」
進の余りの剣幕に記録を取っていた警官が立ち上がる。それを所田が「まぁまぁ」と押し止めて座らせ、進にも落ち着く様に促す。
所田は脚を使ってあちこち聞き込みに回る捜査では、もうこれ以上の進展を期待することは出来ないと思っていた。
なのでもう後は本人へのアプローチから切り崩して行くより他に無いと思っていたのだ。
だが、ここへ来て長年培った所田の勘は、この男は本当にやっていないのではないか、と言っている。
やっぱりこの二つの事故は単なる事故であって、それに無理矢理事件性を見出そうとしたあまりに自分は高本進犯人説を捏造しようとしてしまっているのだろうか。
しかしこの三枚の指紋サンプルにインチキは無い。それだけは歴然とした事実だ。
所田の長年の刑事生活はあと3ヶ月で終わる。最後に来て誰もが何の関連もない単なる事故だと思っていた二つの事件を、連続殺人事件として解決し、世間をアッと言わせて刑事生活の最後を飾ってやりたかった。
何よりもあの生意気な川下刑事課長の鼻を明かしてやりたかった。そんな思いで突っ走って来てしまった。
それが間違いだったのか。疲れ果て、もはや絶望している様な高本進を見ていると、所田も精根尽き果てたと言う感じで椅子に深く座り直す。
タバコに火をつけて溜め息をつく様にして煙を吐く。
「一体どうやってやったんだよ?」
もう頼むから、教えてくれよ……とでも懇願する様な情けない口調で所田は言う。
「だから、僕がそんなことする訳が無いじゃありませんか、そんなことをしたら僕の人生はどうなるんですか? 家で待っている家族の生活もムチャクチャになるじゃないですか、そりゃ僕の人生なんてささやかで取るに足りない物かもしれませんよ、だけど、僕はそれを必死になって守って来たんですよ」
最後の部分はもう泣き声になっている。所田は思う。もうやめにしようと、本当のところはまだ分からないにしても、こんな風に必死になって訴える高本の顔を見ていると、所田としてももうコレ以上は無理だと言う確信を得てしまうのであった。
5
所田の執拗な取調べは午前中から延々と続き、夕方の4時になってやっと終わった。
進は酷く消耗してしまったが、これでやっと解放されたのだと思い、ヤレヤレと言う気持だった。
やっと普通の生活に戻れるんだ。刑事に殺人犯として疑われるなんてことが、僕の平凡な人生の中で起こるとは思ってもみなかった。でも良いんだ。もうこれで本当に終わったんだから。これで……。
所田は正直性根尽き果てたと言う感じだった。もうやめよう。もうこれ以上は無理だ……と思った。
二つの事故現場に残された指紋。目撃者の証言。犯人として考えられる動機。これだけの状況証拠が出揃っていても、所田を憎む川下刑事課長は高本進に対する逮捕状の請求を許可しなかった。
今となってはその判断は間違って無かったのではないかと言う気さえする。
それに加えて長年の所田の刑事生活の中で培われた職業人としての勘がこう言っている。
『高本進は人殺しはしていない』
もうやめよう。刑事生活最後の事件として、世間がアッと驚く様な事件の解決を見せて、華々しく咲かせてやりたかったが、もうその夢は潰えた。
所田は協力してくれた調布署の担当官たちに丁寧に礼を述べ、調布警察署を後にした。
国領駅から京王線に乗って新宿へ出る。そこからJRの埼京線で大宮へ出て新幹線に乗るつもりである。
乗り換えの為に夕暮れの帰宅時間で混雑する新宿駅を歩いている時、ふと後ろから視線を感じた様な気がして所田は振り返った。
見ると行き交う人々の向こうにぽつんと立ってこちらを見ている高本進がいた。青白い顔をして、不自然な程に無表情だが、目だけがギョロリと黒い。
どうしたんだ? あの人は一体……と思い、歩み寄ろうとした時、また幾人かの通行人が過ぎって視界を遮ったかと思うと、それっきり姿を見失ってしまった。
おかしいな、気のせいだろうか……等と思いつつ、その時の高本の顔が妙に恨みがましく、自分を睨みつけていた様な気がしたのだった。
今日の取調べのことを、怒ってるのかな……そりゃあ自分がやってもいない殺人の容疑を掛けられて、朝からこんな時間まで延々と付き合わされたのでは誰だって頭に来てしまうだろう。
思えば悪いことをしたな……。
と思い、暫らくキョロキョロしながら探してみたのだが、この雑踏の中で、もう見つけることは不可能だと思い、諦めて埼京線のホームへと急いだ。
大宮から新幹線に乗り換えて、宇都宮からは私鉄とバスを乗り継いで、所田は久方ぶりの自宅へと向った。
やっとアパートに帰って来た。カンカンと音を鳴らして古びた鉄の階段を登る。
所田は一人暮らしだった。今までに結婚する機会が無かった訳ではないが、どうも自分には結婚生活は向かないと思い、刑事と言う職業だけを天職と思い頑張って来たのだった。
等と言えば聞こえは良いが、正直所田には女性に対するコンプレックスの様な物が昔からある。自分は女に持てない、かと言って人並み以下の女に媚びてまで結婚することは出来ない……等とあれこれ考えてみても、要は甲斐性無しと言う一言で片付けられるに過ぎないのだ。
高卒で県警の採用試験に合格した所田はコツコツと実績を重ねて10年後にやっと巡査部長になった。
それ以上の出世を望むには現場を離れて昇進の為の勉強に没頭する必要があったが、それよりも所田は直に犯罪者と立ち向かう刑事と言う生き方を選んだ。
出世の為に制服警官の職に甘んじて試験勉強ばかりしている同僚たちを尻目に、所田は刑事を自分の天職として現場を駆けずり回って来た。
そして結局自分は定年まで巡査部長の階級で終わった。
そのことに後悔は無い、後悔は無いのだが……あのキャリアの若造は大卒で赴任して来ていきなり警部補の役職になった。
俺が一生かかってもなれなかった警部補……まぁいいさ、所田には階級なんぞに未練がある訳ではない。
階段を登り切り、自分の部屋の前まで来ると郵便受けに入りきれなくなった新聞が下に落ちて散乱している。
この部屋に帰って来るのは10日ぶりくらいになるだろうか。
新聞を拾い集めて、ガチャガチャと鍵を開けて部屋へ入る。
久方ぶりの殺風景な6畳一間の和室。空気がヒンヤリとしている。
衣類や雑誌等が適当に散らかっている様子は10日程前に部屋を出た時と寸分変わっていないのだろう。
そう、俺以外にこの部屋を出入りする者等はいないのだから。
今となっては身寄りもいない、これから定年を迎えてその後はどうなるものか、考えてみても仕方が無いことだと思っている。
風呂を沸かして入ろうと思ったが、所田にはどうも先程の新宿駅で見かけた高本進の姿が気になってしょうがなかった。
雑踏の向こうで、ポツンと立って所田のことをじっと見ていた高本進……。
彼にしてみれば、あらぬ疑いを掛けられて、長時間の取調べにまで付き合わされて、酷く腹を立てているんだろうか。まぁそれも無理もないことだ……。
思い立って所田は時間的に遅いかとも思ったが、まだ起きているであろうと言う推測で高本の自宅に電話を入れて今までの無礼を詫びようと思った。
ボロボロに使い古した手帳を開き、そこにメモしてある高本の自宅の電話番号をダイヤルする。
4~5回の呼び出し音の後、高本の妻らしい女性の声が響いた。
「はい、もしもし、高本でございます」
お目にかかったことは無いが、その声に所田は勝手に何故か清楚で都会的なセンスのある女を思い浮かべる。
「あのう、夜分にすみません。私お仕事で御主人のお世話になった所田と言う者なんですが、御主人様にひとことお世話になったお礼を述べたいと思いまして、電話では失礼かとも思ったのですが、御主人はまだ起きていらっしゃいますでしょうか?」
「あ、はい、どうもわざわざご丁寧にありがとう御座います。ちょっとまって下さいね……進さーん!」
受話器を置いて高本を呼んでいるらしい妻の声が響く。
暫らくしてようやく電話に出た高本の口調は露骨に嫌そうな反応である。
「一体何なんですか? もう僕には関わらないって今日言ったじゃないですか」
「いえ、あの、はい、それはその通りです。私は貴方に今までの非礼をお詫びしたいと思いまして。最後に電話を差し上げた次第なんです」
「えっ?」
驚いた様子で進は素っ頓狂な声を上げた。
「本当に、多大な御迷惑をおかけ致しまして、申し訳ありませんでした」
「いえ……そんな、良いんですよ、だって、刑事さんだって、お仕事でなさってたんでしょうから」
所田の真意を聞いた高本進は途端に軟化して所田の労を労ってくれる。
「はぁ、そうご理解して頂けると、ありがたいんですが、でも本当に、御迷惑をおかけしました……」
何て物分りが良くて優しい男なんだ。自分は全くの無実だと言うのに、俺と言う人間に疑われてしまったばかりにあれだけの理不尽な目に遭わされて、それでもこちらの詫びの一言で全てを許すと言うのか。嫌それだけでなくこちらの労をも労う言葉をかけてくれると言うのか……。
「本当に、申し訳ありませんでした」
何て良く出来た男なのかとしきりに感心しながら、所田はまるで相手がそこにいるかの様に受話器を握り締めたまま何度も宙に頭を下げて、謝りの言葉を繋いだのだった。
だが実は進の方ではまだしつこく電話して来る所田に対して、何事なのかと腹を立てていた。相手が詫びを入れている以上はこちらとしてもそれに応ずる応えをしなければならないと思い、心ならずも所田の労を労う様な言葉を口にしていたのであった。
定年間近になって、自分をバカにしている若い奴等の鼻を明かしてやりたかったのだと言う所田……その気持ちは分からないではないけれど、冗談ではない、そんなことに何日も付き合わされる方の身にもなって欲しい。と進は思う。
しかしここでそんなことを言い返してみても、却って逆効果になると思い、もう本当にこれでこの刑事とはオサラバ出来るのだから、と言う思いで労いの言葉を並べたのだった。
しかし受話器を置いた進は腹の中で密かにこう呟いている自分を自覚している。
『本当に煩い刑事だった。あんなヤツ早く定年していなくなっちゃえば良いんだ……』
所田は10日振りに自宅の風呂を沸かして入っている。
シャンプーをかけて髪をゴシゴシと洗った。頭を洗うのも10日ぶりくらいのことで、髪の毛が引っ掛かって指がなかなか通らない。
一度洗い流し、もう一度シャンプーをかけ直してジャブジャブと洗う。
そして二回目のシャンプーを洗い流そうと手探りでシャワーの口を開き、勢い良く湯をかけて泡を洗い流す。
その時だった。一人で入って身体を洗うのもやっとと言う狭さの浴室の隅に……しゃがみ込んで髪を流している所田の後に誰かが立っている……。
まず見えたのは黒い影だった。それは背広のズボンらしい。振り向き様にギョッとして見上げると、そこには背広姿の高本進がギョロリと黒い目で所田を見下ろしている。
「わああああああーー」
その瞬間所田には全てが分かった。今自分の目に見えているコレは人間ではない、犯人はコレだったのだ。
コレが殺人を犯していたのだ。姿形は紛れも無く高本進であるけれども、決して高本進ではないコレが……寸分狂いもなく高本進であることに間違いないけれども、この薄気味の悪い青白い顔、黒いビー球の様な瞳は決して人間の物ではない。
ソレは後から所田の首を両手で鷲づかみにしたかと思うと凄い力でスーッと持ち上げ、そのまま有無も言わさず凄い勢いで浴槽の中に落とし込んだ。
バシャーン!
所田はゴボゴボと自分の口から鼻から気泡が顔面を上へ沸き上がって行くのを感じながら、頭の中は驚きに満ちていた。
こんなことが!
そして思った。俺も今あの大垣彰や村麦実と同じ顔をしているのだなと。あの驚愕に慄き叫び続けている様な、見る者を戦慄させる様なあの顔をして、今自分も死ぬのだなと
ここにいるハズがない者なのに……その確かな両腕の感触で首を締め付けられながら、所田はなす術も無い。
こんなにも自分の中に空気があったのかと思うくらい、口から鼻からゴボゴボと気泡が顔を伝って上がって行く。やがて意識が遠のいて行く。
(後編へ続く)
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