そこにいた女(下)

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   第四章     1  亜希子は東京駅のネットカフェで調べた千葉県の芳辺谷村にある会沢診療所へ送る手紙を書いた。 調べた住所を検索して地図に表示してみると、その村は亜希子たちが住んでいるのと同じ千葉県とは言っても、東京湾のずっと先の房総半島の突端近くで、山間部の中にあった。  宛名は『会沢診療所御中越川康弘様』とした。まずは相手の出方を見なければならないと思い、差出人の名前は書かず、この手紙が越川医師に届けば連絡が貰える様に、俊がパソコンで使っていた、正規のアドレスを知られることなくメールのやり取りが出来るフリーメールを登録して使おうと思う。 越川医師に送る手紙に携帯から登録したフリーメールのアドレスを添えて、次の様に書く。 『私は貴方の息子さんの俊一君の居場所を知っています。この手紙を読んで頂けたのなら、誰にも知らせずにこのアドレスへご連絡ください』  越川医師がその診療所に勤務しているのであれば、きっとメールを送って来るだろう。 その手紙を出した翌日から、会社は5日間のお盆休みに入った。  旅行に行く予定もないし、一日くらいは八王子の実家にも顔を出さなければと思い、姉の真由美と連絡を取って、二日目の朝から行くことにしている。  一日目の今日は家にいても俊と話すことは殆どないし、普段出来なかった片付け物やベランダの掃除等をしたけれど、それも一通り済ませてしまうとやることもなく、度々携帯を開いては越川医師からのメールが来ていないかと気になっている。 次の日は朝から家を出て、電車を乗り継いで新宿から京王線に乗る。実家に近い北野駅に着くと検見川浜から2時間半くらいだった。遥か彼方へ引っ越したつもりでいたのに。思ったよりも時間が掛からなかったので驚いてしまう。 玄関を開けて「おう、お帰り」と出迎えてくれたのはお父さんだった。  私が家にいた頃は何処となく頼りなくて、いつもお母さんにお尻を叩かれるみたいにして仕事に通ったいたお父さんは、まるで気の小さい恐妻家だなと思っていた。  けれど銀行を定年退職してからは、逆に威厳が出て来たと言うか、ふと黙って座っているのを見ると、父親の大きさみたいな物を感じる様になった。本当はただ暇を持て余してぼーっとしてるだけなのかもしれないけど。 「ただいま、お久しぶりです」  とつい他人行儀な挨拶をして家に上がると、姉の真由美とご主人の吉村さん、それに姪の由香里ちゃんも来ている。  姉と会うのも久しぶりだった。3つ違いだから41歳になっている姉さんは、サラリーマンの夫と高校生の娘のいる家庭の、典型的な奥さんと言う雰囲気になっている。  あの頃会社勤めを始めて4年目だった姉さんが、会社の上司から紹介された吉村さんとの結婚を決めて、アッサリ仕事を辞めてしまった時には、吉村さんには失礼だけれど、こんな平凡な人との人生を手堅く決めてしまっていいのかなぁ、と思ったりした。  けれど、すっかり大きくなった由香里ちゃんと旦那さんと三人で並んでいる姿を見ると、ああ本当は女の人生はこれが正解だったのかもしれないなぁ、とも思う。私もこうなりたかったとは思わないけれど、私は姉の様に手堅く生きて来ることは出来なかった。 「亜希子も早く良い人を連れて来てちょうだいよ~」と言う母さんに「仕事に生きる女ってのも近頃は流行ってるんだから」と適当に交わすと父さんが「結婚しないのなら家に戻って来なさい」とぶっきら棒に言う。  ちょっと場が白けそうになったところを「あら、結婚だけが人生じゃないわよねぇ~」と姉が助け舟を出してくれたので、どうにか誤魔化して楽し気に過ごす。  そんな会話のどさくさに紛れて皆に検見川浜に引越したことを告げたのだけれど、両親や姉さん、それに由香里ちゃんにまで、誰か良い相手でも出来たんじゃないかと追求されてしまった。  最初は笑って誤魔化していたけれど、あんまりしつこいので顔も引きつって来てしまい、いい加減にしてよという感じだった。 今夜は泊まっていけと言う両親を、明日は用事があるからと言って振り切って、夜遅くなって帰って来る。  電車の中で携帯を開いてみるが、越川医師からのメールは来ていない。俊には今日は遅くなるからと言っておいたので、怒ってはいないと思う。    翌日になって、遂に越川医師からのメールが来た。 『貴方はどなたでしょうか? 悪質な悪戯だとしたら直ちに警察へ通報します』  と書かれている。こちらの言うことを全く信じていない様子だ。  考えて、俊の寝顔をこっそり携帯の写真機能を使って撮影し、その画像をメールに添えて、次の様な文章を打ち込む。 『私はひょんなことから俊一君を匿ってしまった者です。俊一君は勉強して将来はお父さんの様な医者になりたいと言っています。でも俊一君には警察に出頭する勇気がありません。今からでも遅くはないと思います。私は俊一君が立ち直ってその夢を実現させる為に、力を尽くしてあげたいと思っています。真剣にそう考えています。貴方に連絡を取ったことを俊一君には秘密にしています。俊一君を立ち直らせてあげることが出来るのはお父さんだけだと思い、居場所を探していました。是非とも貴方の力が必要なのです』  そのメールを送信すると5分も経たないうちに返信が来た。 『私は打ち震えています。どなたか存じませんが、何とお礼を言ってよいのか分かりません。無事でいるのかどうか心配で夜も眠れない日々を過ごしておりました。息子が生きていると分かってこんな喜びは御座いません。貴方様には大変な御迷惑をお掛けいたしました。すぐにも引き取って然るべく罪の償いをさせてやりたいと思います。俊一が事件を起こしてしまったのは全て私の至らなさによるものと思い、悔やんでも悔やみきれない気持ちでおります。またこの件につきましては貴方様にはきっとご迷惑の掛からない様にしたいと思っておりますので、何卒宜しくお願い申し上げます』  こちらが素性を隠しているにも関わらず、実に誠実な言い回しだった。  亜希子は俊を匿うことになった経緯については何も書かなかった。というより書くことが出来なかった。  それを察してなのか、越川の方もこちらに必要以上の質問はせず、亜希子が何処の何者なのかということも、職業も何も聞いては来ない。ただ感謝の言葉だけで返事を書いている。そんな態度に気の毒な印象さえ持った。 それから何回か、俊には内緒にしたまま越川医師とメールのやり取りをした。 越川医師からのメールには、事件を起こしてからの俊一の様子について、出来るだけ教えて欲しいということが書いてあった。  亜希子は俊が亜希子の借りて来る映画やアニメのDVDを夢中になって観ていたことや、頭が良くてクイズ番組等は出演者たちが敵わないくらいの回答率だったこと、旺盛な食欲に驚かされたことや、寝ている時に母親の夢を見ているらしく魘されることがあったこと等を書いた。  それから絵が上手くて、亜希子が昔描きかけだった水彩画を見事に仕上げてしまったことも。  俊の寝顔の写真を見せられたとはいえ、越川はまだ亜希子が俊を匿っているということに半信半疑なところがあるのではないかと思う。だからこうして誠実に感謝している態度を見せながらも、いろいろと俊のことを訊ねて、様子を窺っているのではないかと思った。 そんなやり取りが何日か続いた頃、越川はメールではなく電話で話すことは出来ないかと書いて来た。自分の携帯の番号を教えるので、非通知でも良いのでかけて来て欲しいと言う。  俊のいるところで電話をする訳にはいかないので、仕事の帰り道、駅からの道を少し逸れたところにある公園で電話を掛けようと思った。  電話するのはその時間でどうかと打診してみると、大丈夫だと言うので、明日電話を掛けることを約束する。  次の日、陽の暮れかかった公園のベンチに座って携帯を出し、非通知の設定にして越川からのメールに書かれた番号にかける。 『はい、越川ですが……』  それは別段何の変哲もない何処にでもいる中年男性の声だった。 「もしもし、あの、私です」 『はい、分かっております』 「はい……」 『始めまして、越川康弘と申します。この度は息子がとんだご迷惑をお掛けいたしまして、全く何とお礼を言って良いやら分からない次第で御座います……』  恐縮しきった様子で、いつもメールに書いてあったのと同じ様な文句を述べる。 「はい、もうそんなことはいいんです。それより今からの俊一君のことを相談させて頂きたいんです」 『はい、勿論で御座います。それから貴方様への御礼のことも重々考慮しておりますので……』 「いえお礼なんかいいですから、お父さんみたいな医者になりたいっていう俊君の夢を、どうしたら叶えさせてあげることが出来るかということをお話ししたいんです」 『はいっ、私に出来ることは何でもする所存でおります。俊一にあんなことをさせてしまったのは全て私の責任だと痛感しておりますので、もし私の命と引き換えに俊一が立ち直ることが出来るというのなら、喜んで命を捨てる覚悟も出来ております』 少し戸惑う……俊一に済まないことをした、親としての責任を果たせなかったという悔恨の念に囚われてのことなのだろうけど、それにしても言動に違和感の様な物を感じてしまう。 「俊一君はもう自分はダメだと思って、自暴自棄になって自堕落な生活に浸りきっているんです。救って上げることが出来るのはお父さんだけなんです」 『しかし、私にまだ俊一の父親としての資格があるのでしょうか』 「俊一君は何よりもお父さんに悪いことをしてしまったと、深く反省しているんです」 『はい……』  その後沈黙した。微かに聞こえる息遣いに、越川が嗚咽を堪えているのではないかと思う。 『……すいません。俊一には、妻のことはもういいから、早く出て来て私と一緒にやり直して欲しいと、伝えて下さい……人生を』 「はい」 『それで、俊一は今どちらにいるのでしょうか』  躊躇した。まだ居場所を教えることまではやめておこうと思う。俊一がここにいることを告げた途端に越川が警察に通報してしまうのではないかという恐れがある。  もう越川に対する信頼感は大分出来ているけれど、何故かまだ信ずるに足る確信が持てないというか、躊躇いがある。  まだ俊に隠しているということもあるけれど、俊に引き合わせる前に一度直接会って話をしてみたいと思う。 越川にその旨を伝えたところ、まだ診療所に勤務させて頂く様になったばかりだし、自分の都合で休みを取らせて頂く訳にはいかないのだという。  なので越川は恐縮したが、亜希子の方から診療所を訪ねて行くことにする。  だが訪ねて来た亜希子と越川との関係を他の人たちに訝しく思われてもいけないので、亜希子はたまたま近くに来ていたところ、急に具合が悪くなり、診療所を訪ねたという体裁にしようと相談する。 越川に都内から診療所までの交通の便を教えて貰い、期日については追ってメールで連絡することにした。  通話を切ってベンチを立つと、すっかり夜も更けてきており、広い公園にいるのは亜希子一人だった。   2 次の土曜日。亜希子は越川医師の勤める診療所へと向かう。  俊にはまた土曜出勤だからと言っておいた。以前にも何度か本当に仕事で出勤したこともあるので、俊は言葉通りに受け止めているみたいだった。  検見川浜駅から会社へ行くのとは反対方向の蘇我行きの電車に乗り、蘇我からは内房線の安房鴨川方面へと向かう電車に乗り換える。  幾つかの駅を通り過ぎた辺りで、進行方向の右側に大きな煙突やコンビナートが建ち並ぶ工業地帯が見えて来る。  ああ、この辺りはあの朝俊と浜辺へ来た時、幾つもの赤く点滅してる光が見えた辺りなのだなぁと思う。  そこを過ぎるとやがて海が見えて来る。電車は房総半島の海沿いをいつまでも走る。海が間近に迫って来て、背後には緑の山々がある。  この辺りに住めばきっと俊が望んでた様な、窓から海が見渡せる部屋もあるかもしれない。けどさすがにここからでは会社へ通うのが大変だろう。  そんなことを考えるともなくぼ~っと景色を眺めている時だった。少しお腹が痛いと思っていると、それがどんどん酷くなって、座席に座ったまま前屈みになってしまう。  それまでにもお腹の辺りに何か違和感があると感じたことはあったのだが、それが急にハッキリした感覚になって、キリッと刺す様な痛みが走る。  お腹を壊したり食べ物に当たったりした痛みとは違う。どちらかというとおへその辺りよりは上の方で、みぞおちに近い様な感じがする。便意はなくて、何処かは分からないけれど内臓その物が痛んでいる様な感じだ。  なんだろう……と思ってじっとしていると、次第に痛みは治まって、なんでもなくなってくる。だが、少し身体を動かすと今度は腰の後ろにぎゅっと絞られる様な痛みが走る。 「あいたた……」  思わず声が出てしまい、片手で腰を押さえる。近頃は神経をすり減らす様なことばかりしていたから、きっと身体の中に無理が来ていたのかもしれない。  もっと痛みが酷くなって来たらどうしようと思い、呼吸を整えてじっと動かずにいる。  痛みは治まってきたけれど、動くとまた痛いんじゃないかと思い、暫くそのままでいる。大分時間が経ってからそうっと腰を回してみると、大丈夫だった。 そのまま海岸線を走る電車に揺られ、蘇我駅から約2時間も掛かって、房総半島の突端に近い九重という駅で降りる。  そこは無人駅で、ホームからの出入り口の両側に切符を入れるボックスと、カードをタッチさせるパネルの付いたポールが立っている。  内房線への乗り越し分も含めて検見川浜駅で買った切符をボックスの差込口に入れる。  ホームの他はガラス張りのこじんまりした待合室とトイレがあるだけの小さな駅だった。  電車から降りたのは亜希子の他に1人だけで、その人は待合室を通過するとスタスタと何処かへ歩いて行ってしまう。  バス停の時刻表を見て、越川医師に教わった1時間に1本しかない路線バスが来るのを待つ。  辺りは他に人影は無いけれど、駅前を通る車道を時々車が走って行く。  やがて来た路線バスに乗る。運転手の他に乗客は4人くらいで、どの人も地元の人らしい。  走り出したバスは暫く田園風景の中を走り、山の間の曲りくねった道を縫う様にして登って行く。乗ってから40分程行ったところにあるバス停で降りる。  辺りは木々が生い茂り、森に囲まれた中に田んぼや畑がある。地図を見ながらその脇を通る畦道を入って行く。 芳辺谷村は房総半島の突端近くの山間部にあった。越川医師によれば、診療所まではバスを降りてから歩いて20分くらいはかかるということだった。  ネットカフェのパソコンでプリントアウトしておいた地図を見ながら歩いていても、特に目印もない山の中なので距離感や方向がつかみ難い、歩いているうちにこの道で合っているのかと不安になって来る。 途中地元の農家の人らしいお爺さんに出くわしたので、診療所のことを訪ねてみると、親切に教えてくれた。  教えられた道を15分ほど歩いたところで家の前にいたお婆さんに再び訪ねると「ああ、診療所だね、近頃新しい先生が来て下さって皆感謝してるんですよ」と気さくに教えてくれる。 ようやく辿り着いて見ると、それは診療所というよりは普通に民家だった。玄関脇の表札を見なければ、そこが診療所だとは誰にも分からないだろう。  玄関の扉をノックして「ごめんください~」と声を掛ける。 「はい、どうぞお入り下さい」と中から男性の声がする。これが越川医師の声なのだろうか、それにしては電話の時と違って少し老人の様な感じだな、と思いつつ扉を開けて入る。  家の中も普通の民家の様に上がりかまちがあって、靴を脱いでスリッパに履き替える様になっている。  玄関から続いている板張りの廊下の奥に「診察室」と表示されたドアがある。「こんにちは」と言いながら開いて入る。  診察室は8畳程の広さで、脇にベッドがあり、窓際に書類の並んでいる机と医療器具等の入ったガラス張りのケースがあり、簡素だけれど清潔な感じがする。  待っていると奥の部屋から先ほどの声の人だと思われる白衣を着た老人の男性が現れた。  ちょっとドキドキしたけれど、越川医師は50歳前後だと思っていたので、この老人は越川医師ではなく、所長の会沢医師の方だと思う。見たところ70歳くらいだろうか。  亜希子の顔を見て『アレ、見ない顔だな』と言う表情をする。 「どうなさいましたか」と言われるので「すみません。仕事でたまたまこの近くに来ていたんですが、急に具合が悪くなってしまいまして、こちらに診療所があるとお聞きしたものですから」と越川と打ち合わせした通りに話す。  さっき電車の中でお腹に違和感を感じたことを思い出したけど、あの痛みが何らかの病気の兆候だとしたら、本格的な診察等を始められてはいけないと思い、考えていた通りに貧血を起こして倒れそうになったということにする。 医師は血圧を測りながら「前にもこういうことはあったんですか?」と聞くので「はい、本当にたまになんですけど」と適当に答える。  医師は意外にも「ああ、確かに低いですね」と言い「ちょっとこちらに横になって下さい」とベットへ促し、点滴を打って貰うことになった。 今日訪ねると約束しておいたのに、越川医師はどうしたんだろう……と思いながら横になって点滴を受ける。 「前は私しかいなかったものですからね、往診に出てる時はここは誰もいなかったんですけど、最近新しい先生が来て下さってるので、外来の方が来ても診られる様になって良かったんですよ」  その新しく来た先生と言うのが越川のことなんだろうか。とすれば今は往診に出ているのだろうか。点滴が終わるまでに帰って来てくれると良いけど。 「こちらでは応急の処置しか出来ませんので、もし頻繁に貧血が出る様でしたら一度大きな病院へ行って検査を受けられた方が良いと思いますよ」  と亜希子の提示した保険証のデータを書きながら、少しおっとりした口振りで言う。 「20分くらいで終わりますからね」  と言って会沢所長が奥の部屋へ入って行くと一人きりになる。  暫くして外に自転車の止まる音がしたかと思うと玄関の開く音がして「ただ今帰りました」と言う声がする。所長の入って行った奥の部屋へこの診察室を通らずに入ることが出来るらしく、ドアを開く音と足音が続く。 「お帰りなさい」と所長の声がする。 「篠田さんのお爺ちゃん大分良くなりましたよ。河野さんには明日また伺いますと言っておきましたので」 「そうですか、ご苦労様」 「どなたか外来ですか?」 「うん、貧血を起こしたそうなのでね、今点滴打ってるから」 「そうですか」  診察室のドアを開けてその医師が入って来た。男性としては小柄な方で、会沢医師よりはずっと若く、50代くらいに見える。  ベッドで横になっている亜希子の顔を見た途端に硬直した様に凝視する。亜希子もその医師の顔をじっと見つめたまま、大きく顔を揺らして頷いて見せる。 「今日はどちらの方からですか?」と強張った表情とは裏腹に気さくな感じで言葉を掛けてくる。 「はい、都内からなんですけど、歩いていたら急にフラフラしてしまって、近頃あんまり長く歩いたことがなかったものですから」   と調子を合わせて気軽な感じで答える。 「そうですか、急に運動するとそうなることがありますから、普段からなるべく歩く習慣を付けた方が良いかもしれませんね」  と言いながらデスクに座ると何気なく書類を見たりしている。  この人が俊の父親なんだろうか、医者というより平凡で何処にでもいるお父さんという感じだ。優しげで、とても慎ましい感じがする。  そうこう思っているうちに点滴も終わり、ベットを降りて礼を述べながら診察の代金を支払う。  すぐにでも話を切り出したいところだけれど、越川は奥にいる所長に聞こえるとまずいと思っているのか、亜希子のことは知らないという態度を通すつもりの様だった。 「それじゃ、お大事になさって下さい」と言いながら亜希子の手に小さな紙片を握らせる。  きっと何か書いてあるのだろうと思い、素知らぬ顔をしてポケットに入れる。 「ありがとうございました」と言って外へ出る。  玄関を出て少し歩き、診療所が見えなくなる所まで来て、そっとポケットから紙片を出して開いてみる。 『外で待っていてください』とだけ走り書きしてある。  木の陰から診療所の建物が見える所まで戻り、見ているとやがて中から出てきた越川が自転車に乗って走って来る。  診療所の前から続く道がTの字に分かれるところで立ち止まり、ここに立っている亜希子を見つけると、こちらへ向けて走って来る。  側まで来ると自転車を降り「少し一緒に歩いて頂けますか」と言って自転車を押して行く。  亜希子も並んで歩き出すと、越川は前を向いたまま語り始める。 「今日はどうも、ありがとうございます。こんな山の中まで来て頂いて」 「いえ……」 「……世田谷の病院を辞職しましたところへ、お世話になっていた上司からこちらの診療所を御紹介頂きまして、ここなら都心からそう遠くもないですし、もし俊一が見つかった時にも、すぐに駆けつけることが出来ると思いまして」 「そうだったんですか」 「はい、実は会沢先生は私の事情もご存知なんですが、先生も良いお歳なので、後任の医師が来てくれないと無医村になってしまうということで、私が来たことを喜んで下さっているんです」 「そうですか」 「それに村の方たちも、私の事情をご存知ないとはいえ、とても歓迎して下さいましてね、私の様な者を、本当に……」 と言葉を詰まらせて、少し沈黙してからまた続ける。 「私の様な者が、まだお役に立てる場所があるんだと思いましてね」 「……」  越川の口調は淡々としているが、見ると幾筋もの涙が頬を伝っている。 「俊一は元気にしているんでしょうか」 「……はい、大丈夫です」 「ありがとうございます。貴方には、何とお礼を言っていいか」 「……」  ここに来るまで、もしかしたら越川は、私が俊を警察に引き渡すこともせずに匿っていたことを責めるのではないかと思っていた。  だが、物腰の柔らかな越川の言葉に接していると、既に俊の心までもが救われている様な気がしてくる。  二人で暫く歩いていると、道を囲んでいた森が途切れ、波の音がしたかと思うと視界が開けた。そこには青く東京湾が広がっている。 その先は切り立った断崖で、縁から見ると遥か下の岩場に波が当たって砕けている。  下から吹いて来る潮風が頬を撫ぜる。彼方まで遠い遠い海に青空が広がっている。思わず胸が一杯になってしまう。心が洗われる様な美しい所だと思う。  この海は、あの朝俊といた砂浜に繋がっているんだ。もし俊がここへ来て、お父さんと一緒に暮らすことが出来たなら、俊はきっと立ち直ることが出来るのではないかと思う。  海を見つめている亜希子の顔を、気が付くと不安そうに越川が見つめている。亜希子は声を掛ける。 「越川さん」 「はい」 「俊一君は、あの事件を起こしてしまったことを、誰よりもお父さんに悪いことをしたと思って、後悔しているんです」 「そんな」 「私が思うに、俊一君が今も私のところに隠れて、警察に出頭することが出来ないでいるのは、貴方に対して悪いことをしたという罪の気持ちが強いからだと思うんです」 「そんなことを言っているんですか、俊一は……」 「はい」 「そんな……悪いのは私なんです。私が不甲斐ないばかりに俊一にあんな事件を起こさせてしまったんですから。私の方こそ、俊一に謝らなければならないんです」  ああ、来て良かった……どうにか俊を助けてあげたいと思い、世田谷の病院を訪ねるところから始まって、一人で奔走していた苦労が、今やっと報われた気がする。 岸壁に立って遠くを見つめる越川の目にも、きっと希望の兆しが見えているのではないかと思う。 「大学病院にいた頃は、患者さんのことなんて本当に考えている医師はひとりもおりませんでした。皆診療費のノルマや自分の出世のことばかりに気を取られていて、私が医者になったのはこんなことが目的では無かったと、落胆していたんです。でもまさか、将来自分がこんなことになって、ここへ来るとは思ってもみませんでしたけれど、私はここへ来て、本来の自分の目指していた医師としての仕事が見つかった様な気がして、皮肉なことなのですが、私はここの暮らしに生き甲斐を感じているんです」 「俊一君は、そんなお父さんのことをずっと尊敬していて、将来お父さんの様な医者になりたかったって、言ってましたよ」 「……」  亜希子の言葉を聞いた越川は、暫しブルブルと振るえながら、込み上げて来る激情に耐えている様だった。 「私は……情けないことに、妻が怖くて逆らえませんでした。詩織は思う様に俊一の成績が上がらないと、俊一に殴る蹴るの暴力まで振るって、とても厳しく当たっていました。私は、可哀想に思いながらも、どうにもしてやれなくて、私は、私は自分の不甲斐なさを思うと……」 不意に亜希子の手を取って力強く握り締める。 「ありがとうございました……私は、貴方のお陰で希望を取り戻すことが出来ました。でも、私にまたやり直す資格なんてあるんでしょうか。私は、俊一に本当に済まないことをしてしまった。許される筈はないんだ」 「いいえ、俊一君は、今の越川さんの言葉を自分に掛けてくれるのを待っているんです。本当です」 「……」 「越川さん。俊一君と電話で話してあげて下さい。そして、今の言葉を掛けてあげて下さい。お願いします」 「……はい」 「私、今日これから家に帰って、俊一君が出られそうならすぐにでもお電話しますので、俊一君に、何も心配することないって、言ってあげて下さい」 「はっ、はい……」  その後は言葉にならず、越川は涙を流し続けている。  そんな二人を包み込む様に、東京湾の潮騒が、静かに絶え間なく響いている。  越川と分かれてバスに乗ると九重駅まで戻り、また内房線で2時間掛かって蘇我駅まで行き、京葉線に乗り継いで帰る。  検見川浜に着くと夕方だった。スーパーで夕食の買い物をして、マンションへ帰って来る。  俊一は自分の部屋にいる様で、「ただいま~」と声を掛けても出て来る気配もない。  居間に入ると寝散らかしたままの布団が散乱している。亜希子は着替えると布団を押入れにしまい、夕食の準備に掛かる。  食事の準備が出来たと声を掛けると、俊一は黙って出てきて、テレビを着けると亜希子には見向きもせずに食事を始める。  亜希子も黙って食べ、俊一が食べ終わる頃を見計らってテーブルの下に置いておいた携帯電話を取り、越川の番号へ発信して耳に当てる。  亜希子が電話を掛けているのに気付いた俊一がチラッとこちらを見るが、また無関心にテレビの方へ視線を戻す。  亜希子はもう片方の手でテレビのリモコンを取ると消してしまう。 「おい」  と俊一が文句を言いそうになったところで電話が繋がる。 「もしもし、はい、今俊一君は隣にいます」  それを聞いて俊一が驚く。 「はい、今代わりますので」  と言って俊一に携帯電話を突き出す。 「何だよ」 「出て」 「えっ?」 「早く、いいから!」  勢いで亜希子に持たされ、耳に当てる。 「……えっ……」 俊一は相手の声を聞いて驚きの表情を浮かべたかと思うと、顔が赤く充血して行く。 「ご、ごめんなさい、ごめんなさいごめんなさい……」  とんでもない悪戯を見つかった子供の様に何度も繰り返す。 「だけど、でも、お父さん。僕は……」  涙を浮かべたかと思うとボロボロと零し始める。  越川が思いつく限りの優しい言葉を俊一に掛けているのだろう。そして俊一を許すと言い、自分が悪かったという旨を伝えているのだ。 「本当? 本当なの? ねぇお父さん、本当に僕を許してくれるの? 本当に……うっ、うう……」  俊一の肩が強張ってブルブルと震えている。子供の様にしゃくり上げながら言葉を繋ごうとするのだが、言葉にならず嗚咽を漏らしてしまう。亜希子は俊の背中を優しく摩ってあげる。 「うん……うん分かったよ、分かったよ、そうするよう、約束するから……僕約束するから……」  泣いてブルブルと震え続ける肩を抱きながら、俊の手から携帯を取る。 「もしもし、越川さん」  電話の向こうで越川も泣いている。 『ううう……ありがとうございました。いま俊一と話しまして、今度亜希子さんに連れて来て貰って、私とこれからのことを相談しようねと、約束することが出来ました』 「分かりました。こちらも俊一君が落ち着いてから、お父様にお会いする日取りを決めて伺いたいと思いますので、宜しくお願いします」 『こちらこそ、本当にどうも、ありがとうございました。ありがとうございました……』 「それでは、また御連絡しますので」  と言って電話を切る。俊はまだ涙が止まらずに泣き続けている。 「うう……信じられないよう……お父さんが、父さんが許してくれるって、ボクのこと許してくれるって言ってくれた……」  腰にすがり付いて来る俊の頭や肩をいつまでも擦って上げる。俊は時々しゃくり上げながら、いつまでも泣きじゃくっている。 手を延ばしてティッシュを取り、涙が伝う俊の頬をそっと拭ってあげる。 「良かったね、俊」 「うん……」  何故勝手にお父さんと連絡を取ったりしたのかと、責められるのではないかとも思っていたのだが、そんな心配は全くなかった。 その時から俊は、まるで別人の様に神妙になって、亜希子が何を言ってもウンと頷いて、言うことを聞く様になった。  それは俊を匿い始めた頃の様で、今更ながら俊に対する愛おしさが込み上げて来る。でももう近いうちにお父さんの元へ返さなければならないんだ……と思うと寂しい気持ちも起きてしまう。  嫌、もうそんなことを考えていてはいけないんだ。と自分の気持ちは無視する様にしようと思う。  その夜は何週間振りかに俊と抱き合って眠った。    3 二度目の痛みが襲ったのは、その翌日会社に向かう電車の中だった。  人ごみの中で揉まれながら、あの時と同じみぞおちの辺りで、何か異物が転がっている様な感覚がある。  アッと思う間もなくそれは痛みに変わって、キリキリとした痛みが身体を突き抜けて腰の裏側へと広がって行く。 「うっ……」と声が漏れてしまいそうになりながら前屈みになって腰を押さえる。  12年前の府中駅での様に、蹲ってしまうくらい痛くなったらどうしようと思い、じっと耐えていると、少しして波が引いていく様に治まって来る。  ホッとしてそのまま会社へ向かったが、こうなっては一度病院へ行って診て貰わなければならないと思う。 仕事が終わってから、夜遅くまでやっている近くのクリニックを訪ねる。  医師に症状を告げると、お腹のレントゲン写真を撮ってみることになった。  レントゲンの部屋へ入り、衣服を脱いで上半身ブラジャーだけになり、撮影台に乗ると左右に付いている手すりを持ってアクリル板に向かう。  隣の部屋から医師の声がする「はい、息を吸って……止めて下さい」カシャッと音がして「はい結構です」。  服を着て待合室で待っていると暫くして名前を呼ばれる。  医師は大きな白黒のレントゲン写真を手に亜希子に説明する。 「見たところ特にはっきりした異常を確認することは出来ないんですが」 と言って医師は亜希子のお腹に手を当てて押してみたり摩ってみたりするのだが、特にしこりがあると感じることは出来ない様だった。 「それと、倉田さんは以前に子宮の摘出手術を受けていますか」 「はい」 「それはどんなご病気で?」 「卵巣に腫瘍が出来て、悪性だったものですから、手術して子宮と片方の卵巣を取りました」 「そうですか、腹部の場合は何か新しい腫瘍が出来ているとしても、レントゲン写真だけでは正確に判断することは難しいんですよ。でもそう言う事情でしたら早急に設備の整った病院で検査をされることをお勧めします。私の方から紹介状を出しますので、明日にでも伺ってみた方が良いと思いますよ」  と言って国立病院への紹介状を書いてくれた。 12年前……府中駅のホームで倒れて、救急車で搬送されて、八王子の大学病院で片方の卵巣と子宮の摘出手術を受けた。 あの腫瘍が再発したんだろうか。紹介された病院に行って検査を受ければ、そのまま入院ということになってしまうかもしれない。  そんなことになれば、マンションから一歩も外へ出られず、食べ物を買いに行くことも出来ない俊一は生活出来なくなってしまう。 俊をお父さんの元へ引き渡すまでは、入院なんてしてられない。急がなくちゃ……。  いつもの公園で越川に電話を掛け、俊一を引き合わせる日時と場所を相談する。越川はまだ最初は誰にも見られない所で、三人だけで会う様にした方が良いと言い、亜希子もその方が良いと思う。  日時は3日後の木曜日に診療所での勤務が終わってから、場所は越川が適当な所を探して連絡するということになった。  亜希子が帰って来ると、俊一は部屋の中を綺麗に掃除している。今まで散乱していた板の間の部屋も、綺麗に整頓されている。 「綺麗になったね」と言うと「うん……」と言ったまま俯いて黙ってしまうので「どうしたの?」と聞くと、俯いたまま消え入りそうな声で「今まで……どうもありがとうね」と言う。  黙って俊の身体を抱いて、腕にギュッと力を入れると、俊は亜希子の胸に顔を埋める。  水曜日になって越川から連絡が来た。明日は亜希子が診療所を訪ねた時に降りたのと同じ、内房線の九重駅まで、俊を連れて夜の8時に来て欲しいと言う。 夜8時に九重駅へ着くとすると、会社が終わってからでは間に合わない。木曜日亜希子は身体の調子が悪いので病院へ行くと言って、午後は早退して帰って来た。  そしてここへ引越して来た時の様に俊に変装させる。  越川のところへ行くまでに発見されるという心配はそれ程ないとは思うけど、誰にも邪魔されずに越川と会うことが出来るまでは、責任を持って俊の安全を守らなければならない。 九重駅までは2時間半くらい掛かってしまうので、約束の8時から逆算して、夕方の5時にマンションを出ることにする。  俊を連れてエレベーターのある中央までの通路を歩く。誰にも見られなかった。下から上がって来たエレベーターが扉を開く、誰も乗っていない。  エレベーターに乗って1階へ降り、道路へ出たところで帰って来た男の人とすれ違ったけれど、特に亜希子たちの方を気にする様子はなかった。  駅へ近付くと人の数も増えて、そのまま紛れる様にして切符を買うと、京葉線の蘇我方面行きの電車に乗る。まだ通勤ラッシュの時間には早いのか、電車はそれ程混んでもいない。  蘇我駅に着くと、外はもう暗かった。内房線に乗り換える。電車はガラガラでまばらにしか乗客はいない。  俊は黙りこくったまま俯いて座っている。少女の様な横顔を見ながら亜希子は思っている。もうこれで、きっと俊とはお別れなのだろう。でも、これで良いんだ。  俯いていた俊が亜希子の顔を見て言う。 「ねぇアキコ、僕、やっぱり行かなきゃダメかな?」 「……何言うのよ」 「ダメだよね、お父さんが待ってるんだから」 「そうだよ、これからは私じゃなくてお父さんがいるんだから、お父さんが力になってくれるんだから、元気出して一緒に頑張るんだよ」 「……」 「ねぇ俊、まだこれから辛いこととか大変なこともあるかもしれないけど、俊はとても優秀なんだから、これから頑張って絶対お父さんみたいなお医者さんになるんだよ」 「……うん」 「きっとだよ、それだけは約束して欲しい」 「うん」 「いつも心の中で俊のこと応援してるからね……これで何年も会えなくなるかもしれないけど、出来たら私のことも忘れないでいてね」 「うん……」  でも、俊はこれから越川に引き取られて警察に出頭し、罪を償い、自分の夢に向かって頑張って行くうちに、きっと亜希子のことは忘れてしまうだろうと思う。それでも仕方無いと思う。  俊は俯いてポケットからハンカチを出すと目を拭う。そして「今までどうもありがとうね」と言う。  肩を抱いて頭を撫ぜていると亜希子の方に顔を上げる。涙で濡れた瞳を見つめながら、亜希子は顔を寄せてそっとキスする。  俊の身体が小刻みに震えているのが分かる。 「大丈夫だよ、俊。心配ないよ、頑張ればきっと俊だって、お父さんみたいに立派なお医者さんになれるんだから、ね」 「うん……」  海が近くなると窓の外は真っ暗になった。ガタンガタンと線路の音だけが響く。  蘇我駅から2時間掛かって電車は九重駅へ着いた。時間は8時5分だった。  駅を降りると辺りは真っ暗で、ただでさえ無人駅なところへ降り立ったのは亜希子と俊の二人だけだった。電車が走り去ってしまうと辺りは静寂に包まれる。  こんな遅い時間にこんなところまで来てしまって、帰れるだろうかと思うけど、時刻表で10時前の最終電車に間に合えば、検見川浜まで帰れることを確認してある。  駅前の車道を横切る車も殆ど無い。二人きりで暗い駅前の広場に立つ。何処から越川が現れるのだろうと辺りを見回していると、亜希子の携帯が鳴る。『越川康弘』と言う発信者名を確認して耳に当てる。 『駅へ着きましたか?』 「はい」 『では駅前の道を左にまっすぐ進んで下さい。少し行くと道が線路に近づいて渡れるところがありますから、渡ったら左に曲がって下さい。そこから駅の裏側に向かって道がありますから、道なりに進んで、そのまま森沿いの細い道に入って下さい』 「分かりました」  越川の指示に従って俊と二人歩いて行く。駅を離れると街灯も無く、一層暗くなってくる。線路を渡ると道は田圃の中を突っ切る様になり、森が近づくと虫の声が大合唱になって辺りを覆ってくる。  携帯を耳に当てたまま歩き、越川の道案内を聞く。 『そのまま暫く行くと左側にトタン屋根の倉庫が見えてきますから、そこへ入って下さい』  暗いあぜ道を歩いて行くと、草木に囲まれた中にそれらしい建物が見えてくる。 周りは鬱蒼とした木々が生い茂り、付近には明かりのついている家もなく、恐ろしいくらい寂しいところだった。見ると建物の前に白い乗用車が停まっている。車の中には誰もおらず、倉庫の中へ入れと言う指示なので、入り口へと向かう。  壁にかすれた文字で「……倉庫」と書かれているのが辛うじて読める。明かりも点いていない様だ。  凄いところだな、と思いながら入り口の扉をスライドさせて開く。中は真っ暗で何も見えない。 「越川さん?」  と呼び掛けてみる。返事が無いので中へ入り、暗闇の中を歩いて行く。 「越川さん?」 「ここまで誰にも見られずに来られましたか?」  急に声がしたので驚いて辺りを見回す。 「……はい、大丈夫です」  ピカッと近くから懐中電灯の光が向けられて目が眩む。  ズザッと近付いて来たかと思うとドカッと音がして、隣にいた俊の頭が仰け反り後ろに引っくり返る。 「何だと思ってんだこのクソガキ! テメェのやったことが分かってんのか!」 倒れた俊の顔や身体をドカドカと上から踏みつけにする。  何が起こったのか分からなかった。 「わぁーん」  俊が泣き声を上げる。 「ただじゃ済まねぇからなこのガキが、ぶっ殺すぞコラァ!」 「何をするんですか! 誰なんですか貴方は!」  叫んだ亜希子には見向きもせずドカドカと俊を踏みつけにする。 「ごめんなさいごめんなさい、痛いよう、叩かないって約束したじゃないかぁ、わぁーんやめて、やめて下さい痛いようー!」 「ちょっと貴方どう言うつもりなんですか」 「煩せえぞこのクソが!」  振り向き様に凄い勢いで越川の腕が亜希子の顔を殴打する。衝撃によろめいて横様に倒れる。 「よくも人の息子を慰み者にしてくれたな、犯罪者だから逃げられないと思って弄んでたんだろうが! テメェのしたことは犯罪なんだぞ、分かってんのか!」  と言いながら倒れた亜希子から携帯を取り、両手で二つに引き千切る。  何が起こっているのか理解出来ないまま、殴られたショックで意識が朦朧とする。 「もぅ、もぅぶたないって、約束したじゃないかぁーうううううう……」  俊が子供みたいに泣きじゃくっている。 「何言ってんだテメェ、よくもやってくれたな! お前のせいで俺がどんな目にあって来たと思ってんだ! ふざけた真似しやがって、絶対に許さねぇからな!」  俊の身体を引きずり起こし、片手を振り上げたかと思うと凄まじい勢いで殴りつける。  バカンと音がして俊の顔が取れてしまったのではないかと思うくらい、弾かれて倒れる。 「やめて下さい~ごめんなさいごめんなさい、許してっ、許して下さい~お父さんごめんなさい……」  転げ回って哀願する俊一のことを越川は全く容赦しない。 「やめてっ、ああっ、ひどい、ひどいそんなことしないで」  倒れたまま亜希子も必死になって言う。 「ふざけんじゃねえぞこのクソ女が!」  懐中電灯がこちらを向いたかと思うと、身体を起こそうとした亜希子のお腹を蹴ってくる。靴の先がめり込む。 「うぐっ……」  身体を曲げて蹲ったまま悶絶して声も出なくなってしまう。 「欲求不満のバカ女が、よくも俊一をおもちゃにしてくれたな、散々慰み物にしといて、結局始末に困ったから俺に押し付けようとして来たんだろうが、俊一の将来の為だとか何だとか調子のいいこと言いやがって! このクソが!」  亜希子を罵るその口調を聞いた時、思い出した。初めて俊一が亜希子のアパートに侵入した時、亜希子を縛りながら殴る蹴るの暴行を加えて来た時。俊一の口調はコレと同じだった。  あの暴力は父親の影響だったんだ。目が覚める思いだった。そして朦朧としていく意識の中で、取り返しのつかないことをしてしまったと知った。 「もう二度と俺たちの前に姿を現すなよ、俊一は俺が警察に連れて行く。いいか、お前のしたことは犯人隠匿と言う立派な犯罪なんだからな、未成年者をたらし込んで、自分の思い通りにしてたんだろうが……」  と倒れたままの亜希子の顔を踏みつけにする。顔が変形してしまうと思うくらいギュウギュウ踏みにじる。 「うっ、うう……」  何か言わなくちゃ、殺されると思って「ごめんなさい」と言おうとするが、靴の裏で顔が潰されて言葉を発することが出来ない。 「もしまた俺達に関わってきたらお前も警察に突き出してやるからな、そしたらお前も捕まって刑務所行きだぞ、お前の人生もムチャクチャにしてやるからな、分かったか!」  亜希子の顔から足を離すと倒れている俊を引きずり起こす。  俊の口元は血だらけで鼻が曲がってしまっている。  微塵も動くことの出来ない亜希子を残し、血みどろの俊一の胸倉をつかんで、そのまま出口の方へ引き摺って行く。 意識を失っているのか、俊の身体は死体の様になされるまま、ボロボロの人形みたいに引き摺られて行く。 そのまま外へ出て行く。やがて外で車のドアが開け閉めされる音がして、エンジンが掛かり、走り出したかと思うと遠ざかって行く。 どっちの方へ走って行ったのかも分からない。車の音がしなくなると、辺りは闇に包まれて、開け放しにされた入り口から外の明かりが仄かに入って来るだけになった。木々の間から虫の鳴く声が急に音量を上げた様に響いて来る。  地面に突っ伏したまま顔全体がズキズキと痛む、身体が小刻みに震えている。まるでお腹がえぐれてしまったかの様に痛い、寸分も身体を動かすことが出来ない。虫ケラの様に這いつくばった亜希子には、もう何の存在感も無い。何がどうなったのかということよりも、ただひたすらに恐い。 その後どうやって帰って来たのか、定かには思い出せない。暫くして暴力を振るわれた衝撃が治まり、ようやく立ち上がると汚れた服を払い、ヨタヨタしながらも駅まで辿り着いて、調べておいた帰りの最終電車に乗ったのだろうと思う。  電車はガラガラで、無人の駅からひとり乗って来た亜希子の顔を見る人などはいなかっただろうけど、見ればきっと目立つ程顔が傷になっていると思い、なるべく前髪を垂らして俯き加減で座っていた。  そして蘇我駅で京葉線に乗り換えて、検見川浜に着いてからもただ呆然としながら、ヨタヨタと歩いてマンションまで辿り着いた。  さっきの出来事が悪夢であったかの様に頭が朦朧としている。気が付くと身体が小刻みに震えている。洗面所で鏡を見ると顔の半分が擦り剥けた様に赤くなって、片目が真っ赤に充血している。 服を脱ぐと脇腹が大きく紫色に腫れあがっている。  お風呂に入って、そっとぬるめのシャワーを浴びる。脇腹は骨が折れているのか、少しでも動かすと酷い痛みが走る。まだ訳が分からずにいる。身体の中から込み上げる物があって、肩を引きつらせながらタイルの上に嘔吐する。    4  翌朝会社に具合が悪いから休むという電話を掛ける。  殴られた顔が一層腫れ上がって酷い有様になってきた。今日は金曜日なので、そのまま続けて週末の3日間は休んでいることが出来る。  頭の中はまだ何も考えられないまま、氷で顔を冷やす。脇腹には氷水で絞ったタオルを当てておくことにする。 その他は軽い擦り傷だけなので、脇腹の骨が折れてさえいなければ、病院へ行かなくても済むのではないかと思う。  だが、心の中はもう何者にも立ち向かうことが出来ない恐怖に埋めつくされている。  目を閉じても閉じなくても否応無しに浮かんで来るあの怒りに満ちた形相……あの温厚で誠実だった越川医師が……本当に同一人物だったんだろうか、始めは何かの罠で、誰かが越川の代わりに待ち伏せしていたのかと思った。テレビに出てくる暴力団の人かと思った。   翌日の土曜日になっても惚けた様にただ目を見開いて横になっている。  しんとした部屋。綺麗に整理された俊の部屋。時間だけが流れている。昨日からカーテンが開いたままの外では陽が沈み、今朝また明るくなって、やがてまた暗くなって行く。  日曜になっても何も食べたいとも思わない。ヨロヨロと歩くことは出来るけど、外へ出ようという気は更々起きない。布団に蹲ったまま、殆ど微動だにせずに何も見えていない目を開いている。 プルルル……不意に電話が鳴ってビクリとする。受話器を取る気力も無く、そのままでいると留守電に切り替わり、応答用の亜希子の音声が流れる。 「はい、倉田です。ただ今留守にしております。発信音の後にメッセージをお入れ下さい」  ピーッ……。 『……』  プツッ……相手は何も言わずに電話が切れてプーッ、プーッと不通音が続く。 「午後2時16分です……」 夜になって大分腫れも引いて来たので、傷跡をどうにかファンデーションで誤魔化せば明日は会社へ行っても大丈夫だろうと思う。けど行くことは出来ないと思う。 この近くに越川が来るなんてことは無いだろうけれど、もう一歩も外へ出ることは出来ない。人という物が恐ろしくて、身体中が萎縮してしまっている。人が映っていると思うとテレビさえ点ける気になれない。  月曜日の朝になっても、亜希子はそのままの状態で布団に横になっている。  プルルル……電話のベルが鳴り出す。応答用の亜希子の音声が流れる。 「はい、倉田です。ただ今留守にしております。発信音の後にメッセージをお入れ下さい」  ピーッ……。 『もしもし? 倉田さん?』  小石さんの声だ。 『お早うございます。まだ具合悪いのかしら、電話に出られないようだったら病欠扱いにしておくから、心配しないでね、お大事になさって下さい、連絡出来る様でしたらお電話下さい……』  電話が切れてプーッ、プーッと不通音が続く。惚けたまま宙を見つめている。 「午前9時11分です……」  そのままずっと、夜まで寝たままでいる。 そして夜が明けて、外が白くなり、鳥の声がして、やがて子供たちの遊ぶ声や、遠くから近づいて来て飛び去って行く飛行機の音が聞こえる。 今朝は電話が鳴らなかった。きっとまた休むだろうと予測して、小石さんは電話して来なかったのかもしれない。  昼頃にまた一度電話が鳴ったが、相手は亜希子の応答メッセージの後、何も言わずに切ってしまった。  やがてまた陽が傾いて、部屋の中も暗くなる……。  経堂のアパートで俊に監禁されていた時は、三日も仕事を休んだら職場の人たちに迷惑を掛けてしまうと思って心配したけれど、今は気にもならない。というよりも今の亜希子には、何かを思うべき気力さえ無くなっている。 あの四畳半の板の間にいつも篭もっていた俊がいない、あの日から俊は影も形も無くなってしまった。  アレは幻だったのか、経堂のアパートで起こったあの出来事も、事件のことも、しばしの日々を過ごした俊とのことも。全ては夢だったというのか。 夕方また電話が鳴る。 「はい、倉田です。ただ今留守にしております。発信音の後にメッセージをお入れ下さい」  ピーッ……。 『もしもし? 亜希子? お母さんです、亜希子? いないんですか、会社にお電話したら先週から休んでますって言われたんだけど、大丈夫なの? もしもし、もしもし……』  電話が切れてプーッ、プーッと不通音が続く。 「午後6時6分です……」  お母さん……そうだ。金曜からこうしてもう5日目なんだもの、もういい加減に起きて、やることをやらなくちゃ……。  と思って起き上がろうとした時、腹部に強烈な痛みが走って再び寝転んでしまう。  それは越川に蹴られた傷の痛みではない、それはきっとあの、亜希子のお腹に巣食っている異物の発する痛みだった。  もうハッキリと自覚している。あの朝府中駅で亜希子を襲ったのと同じ病魔が、また身体の中を蝕んでいるに違いないんだ。 立つことが出来ずに呻き声を上げて転がっていると、そのうちに意識を失ってしまった。  あれからどれくらいの時間が過ぎたのだろう……意識が朦朧とする中で強烈な痛みにのたうち、苦し紛れに何度か嘔吐して呻き声を上げていたような気がする。  その度に昼だったり夜だったりして、脳裏には血みどろになって越川に殴られている俊の姿が浮かぶ、その中で亜希子は声にならない叫びを上げている。 身体が衰弱し切ってどこにも力が入らない。このまま死んで行くんだろうか。それでもいいと思う。むしろその方が安らかになれる気がするもの……。  夢うつつの中で、誰かがドアの鍵を開けて、ドタドタと入って来た様な気がする。隣の部屋だろうかと思ったけど「亜希子、亜希子」と呼ぶ声がして、どうやらそれがこの部屋で、入って来たのがお母さんかもしれないと思った。    5  ピーッ、ピーッ……規則的になり続けている電子音に気が付いて目を開けると、透明な管を垂らしている点滴のバックが見える。点滴は反対側にも立っていて、それぞれから垂らされた管の先が腕の内側に刺さっている。  身をよじろうとすると鼻の穴に管が差し込まれていて、口には酸素マスクが当てられている。人差し指が大きな洗濯バサミみたいなので挟まれて、そこからコードが繋がっている。足首にも何かの管が付けられてるみたいだ。股間にも管が差し込まれてる。これは尿管というんだろうか。  ピーッピーッと絶え間なく響いていた音は、心拍数を示す機械のアラームだった。そこから伸びた導線が胸に貼り付けられている。  虚ろな目でそのままボンヤリしていると、看護師が来て亜希子の顔を覗き込む。 「気が付かれましたか、そのまま安静にしていて下さいね」  これじゃ安静にしてるより他はないと思うけど、どうなっているんだろう……マンションで意識を失ってから、一体どれくらいの時間が過ぎたのだろう。 身体の痛みは無くなっているけれど、全身が脱力してしまって、何処にも力が入らない感じだ。私の身体はもう、口に当てられたマスクから空気を送って貰わなければ呼吸することも出来ないんだろうか。繋がれている無数の機械によってしか生きることが出来なくなってしまったんだろうか。  ベッドの脇に窓がある。寝たままでは見えないけど、外は明るいみたいだ。 程なくして看護師に連れられてお母さんとお父さんが来た。 「亜希子、もう大丈夫だからね」  心配そうに亜希子の顔を見つめる母を見て、ゆっくりと頷くと目尻から涙が滴って行く。  亜希子が言葉を発しようとしているのを見て、看護師が口に当てられたマスクを外してくれる。 「ごめんなさい」  そのまま声を上げて泣き伏してしまいたい衝動に駆られるけど、それも許されない程に身体の自由を奪われている。  検見川浜のマンションから亜希子が担ぎこまれたのは、東京湾の海辺に建つ救命医療センターという大きな病院だった。 「亜希子、ビックリしたのよ。身体の調子が悪いのに自分で気付かなかったのかい?」 「うん……」  担当した医師の話では、気を失っている間にCTスキャンを撮った結果、肝臓に腫瘍らしい影が出来ているとのことだった。  亜希子の場合、12年前の病歴からそれが悪性である可能性が高いので、早急に手術をする必要があるのだという。  ついては12年前に亜希子の手術を担当した菅橋医師のいる八王子の病院へ、容態の安定を待ってから転院することになっているらしい。 「菅橋先生に連絡したら、すぐにでも手術出来る様に日程を開けておいてくれるそうだからね。心配しなくても大丈夫だからね」 「うん……」  あの日母さんは亜希子に連絡を取ろうとしていたのだが電話が繋がらず、心配になって会社へ問い合わせてみたところ、数日前から病欠だというので検見川浜のマンションを訪ねてみたのだという。ところが呼び鈴を押しても反応が無いので、止む無くマンションの管理会社に連絡を取って鍵を開けて貰ったということだった。 あの何度か掛かって来た電話は母さんだったんだ……。 「それより亜希子、お部屋を見たら、誰かと一緒に暮らしてたみたいだけど、その人はどうしてるの?」  と言われてドキーとする。 「まぁそんな話はまた後でいいじゃないか」  と父さんが言う。 「うん、喧嘩して、出てっちゃって、それっきりだったから。私が倒れたのはその後だったから」  と咄嗟に取り繕って言い訳する。 「だけどお前、少し顔に傷があったけど、暴力でも振るわれてたんじゃないのかい?」 「違うよ」 「レントゲンだと肋骨にもひびが入ってたっていうじゃないか」 「それは……急に苦しくなった時、倒れて打ったからだと思う」  こんな時でもよくスラスラと言えるものだと思いながら、普通に口にしている。 「本当にそうなのかい?」 「当たり前じゃない、暴力を振るう人なんかと付き合わないって……」 「それなら良いけど……」 「……」 「身体が疲れるといけませんので、今日のところはこの辺で、もう意識が戻りましたので、徐々に沢山お話出来る様になると思いますので」  と看護師に促され、父と母はまた明日来るからと言って帰って行く。  これから二人で八王子まで帰るのかと思うと、こんなに心配を掛けて、私は何て親不孝な娘なのかと、今更ながら心苦しくなってしまう。 暫く病室に一人きりで放置されていたかと思うと、夜になってまた先ほどの看護師が機械の表示をチェックしに来て、点滴の袋を取り替える。また痛み止めの注射をしてくれて、座薬を入れるので横向きになってお尻をこちらに向けて下さいと言う。恥ずかしがっている状況でもないので黙って言う通りにして、座薬を入れて貰う。 痛み止めのお陰であの痛みから解放されているのかと思うと、とてもありがたいと思う。  看護師さんに頼んで、窓のカーテンを開けて貰い、外が見られる位置までベッドの背を起こして貰うと、窓から遠く真っ黒な海が見える。  ここは東京湾のどの辺なんだろうか、あの日、俊と抱き合った朝のことが遠い昔の様に思い出される。  私の身体はどうなってしまってるんだろう……また元の様に歩いたり出来る様になるんだろうか。  担当の先生によればどうやら容態は安定しているということなので、明日八王子の大学病院の医療センターへ転院することになった。  朝になって、脈拍や血圧や体温をチェックしに来た看護師さんに頼んで、ベッドの背を上げて貰う。少しで良いので窓を開けて下さいと頼むと快く開けてくれた。  朝の東京湾が青く見渡せる。潮の匂いも舞い込んで来る。  ……12年前、八王子の病院で手術を受けてから数ヶ月置きに5年間も検査に通ってた。行く度に血液を採ったり、エコー診断やCTスキャンを撮って身体の中を調べて貰っていた。  あの頃、検査に行く度にまた恐いことが起きるんじゃないかと心配だったけど、5年目の検査が終わったところで主治医の菅橋先生から「ここまで異常がなければ心配はないでしょう。完治したと思って大丈夫ですよ」と太鼓判を押されていたのに。  あの病院へは二度と行くことは無いと思ってたのに。忘れた頃にまた振り出しに戻ってしまう気がする。  この街で過ごした俊との生活は幻だったんだろうか……と思うけど、窓の外に広がっているあの海は、決して幻なんかじゃない。  欲求不満のバカ女が!  越川の罵声が耳に残っている。 『……よくも人の息子を慰み者にしてくれたな、犯罪者だから逃げられないと思って弄んでたんだろうが! テメェのしたことは犯罪なんだぞ、分かってんのか!』  殴られてひっくり返った時、バチが当たったと思った。私は17歳の俊君を慰み者にしていた。犯罪者を弄んで楽しんでいたんだ。  越川の言う通り、世間から見ればそれは立派な犯罪だった。犯人隠匿ということだけではなく、未成年者に対して猥褻行為を働いたという、青少年を保護する法律にも違反するのだ。  だけど……あれが本当に、あの優しく誠実の塊の様だった越川の言葉だったんだろうか。心から息子のことを心配して、自分が情けなかったと涙を流して反省してた。私にあんなに感謝してたのは全部嘘だったというのか。  越川はあの時初めて俊一を殴ったんだろうか。いや、あの様子からしてそうではないと思う。あの男は俊が詩織さんを刺して逃げるよりもずっと前から、日常的に暴力を振るっていたのではないか……。  あの夜ひなびた倉庫で越川に殴られた時、俊が『もう叩かないって約束したじゃないか!』と言ったのは、きっと電話で越川と話した時に、もう叩かないと越川が俊に約束していたからだと思う。俊が電話で号泣したのはそんな越川の優しい言葉があったからなんだ。でもそれは俊を安心させて自分の元へ来させる為の嘘だった。  俊が怖がっていたのは警察でも世間でもない、父親のことだった……。俊は誰よりも父親に見つかることの恐怖に怯えていたんだ。俊……何故私に本当のことを言ってくれなかったの? それはきっと幼い頃から父親への恐怖に浸かって生きて来たので、他人にはそんな父親の正体を語れないくらい心身共に支配されていたからではないだろうか。  だとしたら越川は詩織さんと一緒になって俊に暴力を振るっていたのか? 俊は両親二人ともから教育という名の虐待を受けていたというのか?。  ずっと引っ掛かっていた俊の言葉がある。あの時経堂のアパートで詩織さんのことを『グズでノロマなババアだった』と罵ったことだ。報道されていた様に俊が詩織さんのことを鬼の様な母親として恐れていたのだとしたら、あの言葉には違和感がある。  俊は越川と詩織さんの二人ともから暴力を受けていたのではなく、暴力を振るっていたのは越川だけだったのではないだろうか。詩織さんは日進市の実家で見た遺影の印象の通り、清楚で物静かな女性だったのではないだろうか。詩織さんのお母さんが言った通りの、子供を叩いたりするはずのない優しい人だったのではないだろうか。  俊を殴っていたのは越川だけで、詩織さんは俊からグズでノロマなババアと罵られていた……。  越川と詩織さんが結婚したのは純粋に恋愛を経てのことだったという。でも、詩織さんの両親に結婚させて下さいと何度も頭を下げて頼みに来た越川の本性は、詩織さんの御両親が見抜いていた通り、本当に詩織さんを愛しているというのではなく、詩織さんの実家の総合病院に惹かれていただけだったのではないだろうか。その偽りの愛に詩織さんは騙されてしまった。  お嬢様育ちの世間知らずで、ひたすら朗らかで、無力で何も出来なかった詩織さん。患者思いでお年寄りから「ヨイ先生」と慕われていた。そんな詩織さんは、実家の総合病院が目当てだったとも知らずに、自分にここまで恋焦がれてくれるのかと思う越川の猛アタックに絆されて、親を裏切ってまで結婚してしまった。  越川を見てそのことを見抜いていた詩織さんの両親は、強引に結婚した越川には何一つ親族の恩恵を与えなかった。言わば詩織さんを勘当した様な形にして、越川が何を申し入れて来ても一切の接触を断った。そして越川はもうどうにもならないと悟ると、詩織さんの両親に対して憎悪を抱く様になり、それは反転して俊一にエリートコースを強要する厳しい教育になった。  亜希子が縛られて失禁してしまった時、俊一は亜希子のパンツをタオルで拭いてくれて 『僕も小さい頃ね、夜中にオネショした時、よくお父さんがこうやって拭いてくれたんだよ』と言った。まだ俊一が幼年の頃までは越川も人並みの優しいお父さんだったのではないだろうか、そう……まだ詩織の実家に喰い込んで甘い汁が吸えるかもしれないと思っていた間は。  俊一に猛勉強させて将来は大病院の院長になるなり大学病院の教授になるなりさせて、詩織の親族に負けない権威を習得させるべく厳しく当たった。それはもう教育と呼べるレベルではなく、虐待だった。越川にとって俊は詩織さんの親族に対するコンプレックスを晴らす為の道具であり、俊自身の意思などはどうでもよかったのだ。  あの誠実そうな越川はあくまで世間へ向けての演技だった。越川に取材して『私は息子を殴る鬼の様な妻を止めることが出来ない不甲斐ない父親でした』というあの週刊誌の記事を書いた記者も、すっかり騙されていたんだ。越川は外では周りに気をつかい、全てに媚び諂ってペコペコ頭を下げて、仕事熱心で誠実な医者というイメージを作り上げていたのだ。  でもきっとあの誠実で真面目な一面も、あの男の一部分なのではないかと思う。俊が『お父さんみたいな医者になりたい』と言ったのは、その部分だけを尊敬し受け継いで行きたいと思っていたからではないだろうか。  外では誰に対しても誠実で職務に忠実な越川の腹の中は、実は世間に対する劣等感で煮えくり返っており。その怒りは全て家に帰った時詩織さんと俊一に浴びせられていた。  立場の低い仕事での鬱憤、詩織さんの親族への劣等感を全て俊一を出世させることで晴らそうとしていたのだ。  家に帰ると成績が上がらない俊一を殴る。妻の詩織さんを奴隷の様に扱う。俊一にも詩織さんを自分と同じ様に扱う様に仕向ける。  俊が詩織さんのことを『グズでノロマなババア』と言ったのは、きっと越川が普段から詩織さんのことをそんな風に罵倒していたからではないのか。きっと俊一はそんな越川の言葉を子供の頃から聞かされていたんだろう。  俊は四六時中そんな越川の顔色を伺っていなければならなかったに違いない。そして常に越川の言葉に同調して、越川が詩織さんのことをババアだと言えば、俊も一緒になってババアと言って越川のご機嫌を取る……。  そして俊は越川に殴られたり理不尽な思いをさせられると、その不満を無抵抗な詩織さんに辛く当たることで晴らしていたんじゃないだろうか。それはまだ無力な子供にしてみれば無理からぬことだったのかもしれない。そうなるより仕方がなかったのだ。  そうやって俊の人格は壊されてしまったのだろう。そこには俊一本人は全くいない。本来の俊一は存在を認められず、透明人間の様になっていた。まだ子供だった俊一にはそのことに自分で気づくことさえ出来なかった。でも亜希子は知っている。本当の俊一はあの亜希子の描きかけの絵を鮮やかに完成させてくれた、笑顔の可愛いあの俊一なのだ。  心の奥底では子どもらしく母親に甘えたいという衝動もあったに違いない。そのことは私が身をもって感じさせられた。でも可哀相に、家庭では父親という暴君の力が絶対だった為に、俊のそんな心を抑圧し、父の恐怖によって母を蔑む様に仕向けられてしまっていたんだ。  俊一が詩織を刺して逃亡してしまい、全てを失った越川は、詩織が鬼の様に俊一に厳しくしていたことにして、世間に言い訳した。  越川があの辺鄙な診療所に勤務しているのは、今の状況から身を立て直す為には更に世間に媚を売って卑屈に生きて行くより他に仕方なかったからなんだ。  周りの全ての人のご機嫌を取って。誠実に頑張っている振りをして。息子の犯した事件は自分に責任があると言いながら、悪いのは全て詩織さんのせいにしていたんだ。  そして越川の胸の内は、自分をこんな境遇に貶めた俊に対する怒りで煮えたぎっていた。  それがあの時爆発した。俊の身体がバラバラになってしまうかと思うくらい殴って、蹴って……ああ、どうしてあんな酷いことが出来るの……。  その光景が蘇って亜希子は顔を覆ってしまう。  あの怒りに満ちた越川の形相、止めようとした亜希子を振り向き様に殴りつけた衝撃が蘇ると、身体中が震え慄いてしまう。何の躊躇も手加減もなく、渾身の力を込めた大人の男の怒りが、私の顔にぶつけられた。  あの後、越川は俊を車に乗せて何処へ連れて行ったのだろう……警察に出頭させると言っていたけれど、もしかして俊はもう死んでしまって、何処かに埋められているのではないだろうか、恐ろしい想像が湧き上がって来る。  病室の窓の外には、ただ青い東京湾の海が広がっている。俊……貴方は無事でいるの? それさえも確かめることは出来なくなってしまった。  病室で昼食をとった後、父さんと母さんが来た。これから看護師さんにも付き添って貰い、病院の救急車で八王子の大学病院まで搬送して貰うことになっている。  ベッドを降りて車椅子に乗り、看護師さんに押して貰い病室を出る。  両親に付き添われながら病院内を移動する間も、亜希子の頭は俊を巡る考えに満たされている。  ……俊が何故詩織さんを蔑む様になってしまったのかは理解出来たけど、それでも亜希子には、俊が詩織さんを刺した時、実際の状況はどうだったのか、確かなイメージを浮かべることが出来ない。  俊が詩織さんを刺したのは、越川に対する恐怖が大きすぎて、その歪んだ捌け口にしていた詩織さんへの八つ当たりの度が過ぎて、刺してしまったということなんだろうか? 多分そうなのだろうとは思う。  そもそも詩織さんは何故そんな夫から逃げなかったのか、それは実家に戻ることを許されなかったということもあるだろうけど、何よりも俊の側から離れられなかったからではないだろうか。  俊一を連れて実家に戻ることも許されなかった詩織さんには、越川に従順に従うことでしか、俊一を守ることが出来ないと考えてたんじゃないだろうか。  それなのに、俊一は唯一の味方だった母のことを刺してしまった。俊が詩織さんを刺したのは、中間テストの結果を知った詩織さんが、笑ったからだと言っていた。  俊は尊敬している父親の期待に応えられない自分に酷く罪悪感を感じてた。テストの結果を知れば越川に殴られることは目に見えている。そんな俊一のことを詩織さんは本当に笑ったりしたのだろうか?。  看護師さんに押され、一階の待合室まで来る。亜希子の頭の中は事件の事が駆け巡っていて、側から見るとボンヤリしている様に見えたのか「亜希子、大丈夫かい?」と母さんが声を掛けて来る。  我に返って「うん。ちょっと考え事してたから、大丈夫だよ」と笑って答える。  看護師さんに、救急車の準備が出来るまで両親とここで待っている様に言われる。 「売店で何か買って行こうか、途中で喉が乾いちゃうといけないから」  と言って父さんが売店へ走って行く。  その時何処からか泣き喚く子供の声が聞こえて来た。  何だろうと思って見ると、どうやら迷子になっていたらしい小さな男の子が、やっと見つけたお母さんの胸をポカポカとぶっているところだった。  5歳くらいだろうか、小さな拳をポカポカとお母さんの胸にぶつけて泣き叫んでいる。彼の気持ちとしてはきっと『何故僕をひとりにしたんだよう! 恐かったんだぞ、何故もっと早く見つけてくれなかったんだよう!』といったところだろうか、ポカポカと叩かれている若いお母さんは「ごめんね、ごめんね」と言いながらニコニコと微笑んでいる。微笑んでいる!。  子供の顔が俊に見えた。でもその手には包丁が握られている。グサグサと胸に包丁を刺され、血しぶきを上げながらもお母さんは笑っている。  ……詩織さんは俊を笑ったのではない、微笑んでいたのではないだろうか!。  テストの成績を知った時、そのことが知れれば俊一が越川から酷い目に遭わされることを知っている詩織さんは、そんな俊一のことを不憫に思って、でも自分では助けてあげることも出来なくて、ただ俊一に微笑んであげることしか出来なかったのではないだろうか。  そんな、そんなことが……。身体中に衝撃が走り、崩れ落ちていく様だった。  用意が出来たので行きましょうと看護師が救急車の隊員を連れて迎えに来る。  唖然としたままストレッチャーに身体を移されると、そのまま急患用の出入り口から出て、開かれた救急車の後部扉からストレッチャーのまま乗せられて行く。  救急車の中には心電図等のモニターや血圧計、心臓が止まった時に電気ショックを与える機械や呼吸機等、様々な設備が整えられている。  運転席と助手席に隊員の男性が乗る。亜希子の寝ているストレッチャーの脇には跳ね上げ式の席があり、そこに看護師さんが付いてくれて、亜希子の胸に付けたラインから心拍や呼吸のチェックをしてくれる。そして後ろまで続くサイドシートには父さんと母さんが並んで座る。  扉が閉められるとエンジンを掛け、病院の裏門を出て外の街を走り出す。  寝ている状態では窓の上の方しか見えないけれど、海沿いの道路を走っている様だ。反対側の窓には立ち並ぶマンションの上の方が次々と過ぎって行く。  もしかしたら俊が逃げてマンションに帰って来てはいないだろうか……と思い、八王子へ行く前にマンションに寄って欲しいと看護師さんにお願いしてみるが「何か必要な物があれば私が取って来てあげるから」と母さんが言い、願いは聞き入れられなかった。  俊と暮らした街がみるみる流れ去って行く。    俊……俊は心の中で、自分では気付いていなくても、きっと自分を認めない暴君の様な父親を憎んでいたんでしょう? でも本当に憎い相手には叶わないので、そのはけ口が弱い者へ向かって母を刺してしまった。  それは母に助けを求める行為だったのかもしれない。母に甘える行為だったのかもしれない。父親に怒られた腹いせにどんなに辛く当たっても優しかったお母さん。  そんな母への究極の甘えが包丁を刺すという行為になってしまった。それは『何故僕を助けてくれないんだよう』という心の叫びであったのかもしれない。  詩織さんは包丁を持つ俊一の手を胸に受け入れた。私が守ってあげられないばかりに、ここまで追い詰めてしまったのね、ごめんね、ごめんね俊ちゃん……と思いながら。  俊一が母を刺した時に『俺を捕まえようとして抱き付いてきた』と言ったのは、捕まえようとしたのではなく、俊一の身体を抱きしめようとしたのではないのか。包丁ごと……そして俊一はその詩織さんを振り解こうとして包丁を何度も突き出した。そんな俊一を詩織さんは包み込もうとした。俊は子供が甘えて母親の胸をポカポカと叩く様に、詩織さんを刺した……。  でも俊、私には分かる。貴方はそんな詩織さんの心を本当は分かっていたんでしょう?。  貴方は自分でも見ない様にしているけど、本当は詩織さんを刺してしまったことを酷く後悔しているんでしょう? だからあの時、テレビで翌日詩織さんが死亡してしまったことを知った時、ショックを受けていたんでしょう?。  俊はあんなに頭の良い子なのだから。詩織さんだけが唯一心から自分のことを思い遣ってくれる肉親だったということを、心の奥では分かっているに違いないんだ。自覚することを避けているのかもしれないけど、きっと俊には分かっているはずだ。分かっていて目を背けてるんだ。ちゃんと見ることが恐いから。それを見る勇気が無いから。自分の弱さと、罪の深さを見ることが出来ないんだ。恐怖の為によじれてしまった自分の狂気。でもきっと頭では分かっているに違いない……。私には分かる、そうだよね? きっとそうだよね俊……。  でもね俊、貴方はあの凶暴な越川に立ち向かって行くには幼くて弱すぎたのかもしれないけど、でも男の子はね、そんな卑怯な真似をしてはいけないのよ。  救急車は習志野インターチェンジから高速道路に入り、東京湾を横目にグングン走って行く。  俊とウキウキしながら探した検見川浜の街、思えばほんの3ヶ月だったけど、あのマンションで俊と暮らした日々が、もう戻らないものとして過ぎ去って行く。  やがて荒川を過ぎるとお台場からレインボーブリッジを渡り、首都高速に入るとみるみる都心へと入って行く。  都心を横断して中央自動車道へ入り、亜希子の生まれ育った八王子へと向かう。  ぼ~っと窓へ目をやったまま物思いに耽っていると「苦しくないかい?」「大丈夫かい?」と亜希子の顔を心配そうに覗き込んでお母さんが声を掛けてくれる。  お母さん。こんなに優しいお母さんなのに、私は今まで何の親孝行も出来ずに、今またこんな心配を掛けて、本当に済まないと思う。ねぇ俊、貴方のお母さんも、きっと同じお母さんだったんだよ。 「亜希子、お前の通ってた中学校が見えるよ」  そう言われてそっと身体を起こして見ると、高速道路の下に広がる町並みの中に、小さく八王子市立第二中学校の校舎と体育館の屋根が見える。懐かしいというよりも、あのちっぽけな敷地の中で過ごした日々は、もう遠く微かな思い出としてしか残っていない。  あの頃テニス部で一緒に頑張ってた友達は皆どうしてるんだろう。  中学に入って私がテニス部に入りたいと言った時、父さんは許してくれなかった。それはきっとテニスをやりたい理由がアニメの「エースをねらえ」に憧れてのことだったから、その時は父さんがアニメを嫌いなせいだと思ってた。  でも父さんは一度学内の試合を見に来てから急に応援してくれる様になったので、父さんが心配してたのはきっと、選手たちがアニメみたいにお化粧したり、ミニスカートをヒラヒラさせながらやっていると思っていたからではないかと思った。  だからその時の私たちを見て、アニメの世界とは全然違うことが分かって安心したのだろうと思った。  テニス部で三年間頑張っていたけれど、結局私は選手としてはあまり活躍出来なかった。でも本当に一生懸命だったし友達が沢山いたから楽しかった。  じっと揺られている父さんの顔を見ていたら「何笑ってるんだ?」と聞かれてしまい「ううん。なんでもない」と答える。    6  救急車は八王子ジャンクションから高速道路を下りて郊外へと進み、やがて見覚えのある森に囲まれた、レンガ色の建物が見えて来る。  関東医科大学八王子医療センターに到着すると、ストレッチャーのまま病棟に入り、そのまま外来のロビーを抜けて奥にある処置室へと運ばれて行く。  中で暫く待っていると、あの頃お世話になった菅橋先生が入って来る。東京湾沿いの病院から付き添ってくれた看護師さんも一緒にいる。 「こんにちは、お久しぶりですね」  と迎えてくれた菅橋先生はさすがに白髪が増えているけれど、12年も経っていることを感じさせないくらいあの頃のままだった。 「それじゃ先生、宜しくお願いします」と言って看護師さんは菅橋先生に頭を下げてから、亜希子の側へ来ると「それじゃ、お大事に、頑張って下さいね」と声を掛けてくれる。  父さんと母さんが丁寧にお礼を言って、看護師さんは処置室を出て行く。 「すいません。また戻って来ちゃいました」  と舌を出して言うと菅橋先生は「千葉の医療センターから引継ぎの診断書は受け取りましたから、準備は出来てますからね、心配しなくて大丈夫ですよ」とあの頃と代わらない笑顔を見せてくれる。  そんな先生の顔を見ていると、ああ本当に戻って来てしまったんだという感慨が込み上げて来る。あの頃私は、まだたったの26歳だった。  手術の為に検査をしておきたいからと言って、菅橋先生は血液を採取したり、心電図をとったり、呼吸機能を計ったりと、いろいろな検査を進めて行く。  全身の断層撮影をする前に造影剤を入れる為の点滴をして、検査台に乗せられる。それからMRIというSF映画みたいな機械の中へ入って行く。  一通りの検査が終わると夕方だった。病室へ行くのにお父さんが押してあげるから車椅子に乗りなさいと言う。ゆっくりなら歩くことも出来るのでいいと言ったのだが、いいから乗りなさいと言うので素直に乗って押して貰う。  病室は四人部屋で、三人の患者さんがそれぞれのベッドに寝ているところへ車椅子に押されながら入り、誰に言うでもなく「こんにちは~」と頭を下げながら指定されたベッドへ行く。  夕食までにはまだ時間があるので、お母さんに売店で新聞や週刊誌を買って来て欲しいと頼んだ。  もしかしたら、越川と俊一のことが何か載っているかもしれない、と思った。当初の約束どおり越川が俊を連れて警察に出頭しているとしたら、きっと記事になっているに違いない。  だが、その日の新聞にも週刊誌にもそれらしい記事は見当たらなかった。  もしかしたら俊が逃げて検見川浜のマンションに帰って来ていないだろうか……という希望はあるけれど、俊はドアの鍵を持っていないから、もし逃げて来たとしても部屋に入ることは出来ないだろう。  夜になって夕食が出て、お父さんとお母さんはこれからの入院生活に必要な着替えやタオル等を家から持って来ると言って、帰って行った。  もしかしたら上手く鍵をこじ開けて、俊がマンションに戻っていないだろうかと思い、公衆電話から電話してみる。呼び出し音の後に亜希子の留守番電話の音声が流れる。 『はい、倉田です。ただ今留守にしております。発信音の後にメッセージをお入れ下さい』 ピーッ……。 「もしもし、俊、そこにいないの? 私だよ、亜希子だよ、もしいたら電話に出て、もしもし、もしもし……」  何度も呼びかけてみたけれど、やはり受話器を取る人はいなかった。  翌日の朝、家から沢山の荷物を持って父さんと母さんが来た。今日も新聞を買って来て貰ったけれど、何も出ていなかった。病室のベッドに備え付けのテレビでワイドショーやニュースを観ても、やはりそれらしき報道は無い。  父さんと母さんを交えて、菅橋先生から手術についての説明があった。  MRIの断層撮影や血液検査等の結果、亜希子の肝臓に出来ている腫瘍は悪性である可能性が高いということで、明後日の9月30日に管橋先生の手で開腹手術を行なうことになった。  先生は用意しておいた書面を私と両親に見せて説明して行く。  先生が言うには、肝臓に出来ている腫瘍を取り除く手術になるのだが、この腫瘍の摘出で病気が完治出来るかどうかはその後の検査結果を診てみないと何とも言えない。それに他の臓器への転移も考えられるので楽観は出来ないということだった。  そして手術した時に考えられる身体に与えるリスクについてもひとつひとつ説明して行く。手術の間の出血の量によっては輸血する必要があること。万が一合併症になる可能性もあること。等等……。  一通りの文面を読み終えると、先生は書面を私達に差し出して、それらの手術に伴うリスクについて予め了承し、同意しましたという趣旨のサインをして下さいと言う。  もし手術で何らかの不足の事態が起きたとしても、何も文句を言わないで下さい、と約束させられているみたいで不安になるけれど、どんな病気の手術でも、こうした同意書は必要な物なのだと菅橋先生は教えてくれた。  夜になって両親も帰り、病室に一人になった。夜中にまた暫く治まっていたあの痛みに襲われて、あまりの辛さにナースコールを押してしまう。  来てくれた看護師さんがすぐに痛み止めの注射と座薬を入れてくれる。暫く痛みを忘れていたので少しは回復しているのではないかと勝手に思っていたけれど、それはあくまでも薬の力で感じていなかっただけで、決して治っている訳では無かったのだと思い知らされる。  いよいよ明日は手術という日、真由美姉さんがお見舞いに来てくれた。お盆に会って以来、ほんの一月半くらいの間に私がこんな風になってしまって、きっと驚いているだろうと思うけど、全くそんな素振りは見せず、私を気遣ってくれているのが分かる。 「大丈夫だから元気出して頑張んなよ~」  といつになく明るくて、ひたすら私を元気付けようとしてくれる。  でもそれがかえって空々しくて、何だか他人行儀な感じがする。こちらも努めて元気な様に世間話に調子を合わせているけれど。なんだか姉妹というよりも友人の様な気さえしてくる。 私の人生と姉の人生と、対抗意識がある訳ではないけれど、こんな惨めな姿を見せていることが、とても哀しくなってしまう。 明日の手術の為にいろいろと検査しなければならないことがあって、あまりゆっくり話している時間がなかったことに、むしろ救われた様な気さえしていた。  採血室へ行って腕から血液を採り、尿も採られる。看護師さんがお腹の周りの毛を剃ってくれて、おへその穴も綺麗にして貰う。  病室に戻るとまた例の腰から胸にかけての痛みが凄くなって来て、看護師さんに頼んで痛み止めの注射をして貰う。 手術の前は消化の良い物しか食べてはいけないということで、今朝の食事はおかゆ、昼は食パンとスープだけだった。  夜はお風呂に入った後、下剤と睡眠剤を飲んで寝る。それでも身体が緊張しているのか、なかなか熟睡することが出来ない。 時々薄っすらと眠った様な眠らない様な状態を繰り返している。そのうちに便意をもよおして来たので、暗い廊下を歩いてトイレへ行って、またベッドに入る。  そんなこんなでようやく眠れたかと思った途端に「お早うございまーす」と看護師さんが元気よく入って来てカーテンを開く。  外はすっかり夜が明けて明るくなってる。いよいよ手術の日になった。  今日は手術が終わるまで食事は無しで、その代わりに点滴を打って貰う。  息をするとお腹の中が空っぽになった感じがする。手術の始まる午後3時まで、このまま待っていなければならない。  午後になって父さんと母さんが来て、また週刊誌や女性雑誌を買って来てくれた。今日も俊に関する記事は出ていない。  そうこうするうちに手術室に行く時間になったので、すぐに裸になれる様になっている手術着に着替える。パンツも脱いで下半身にはT字帯というふんどしみたいな物を着ける。  準備が出来るとベッドに乗ったまま看護師さんたちに動かされて、そのまま病室を出ると廊下を走って手術室へと向かう。  天井の蛍光灯の光が過ぎては来て、また過ぎて行く……自分が生きるか死ぬかの大手術を受けに行くところだというのに、父さんと母さんがこんなに心配しながらついて来ているというのに、それらは何処か他人事の様に感じていて、頭の中には俊のことが浮かんでいる……。  俊はまだ警察に出頭していない……あの時、越川は私に二度と姿を見せるなと言った。越川は最初から俊を警察に出頭させる気なんてなかったのではないのか。  俊はまだ生きてるんだろうか。それとも何処かに閉じ込められているんだろうか、また虐待されているのではないか……大丈夫なの? 元気でいるの? 今でも亜希子の目にはあの、経堂のアパートの側で毎朝すれ違っていた、自転車に乗った儚げな少年の姿が浮かんでくる。 あの男は、越川はまだあの会沢診療所で勤務しているんだろうか、あの男の居場所が分かっていれば、俊のことをどうしたのかと聞くことが出来るかもしれない。でも……恐ろしくて私にはそんなことは出来そうにもないけれど。  亜希子を乗せたベッドは手術室の前へ辿り着いた。両親はここで締め出されてしまう。  心痛そうに黙っていたお母さんは「亜希子、大丈夫だからね、頑張ってね」と言って手を握ってくれる。亜希子は「うん。大丈夫だから、頑張って来るね」と母に答える。父さんは黙って見ている。手術室へ運び込まれるとバシャンと扉が閉められて、父さんと母さんは扉の向こうに消えた。  12年前の手術の時は苦しかったし急だったのでよく見ることが出来なかったけど、手術室の中は沢山の機械や設備が整っていて映画のシーンみたいだ。  ああ、凄いな……と思って天井を向いていると、横に麻酔を担当する医師が来て「最初に硬膜外麻酔をしますので、横を向いて身体を丸めて下さい」と言われてその通りにする。背骨の間に針を刺して注入する麻酔なのだという。  検見川浜のマンションから救急車で運ばれて、検査も含めて身体中に止め処なく針を刺されてきたので、もう慣れっこになったけど、背中に刺されるのは初めてだった。  手術してくれる菅橋先生は何処にいるんだろう、と思いながら元通り仰向けになっていると、口の上に透明なマスクをかざして「それじゃ、今度は全身麻酔をかけますので、ゆっくり数字の1から順番に数えて下さいね」と言うので頭の中で「いち、にぃ、さん……」と数える間もなく意識が遠のいて行く……。  薄っすらと目が覚めて来る。手術は終わったんだろうか……腕には両方とも点滴の管が繋がってる。胸には心電図の導線が貼られていて、モニターがピッ、ピッ、と音を立ててる。お腹にも何本も管が刺されていて、股の間には尿管が付けられてる。何だか手術する前よりも大変なことになっている気がする。  そこは病室ではなくて、手術の後で容態が安定するまで様子を診る為のICU(集中治療室)という部屋だった。  手術の間ずっといてくれたらしく、お父さんとお母さんが私の顔を見て「気が付いたかい?」と声を掛けてくる。 「手術は無事に終わったからね、大丈夫だからね」  そう言う母の顔はとても疲れている様で「お母さんこそ大丈夫なの?」と私の方が心配になってしまう。  父さんはそんな母さんの横に立って、黙って私を見下ろしている。  ICUには窓が無いので外がまだ明るいのか暗いのかも分からない。でも父さんと母さんの服装が手術の前と同じなので、きっと日付は変わっていないのだと思う。私が目を覚ますのをどれくらい待っていたんだろうと思うと胸が痛む。  暫くして菅橋先生も入って来た。ニッコリと笑って私の手を取ると「頑張りましたね、手術は無事に終わりましたから、後は術後の経過をよく診て行きましょう」と言う。 これで私は助かるんだろうか、まだ完全に麻酔が解けていないせいか、全てが現実のことではない様に思える。 「良かったねぇ、良かったねぇ」と繰り返す母に頷いて調子を合わせてあげながら、もう一度元気になれるものなら、一日も早く良くなって、俊の消息を探しに行きたいと思う。  その夜は病室へは戻らずにICUの中で過ごした。  両親が帰ってからは、無機質な機械が発するピッ、ピッ、という脈拍を示す規則的なアラームの音だけに包まれている。  麻酔が切れ初めているのか、目が覚めた時はあまり感覚が無かった身体の質感が戻ってくるのと同時に、何か巨大な重しが圧し掛かってくる様な鈍痛が身体を包み込んで来る。  遠くからスーッと来て、ワーッと身体を縛り込む様な感覚が絶え間なく襲って来る。  身体中がズンと重みのある痛みに包まれている様で、とても辛い。それでも背中から注入されている痛み止めのお陰で本当はもっと痛いところを救われてるのかもしれない。それでも痛い……。  とても眠れそうにないのでベッドについているナースコールのボタンを押す。看護師さんが来て、痛み止めの注射と座薬を入れてくれる。  俊のことが気になる……けど、この苦しみに襲われるとそれどころではなくなってしまう。ああ、苦しいよう……私は二度と自分で立ち上がることも出来ないかもしれない。  薬が効いて来たのか、身体が軽くなって来る。これで眠れるのかと思うと、またフワッと高いところから落ちてくみたいな感じがして目が覚め、身体の奥底から痛みがジンジンと広がって来る。  どうして眠らせてくれないのかと思いながら、また堪らなくなってナースコールを押す。 そんなことを繰り返して、ぐっすりと眠ることが出来ないまま朝を向かえてしまう。  今日からはICUを出てまた一般の病室へ移されることになった。  でもまだ脈拍をチェックする導線と点滴は繋がったままだし、尿管も付けられている。それほど容態が安定していないということからか、病室はナースステーションのすぐ隣にある4人部屋だった。そこには他の患者さんたちも重症そうな方達ばかりが入っている。  私はベッドに横になったままで、両親と一緒に菅橋先生から、手術の結果についての説明を受けた。  先生は「これからは御家族との協力体制で、病気と戦って行かなければなりません」と言うので、やっぱり昨日の手術だけでは完治した訳ではなかったんだと思う。  先生が言うには、手術で肝臓に出来ていた腫瘍は取り除いたのだが、周囲の部位にも転移が見られたということだった。  今後の治療方針としては体力が回復するのを待って、今回の手術で採取した腫瘍細胞の病理組織の診断結果から判断して、放射線治療と抗癌剤治療、それにホルモン療法等を併用しながら治療に当たって行きましょうということだった。  私の身体は癌の進行具合を示す段階でいうとステージ4といって、レベルとしては最悪の段階なのだという。  父さんと母さんは真剣な面持ちで事実を受け止めている。私の為にこんな思いをさせていることが情けなくて堪らなくなる。  誰も口には出して言わないけれど、もしかしたら私はもう助からないのではないかと思う。抗癌剤とか放射線とかいろんな治療方法があるっていうけれど、それで幾らかは生き延びることが出来たとしても、それも長くは続かないのではないか。そんな思いが浮かんで来てしまう。  先生はただ「気力をしっかり持って、頑張って治療に当たって行きましょう」と言うだけで、生死の問題については触れようとしない。  次の日になると、心電図を取っていた導線と点滴や尿管を外して貰えて、お腹から胸にかけて切り開いた手術の傷跡を自分で見ることが出来た。  トイレに行きたくなって、お母さんに支えて貰いながらゆっくりとベッドから降りる。傷口が傷むのではないかと思ってソロソロと動く。  手術をした後は内臓が癒着してしまうのを防ぐ為に、なるべく歩いて身体を動かした方が良いのだと看護師さんに言われている。  やっぱり途中で傷のところが凄く痛んでしまい、立ち止まってしまうけれど、少ししてまた歩くのを繰り返しては廊下を進み、やっと洗面所まで来る。  母さんに扉の前で待っていて貰い、個室に入って用を足すことが出来た。こんなことでも身体の機能がちゃんと働いていることにホッとする思いだった。  個室を出て、手を洗い、そこにある鏡を見た途端にショックを受けた。それが自分だとは思いたくない。それはもうこの世の者とは思えない、ミイラだった。  取り返しの付かない人生がそこにある。もうそんな自分を侘しく思う気力さえなくしてしまいそうだった。  まだ少しでも若さを保っていたいとお風呂に入る時は冷水のシャワーと湯船を繰り返して入っていたことも。週刊誌を見てせっせと作った豆乳ローションを顔に付けていたことも。風呂上りにせっせとストレッチをしていたことも、全部が馬鹿みたいなことだったと思う。 それでもまだ俊のことは気になっている。今日からは毎日母さんに新聞を買って来て貰い、病室のテレビでニュースとワイドショーを欠かさず見ることにしようと思う。  病院の一階にある図書室には患者が自由に使えるパソコンがあって、インターネットを見ることも出来ると看護師さんが教えてくれた。  事件のことを検索すれば何か新しい情報が得られるかもしれない。と思うけど、まだ一人でそこまで行くのは無理っぽいし、母さんと一緒だと何故私がそんな事件のことを調べるのかと不審に思われてもいけないので、まだやめておこうと思う。  日が経つに連れて徐々に歩くのが苦痛では無くなって来た。今日は母さんも家のことがあるからと言って病院へは来ないので、出来れば病室から一人で一階の図書室まで行ってみようと思う。 図書室は一階のロビーを過ぎた奥の、売店や喫茶室の並びにあると聞いた。ソロソロと気を付けながら廊下を歩いてエレベーターに乗り、一階まで来ることが出来た。でもロビーを過ぎた辺りで身体が重く疲れてきてしまう。  少し止まって休み、売店でジュースを買って、図書室へ入るとパソコンの席に座る。  ぐったりとしながら、少しずつジュースを飲んでいると身体が落ち着いてきたので、インターネットを繋いでキーワードに「世田谷区」「高校生」「母親を刺殺」と書き込んで検索ボタンをクリックする。  ヒットした項目の中から以前にも見ていた新聞社の事件報道を選び、表示してみる。 画面を見て驚いた。4ヶ月前に母親を刺して逃げたまま行方が分からなくなっていた高校生が、交番に保護されたという記事が掲載されている。  その記事がアップされたのは3日前で、亜希子が手術を受けた日だった。その日は新聞を見ることが出来なかったのだ。その記事には次の様に書かれている。 『4ヶ月前に世田谷区で母親を刺して逃亡していた男子高校生が、中央区の交番に保護された。少年は母を刺して逃げた後、親切なホームレス等の世話になりながら逃亡を続けていたが、ここ数日間悪い連中に捕まっていたところを、隙を見て逃げ出して来た。と語っている。母親とはテストの成績のことで口論となり、思わず刺してしまったが、殺そうなどとは思っていなかった。まさか死んでしまうとは思わなかったので、ニュースで母の死を知った時はとても悲しかった。と話しているという……』 良かった! 俊が無事に生きてた!  だが、嬉しさのあまり始めは気付かなかったけれど、読み返してみるとこの記事にはいろいろとおかしな点があることに思い当たる。  そもそも何故中央区の交番で保護されたのか? 一人で交番に保護されたということは、越川が付き添って出頭したのではない。それに俊は4ヶ月前から逃げている間、親切なホームレス等の世話になっていたことになっていて、亜希子のことは全く書かれていない……どういうことなんだろう。越川の元から逃げて来たということなんだろうか。  ここに書いてある俊の言動についてはいろいろと不思議に思うけど、新聞社のサイトに書いてあるのだから、俊がこう語ったということは間違いないのだろう。  とにかく無事でいてくれたことは本当に良かったと思う。  生きていればまた会うことが出来るかもしれない。けれど私には、これから図書室を出て病室まで一人で戻れるのだろうかと、そんなことが不安になっている。  情けないと思って泣きたくなってしまうけど、頑張って歩かなくちゃ。なるべく身体を動かす様にと言われてるんだから。そして、少しでも良くなって、また外を歩ける様にならなければ。でなきゃ俊に会いに行くことが出来ないもの。  手術してから4日目になった。やっと流動食が食べられる様になって、朝食におかゆが出た。看護師さんが「徐々に普通の食事も出来る様になりますからね」と言ってくれる。  リハビリから始めるのだと思ってゆっくりと食べる。おかゆの味を確かめながら。頭の中では考えを巡らせている。  ……昨日図書室のインターネットで見た記事によれば、俊が保護されたのは9月の30日だと書いてあった。今日は10月5日だから、保護されてから5日が経っていることになる。 亜希子が思っているのは、自分のところへは警察が来ないのだろうか、ということだった。  あの時越川は私に『……もしまた俺達に関わったら、警察に突き出してやるからな』なんて言ったけど、そもそも私は俊を越川の許へ連れて行こうと決めた時から、警察に捕まる覚悟はしていた。  なのに、俊が保護されてから5日も経つのに私のところへは警察が来ない。ということは、俊も越川も私のことを警察には話していないということだ。  亜希子はむしろ警察に逮捕しに来て欲しかった。何故ならそうなることは俊が亜希子のことを警察に話したということであり、警察は亜希子が俊を匿っていた事実を認め、亜希子は越川の暴力について警察に訴えることが出来る。そして越川にもそれを邪魔することは出来ない。  そうなればきっと週刊誌やワイドショーがいっぱい押し寄せて来るんじゃないだろうか、よくテレビでスキャンダラスな事件を起こした関係者が、自宅に押し寄せた大勢のカメラマンやレポーターに揉みくちゃにされてるみたいになって。  私はマスコミに、俊に暴力を振るっていたのは詩織さんではなく、父親の越川だったということを話して、世間に公表することが出来る。  その為には亜希子も自分のしたことについて、犯人隠匿でも青少年に対する猥褻行為でも、罰を受ける覚悟なんてとっくに出来ている。  でも未だに警察が来る気配がないということは、越川が俊に私のことは警察に話すなと言い含めているからではないだろうか。  つまりあの記事に出ていた、俊が語ったという内容は、全て越川の指図通りに俊が喋っているということではないだろうか。  母を刺してしまったことを後悔しているということも、今までホームレス等に助けられて方々を放浪しているうちに悪い人たちに捕まって、そこで暴力を受けて逃げて来たということも、そして俊が一人で中央区の交番に保護されたことも、全ては越川の差し金なのではないだろうか。  私のことを無かったことにしているのは、警察に俊が反省しているという印象を与える為に、行きずりの女の家に匿われていたなんてことは知られたくないからだ。  それにもし私の存在が明るみに出れば、俊に暴力を振るっていたのが自分だということが発覚してしまうかもしれないから。  夕方になって看護師さんが運んで来てくれた夕食もおかゆだった。結局その日は三食とも薄いおかゆだけだった。それでも文句も言わず、リハビリだと思ってゆっくりと食べる。  俊の為にも早く元気にならなくちゃ。ネットに出ていた記事の内容を考えると頭が混乱してしまうけど、とにかく今は身体のリハビリに努めなければと思う。    次の日のお昼からやっと普通の食事が出来る様になった。看護師さんが運んでくれた他の人たちと同じ白いご飯とお味噌汁を見た時、ああ、これでやっと私の身体も回復して行くのかもしれない、と思って嬉しくなる。 今更ながら普通にご飯が食べられるということに感動と感謝の気持ちを覚えながら、ひと口ずつ噛み締めて食べていく。  ……俊は警察に保護されたといっても、まだ完全に越川に支配されているんだ……俊、何故私に助けを求めてくれないの……。  そしてある恐ろしい考えに思い当たる。もしかしたら俊は、私が裏切って越川に自分を引き渡したとでも思い込まされているのではないだろうか。 それならば、私が自分から警察に出頭して、俊との今までの経緯や、越川から暴力を受けたこと等を訴えたらどうだろう。  でも今の様な状況になってしまっては、警察に話したとしても、私が俊を匿っていたことを信用して貰えないかもしれない。 何か俊を匿っていた証拠になる物でもあれば……ダメだ。検見川浜に引っ越す時に俊が着ていた血糊の付いた制服も、凶器の包丁も他のゴミに紛れ込ませて捨ててしまった。もうとっくに何処かのゴミ処理場に運ばれて燃やされてしまっているかもしれない。今から探して見つけ出すことなんて不可能だろう。  越川と交わしたメールの遣り取りや俊の寝顔を写した画像が残っていた携帯は、あの時越川に引き千切られてしまったし。何か他に方法はないだろうか……。  そうだ……もし警察に検見川浜のマンションから俊の指紋を検出して貰うことが出来れば、私の言うことが真実であることを認めてくれるに違いない。それは頑張って働きかければ出来るのではないかと思う。  でもそうなれば、その後はどうなるだろう……私が逮捕されて、越川の俊に対する暴力を世間に公表することが出来て……。 ……俊に暴力を振るっていたのが詩織さんではなく、悪いのは越川だったということを公表出来たとしても、それでもあの男が俊の父親であることに代りはない。  俊の人格は完全に越川への恐怖と裏返しの尊敬によって支配されている。生涯あの男が俊の父親でいる限り、俊はあの男の支配から逃れることは出来ないんじゃないだろうか。  手術をしてから7日目になって、傷口を塞ぐ為につけていた小さなホッチキスの針みたいな物を外してくれた。 「抜鈎(ばっこう)という作業なんですよ」と看護師さんが教えてくれる。  縦に延びた傷に沿って小さな針が並んで付いていたのを、カチャカチャと手際よく外して行く。麻酔をしている訳ではないけれど、ちょっとチクッとするくらいでそれ程の痛みは無い。  手術の傷口も塞がって、このまま身体の中も治ってくれてたらいいのに、と思う。 私が警察に出頭して、悪いのは父親の越川だということを訴えたとしても、俊は自分の口からは本当のことを言わないのではないかと思う。  俊は3ヶ月も私と暮していながら越川の暴力については一言も口にしなかった。それはきっと越川への絶大なる恐怖が、潜在的にも俊を支配しているからだ。  俊は「尊敬しているから」ということを言い訳にして、越川の恐ろしい部分は考えない様にしているんだ。幼い頃からそれが日常化していたから、そのことを他人に話すなんてことはあり得なかったんだ。    だからもし、あの時私が俊を匿わずに警察に引き渡していたとしても、俊は越川の暴力については警察に言わなかったと思う。  抜鈎が終わった後、手術後の内臓の癒着が無いかを調べるのと、今後の治療方針について判断する為にCT撮影をするということで、菅橋先生が来て一緒に放射線検査室へ行く。  菅橋先生から「明日は今後の治療のことについて説明したいので、御両親にも来て貰って下さい」と言われたので、次の日の午後からお父さんたちにも来て貰い、一緒に先生の話を聞いた。 「CTの結果なんですが、内臓癒着の方は大丈夫ですね、それで次に始める放射線と抗癌剤を併用する治療についてなんですが、まだ手術で摘出した腫瘍からの詳しい病理診断が上がって来ていないので、すぐに始めることは出来ないんですよ。それでですね、次の治療を始めるまでの一週間くらいの間なんですが、良ければ退院してご自宅で過ごされてはどうかと思うんですが」  先生の口から出た「退院」という言葉に驚いた。もう生涯病院から出られることは無いのではないかと思っていた。  先生が言うには、抗癌剤の治療を始めたら一ヶ月くらいは毎日続けなければならず、その間はずっとベッドに寝たきりで、外に出たり歩いたりすることも出来ず患者さんはとても辛いのだという。  それならと父さんと母さんと話し合って、容態が安定していれば明日にでも一度退院しましょうということになった。  その夜から浴室でシャワーを浴びることが許された。  そうっと裸になって、スポンジにボディソープを付けて、ゆっくりと身体中を丁寧に洗っていく。腕も、足も、指の間も。  身体中泡まみれになって、それからシャワーを浴びる。暖かい飛沫が身体を流れて行く。目を閉じて思わず「あ~」とため息が漏れる。  この先に待っている闘病生活はきっと辛いだろうと思うけど、今はただ明日退院出来るということが嬉しい。  身体を洗い終えると今度は頭からシャワーを浴びて、シャンプーを手に取り髪を洗う。髪の毛が引っ掛かってしまうのでゆっくりと手を動かしていく。  今頃俊はどうしているだろう。ねえ俊……貴方は本当はお母さんを守ってあげる為に父親を殺すべきだった。でも弱い貴方にはそんなことは考えも及ばなかった。  俊……貴方は強くならなければならない。でなければ例え罪を償って社会に出て来ることが出来たとしても、真相を隠したままでは一生涯本当の自分の人生を生きることは出来ないのよ……。  目を閉じてシャンプーの泡を洗い流す。そしてまたスポンジにボディソープを付けて、始めからゆっくりと全身を洗い直していく。  手術から9日が経った今日。先生からの許可が下りて、一時退院して家へ帰ることになった。  病院の表玄関から両親に付き添われてタクシーに乗り、実家へと向かう。離れて行く病院の建物を見ながら、もう戻って来なくても良ければいいのに……と思う。 「良かったねぇ久しぶりに家に帰れて、一週間もあるんだからのんびりして美味しい物でも食べてればいいわよ」  と母さんはまるで病気が治ったみたいに嬉しそうだ。  次の治療を始めるまでの一週間というけれど、菅橋先生が一度退院させてくれたのはきっと『病院の外での最後の時間を家族で過ごして下さい』ということなのではないかと思う。この一週間を最後に、再び入院すればもう二度と出て来ることは出来ないのではないか……。  でももう何も口に出して言うのはやめよう。一生懸命に笑顔を作っているお母さんに、どんなことになっても最後まで調子を合わせていてあげようと思う。だって私には、もう他に親孝行と呼べることは何も出来無い。  病院を出て北野街道を走るタクシーの窓の外に、懐かしい町並みが現れて来る。  少女時代を過ごした八王子の街。思い返せばあの頃がついこの間の様な気がする。  こんな有様になってこの街に戻って来ることになるなんて、考えてもいなかった。人の人生なんて、なんて短くて儚い物なんだろうと思う。  タクシーは京王線の北野駅前から八王子バイパスへ折れると住宅地へ入って行く、それから5分もしないうちに実家に到着した。    7  2階の部屋に布団を敷いて貰い、横になる。そこは25歳の時に家を出るまで亜希子の部屋だった。  まだ昼間だし全然眠くなんかないけれど、ミイラの様な私には布団に横になっているのが自然な姿の様な気がする。  お母さんに9月30日からの新聞がまだ捨ててなかったら見たいと言って全部持って来て貰う。俊が警察に保護された日から今日までの記事をもう一度見てみようと思う。 だが、9月30日に中央区の交番に保護されたという記事が翌日の10月1日に載ってから後は、俊についての報道は何も無かった。  私に出来ることは何だろうといろいろ考えて来たけれど、これだけは言えると思うのは、俊を立ち直らせるには、詩織さんは決して俊を嘲っていたのではなく、微笑みかけていたのだということを俊に自覚させなければならないということだ。  自分はそんな母を刺し殺してしまったのだということを、目を逸らさずに直視して、その罪と向き合うこと。  それはどんなに辛いことかもしれないけど、後悔の念に押し潰されてしまうかもしれないけど、一度メチャメチャになってしまわない限り、立ち直るということもない。  どうしたら俊にそのことが出来る様にしてあげられるんだろう。果たして俊にそんな時が来るんだろうか。少なくともこのままでは無理だ。あの父親と一緒にいる限りは。  例え嘘で固めた罪を償って出所して来たとしても、俊の人生は越川によって支配されて行く。生涯逃れることが出来ず、恐怖に慄きながら卑怯者の人生を送ることになる。  俊はこのままでいいの? そこから脱出して自分の人生を取り戻したいという本能の様な物は無いの? このまま死ぬまであの父親に支配されながら過ごして行くつもりなの?。 これから先も俊は警察に本当のことは言わないだろう。越川は俊に私のことを「お前をたぶらかした悪い女だ」とでも思い込ませているのかもしれない。だから私が出頭しても俊を助けることは出来ないと思う。  ……ああ、それよりも何よりも、こんな身体になってしまっては、もう何もすることが出来ないじゃないか。こんな身体の私でも何か出来ることはないだろうか。私は生きているうちにまた俊と会えることがあるんだろうか。  母さんは私の着替え等を取って来てあげると言って、検見川浜のマンションの鍵を持って父さんと出掛けて行った。  一度会社に連絡しておこうと思い、二階にある子機から掛けると、いつもの様に電話に出たのは小石さんだった。 「ご迷惑ばかりお掛けして申し訳ありません」と言うと『早く良くなって復帰出来るの楽しみにしてるからね』と言ってくれたので恐縮してしまう。  もうあの職場へ戻ることも出来ないのだろうか。そう思うと、20年近くもあの会社で働いていたことも、何か遠い世界の事だった様な気がする。  次の日、夜になって食事の用意が出来たと言うので下の部屋へ降りてみると、いつの間に用意したのか居間のテーブルにご馳走が並んでおり、真ん中には蝋燭を立てたケーキが用意してある。  ケーキに乗ったチョコレートのプレートに「アキコちゃんお誕生日おめでとう」とクリームで書かれている。まるで小学生みたいだな、と笑ってしまう。  10月11日。すっかり忘れていたけれど、今日は亜希子の39歳の誕生日だった。  こんなに沢山の御馳走は食べきれないだろうに、どうするのかなと思っていたら「こんばんは~」と声がして真由美姉さんが吉村さんと娘の由香里ちゃんを連れて来た。 「亜希子さん誕生日おめでとう」と高校生の由香里ちゃんがプレゼントを渡してくれる。 小さい頃から会う度に私のことを「叔母さん」ではなく「亜希子さん」と呼びなさいと言い付けて来たことを守ってくれている。  プレゼントの包みを開けてみると、小田和正の新しく出たベスト盤のCDと、お笑いコンビダウンタウンのDVDのセットだった。 「どっちにしようか迷ったんだけど、由香里が両方にしようって言うから。まだ暫くは静養してるから観る時間沢山あるんでしょ」  と姉さんが言う。私の好きな物をちゃんと覚えていてくれるんだ。と思うと、ホロリと涙がこぼれそうになってしまう。  ただ、皆が私の顔を見て、あまりのやつれ様に一瞬動揺した表情をしてしまうのが分かるのが辛い。  皆で御馳走を食べながら昔話に花を咲かせていると不意に「私はね、亜希子には悪いことしたと思ってるんだよ」と母さんが言い出した。 「あの時、12年前に菅橋先生が子宮と卵巣を摘出するって言った時、どうしても片方の卵巣だけは残してあげて下さいってお願いしたから、また悪い病気が再発してしまったんだからね、あの時私があんなお願いしなかったら、こんなことにならなかったかもしれないんだからね」 「そんなことないよ母さん。私だってあの時残して欲しいってお願いしたんだから。それに腫瘍が出来たのは肝臓だよ、残した卵巣は今だってそのままなんだから、きっとあの時両方の卵巣を取ってたとしても、こうなってたんだと思うよ」  卵巣腫瘍と一緒に子宮を全摘出すると言われた時、どうにか片方の卵巣だけでも残して欲しいとお母さんと一緒に菅橋先生に頼んだ。  だって両方の卵巣を失ってしまったら、女性ホルモンの分泌が無くなるっていうから、女性らしさが全く失われてしまうんじゃないかと思った。  もう自力で子供を産むことは出来ないとしても、少しでも自分が女である部分を残しておいて欲しいと思った。だってせっかく女として生まれて来たんだから。  くよくよしている母さんを元気付けようと思って、亜希子は努めて明るい表情をして言う。 「お父さんもお母さんも、私のこと育ててくれて、今まで生きて来られたこと、ありがとうね」 「そんなまるで助からないみたいな言い方するのはやめなさいよ。大丈夫なんだから」  と父さんが言う。 「うん。でももしものことがあったとしても、私は父さんと母さんの子に生まれて来て、幸せだったからね、何があってもそれだけは信じていてよね」  元気付けようと思ったのが逆効果になってしまい、泣き伏してしまう母さんの背中を擦りながら、亜希子は言葉を続ける。 「だってねお母さん。私はきっと片方だけでも卵巣が残ってたから、少しは女でいられたんだと思うよ。本当だよ」  ……そうだ。私にはまだ片方の卵巣が残されていた分だけ、女らしいところも残されていたんだきっと。  そのお陰で隆夫との出会いや思い出も出来たんだし。そして俊とのこともこうなったのかもしれない。  あの時もし両方の卵巣を失っていたら、女性ホルモンが出なくなって、もしかしたら男性に対する恋愛感情や優しさも失っていたのかもしれない。  そしてあの日、俊に帰ってくると約束してアパートを出た時も、きっと真っ直ぐに交番へ駆け込んでいたのではないだろうか。  そうだ。全ては私の意志なんだ。だから私には、今までのこと全てに後悔なんて無い。きっとこれからも。 「お母さん。私は自分の人生を歩んで来たんだよ、だから母さんが自分を責めたりするのはやめて欲しいよ、ねっ、お願いだから」  ウンウンと頷きながらも、母さんはなかなか顔を上げてくれなかった。  そんなこんなでパーティーは終わり、姉さんたちも帰って行った。その後、一人で二階の部屋へ戻って来た時に、痛みが襲って来る。  胸の奥が針金で縛り付けられるみたいに痛い。それから腰も折れてしまいそうで、布団に倒れたまま身動きも出来なくなってしまう。  退院する時に渡されたオキシコンチンと言う麻薬系の飲み薬と、ボルタレンと言う座薬の痛み止めをお昼に入れたはずなのに、もう効き目が薄れてしまうということは、それだけ症状が進行しているんだと思う。  枕元に用意してあるペットボトルで薬を飲んで、パンツを下ろして座薬を入れる。呻き声が漏れるとまた母さんが上がって来てしまうので、必死に堪えてゴロゴロと布団の上を転がる。  だけど今日は思いがけず誕生日で、父さんと母さんに「今までありがとう」って言えて良かった……。  自分でも忘れていた誕生日を覚えててくれるなんて、これが家族なんだな、せめて私は一人で死んで行かなくて済むんだもの。ありがたいなと思う。  痛みに声が漏れそうになるので枕の端に噛み付いて耐えていると、脳裏に浮かんで来たのは検見川浜のマンションで俊と暮らしていた頃のことだった。  ……あれは夢を見ていたんだろうか、あの朝、二人で迎えた東京湾の夜明けの情景。亜希子と俊一は世界で二人きりだった。それが段々俊の心が荒んで来て、俊一を社会復帰させて、医者になる夢を実現させてあげたいと思ってしたことが、こんなことになってしまった。  まだ私に出来ることはあるだろうか……。何かしてあげなければ、まだ私が生きているうちに。でも、こんなボロボロの私に何が出来るというのだろう。まるでもう、家の中で死ぬのを待っているだけみたいな私に。  11日前に中央区の交番に保護されたという俊一が、今何処でどうしているのかは全く分からない。少年事件は非公開の為、刑事裁判にならない限り裁判の傍聴は勿論、いつ何処の裁判所で行われるのかも、その結果を知ることも出来ない。  俊一の送られる道筋は、おそらく鑑別所から家庭裁判所、そこでもし検察へ送致されれば刑事裁判、そして行き着く先は少年院か少年刑務所ということになるのだろう。  俊一は今、何処かの鑑別所へ入れられていて、裁判にかけられるんだ。居場所さえ分かれば、そこでもし面会が許されるというのなら、まだ動けるうちにせめて様子を見に行きたいと思うけど、何処へ行けば良いのかも分からない。  裁判には越川が保護者として付き添っているに違いない。本人が反省していることや、家庭に問題があったということで、行き先が少年院に決まれば、きっと1年くらいで退院出来るのではないかと思う。  その後はあの父親にどんな風に扱われるのか……越川はまたきっと俊一を支配して、思うがままにしようとしているんだ。  私に出来ることは何? 私が生きているうちに……。  苦しみうごめきながらも回転させている頭の中に、只一つ小さな石の様に確固たるものがあるのを感じる。  その思いに至った時。苦痛にのたうっている身体に戦慄が走る。けど同時にそれが否応無く決定していることとして、自分のしなければならないこととして身体がリセットしてしまった様な感じだ。  それは自分がもうすぐ死ぬということと同じくらいに、そこから逃れることの出来ない真実として、そこにある。  亜希子にはずっと前からそれをしなければならないことが決まっていた様な気がする。それは俊が私のアパートに侵入した時からだろうか? それとも隆夫に捨てられた時から? いや隆夫と出会った時からか? もっと前? あの朝府中駅でお腹を押さえて蹲った時だろうか? それとももっと……もしかしたら、私がこの世に生まれて来た時から……。  そんなことが出来るはずが無いことは分かっている。でも、まだ針で明けた穴の様に小さな光だけれど、確固たる意思を持って瞬いている光が、やがて大きくなって私の意志を支配するであろうことも分かっている。  怖い、絶対に出来っこない、でも私はそれをしなければならない。中学の時お父さんからテニス部に入ることを反対された時も、父さんに逆らえるはずなんて無いと思っていたけれど、心の片隅に今と同じ光があることに気付いてた。  今は不可能に思えても、きっとまたあの光が大きくなって、私を包み込んで行くんだ……。  だけどこんなヒョロヒョロな私に出来るだろうか。私はどうなったって構わない。けど他にも考えなければならないことがある。それは父さんや母さん、それに姉さんや吉村さん、それに由香里ちゃんにも誰にも、決して迷惑が掛からない様にしなければならないということ。  どうすればいいんだろう。どうすれば出来るんだろう。手掛かりは、私がもうそう長くは生きられないだろうということ……。  痛みに蠢きながら、考えに耽り、殆ど眠りに付くことも出来ないまま朝を迎える。でもようやく痛みも治まって来て、朝ご飯を持って来た母さんと普通に言葉を交わすことが出来た。  朝食を食べた後、洗濯していた母さんが父さんと一緒に買い物に出掛けたところを見計らって、寝床の中で子機を使って電話を掛ける。  電話番号が分からなかったけれど、番号案内に掛けて大体の住所と名称を告げると、調べて貰うことが出来た。  電話に出たのが誰でもいい様に頭の中でシュミレーションを確認し、緊張しながらダイヤルを押す。  呼び出し音が暫く続いた後、相手が出る。 『はい、会沢診療所です』  所長の会沢さんの声だった。 「あの、もしもし、越川先生は、いらっしゃるでしょうか?」 『ああ、回診に行ってますけど、どういったご用件でしょうか?』 「あ、分かりました。また後ほどお電話しますので、すみません」  電話を切る。回診に行っているということは、まだあの診療所に勤務しているということだ。  きっと私に居場所を知られていることなんて、気にしてないんだ。私には犯罪者を匿っていたということだけでなく、未成年者に猥褻行為を行なったという引け目もあるし。  そもそもアイツは私が俊を弄んで、飽きて始末に困ったから自分に押し付けに来たのだとしか思ってないから。そんな私を殴り倒して懲らしめたことで、もう二度と近付いては来ないだろうと高をくくっているんだ。  確かに私には、アイツの名前を思い浮かべただけで震えてしまうくらいの恐怖を植え付けられている。それは今電話機を握っているこの手の震えを見れば分かる。 恐怖とは戦うことが出来るだろう。心配なのは身体の方だ。  痛み止めの薬を常時飲んでいるし、座薬も入れてはいるけれど、痛みの発作に襲われてしまえばその場で動けなくなってしまう。しかもその症状は日が経つに連れて悪化して来ている。  一日でも早くしなければ、今にも力が無くなってしまいそうな気がする。だから、自分でもそんなに急にとは思うけど、明日決行しなければならないと思う。それはもう、否応もない決定事項だ。    8  その夜。明け方の4時に寝床を出る。何かあるといけないということで、亜希子の部屋は常夜灯を点けて寝ているので、そのまま準備をすることが出来る。  用意する物は昨夜のうちに整えておいた。ペットボトルを開けて痛み止めを飲み、座薬も入れる。検見川浜のマンションから母が取って来てくれた衣服の中から靴下を出して履く。ブラウスとスカートを選んで着替え、寒いといけないので少し厚手のコートを着て行こうと思う。  お化粧もしたいけど、洗面所を使うと両親が起きてしまうかもしれないのでやめる。  もう一度バックの中を点検し、必要な物が揃っているか確かめる。お財布と預金通帳もある。病院で貰ったありったけの痛み止めと座薬を忘れる訳には行かない。  6時頃になると父さんも母さんも起きだして、庭の掃除や朝食の準備を始めてしまうので、それまでには家を出なければならない。  洋服に着替え終わって、布団を綺麗に整え、その上に用意しておいた一枚の手紙を置く。バッグを肩に掛け、そっと襖を開けて部屋を出る。  手紙には「今日どうしても行っておきたい所があるので行って来ます。大丈夫なので心配しないで下さい」とだけ書いておいた。  足音を忍ばせて階段を下りる。一階の廊下をそっと歩き、両親の寝ている部屋の前を過ぎて玄関へ向かう。ふと振り返って両親の部屋を見る。  お父さんお母さん、行って来るね……。これから私がしようとしていることは、いつかきっとお父さんもお母さんも解ってくれる日が来ると思う……。  泣いている暇はないのでそのまま玄関に来て、そっと靴を履く。音を立てない様に物凄くゆっくりと鍵を開けて扉を開く。  10月の夜明けの冷たい空気に身体が包まれる。身体がふらつかない様に気を付けながら扉を閉める。家の鍵は持っていないので外から鍵を掛けることは出来ないけれど、もう一時間もしないうちに両親も起きるだろうし、大丈夫だろう。  家の門を開けて、まだ暗い街へ踏み出して行く。京王線の北野駅を目指して歩き出す。  キャッシュカードもあるからいざとなればお金を引き出して、千葉までタクシーで行くことも出来る。  貯金は500万円くらいある。セコセコ生活を切り詰めてして来た貯金だけれど、生涯賭けてこれっぽっちなのかと思うけど、私が自由に使う権利があるお金なんだ。   ふらつく身体のバランスを取りながら歩いていると、夜が明け始めて街がだんだん青く見えてくる。昔住み慣れた街。この角の向こうへ行くと通っていた小学校が見えるんだ。  あ、この家は、中学の時一緒にテニス部だった早苗ちゃんの家だ。どうしてるのかな、久しぶりに会ってお茶でもしながらお喋りしてみたい。  生まれた時からずっと過ごして来たこの街。この街で一緒に育って、今は大人になってバラバラになってしまった友達はみんなどうしているだろう。それぞれに家庭を持ってお母さんになったり、それとも一人身のまま仕事に頑張ったりしてるんだろうか。自分がこんなだから思うのかもしれないけれど、皆幸せに暮らしていて欲しいと思う。  高校時代電車で通学していた頃、北野駅まで自転車で走った八王子バイパスの脇の歩道を歩いて行く。  大通りに出ると冷たい風が吹いて寒くなってくる。空が青く明けて来て綺麗な空気に包まれてくる。チヨチヨと鳥の声が響く。  時々ビュンビュン通り過ぎて行く自動車を横目に見ながら、フラフラする足取りでゆっくりとだけど、確かに自分の脚で歩いている。  私がやろうとしていることを他の人が知ったら、きっと何故通りすがりの殺人者である少年の為にそこまでするのか、って不思議に思うだろう。貴方バカじゃない? って言うかもしれない。  あの事件が起きるまで私と俊とは何の関わりも無かった。俊の起こした事件だって全く他人事のお家騒動なのだ。そもそも亜希子は巻き込まれてトバッチリを受けた被害者だったのに……何で? それなのに何で私は今こんなことになって、こんなことをしているのか……って自分の胸に問いかけてみても、亜希子にはこんな答えしか思いつかない。それはきっと、私が私だから。  かなりの時間をかけて、ようやく京王線の北野駅まで辿り着く。家から30分くらいはかかったろうか。今にも起きて気が付いた両親が追って来て、連れ戻されてしまうんではないかと思いながら、新宿までの切符を買って自動改札を通る。  まだ朝早いせいかエスカレーターは動いていない。仕方なく手すりに捕まりながら階段を登ってホームまで行く。  広いホームにはまだまばらにしか人がいない。電車通学を始めた高校時代、それから短大へも、就職が決まった会社へも最初の4年間はこの駅から通っていた。  この駅には私の人生の一部が刻まれているんだ。なんて大げさな感慨に浸っている自分が可笑しくなってしまう。死期が近くなった人間だからそんなことを考えたくなるんだろうか。  今日も世界では戦争や災害で多くの人が亡くなっていて、こんな私一人がどうなったって些細なことなんだ……という思いもある。自虐的になっているというよりは、本当にどうでも良いことの様にも思う。  朝早いので電車の本数も少なくて、次の電車が来るまでに15分も待たなければならない。それまでに両親が探しに来てしまうのではないかと思い、早く電車が来ないかと思う。  そんなことを心配するくらいなら駅前のロータリーに止まっていたタクシーに乗ってしまえば良かったとも思うけど、タクシーだと運転手さんが私の顔色を見て具合が悪そうだと心配して、目的地まで連れて行って貰えないかもしれない。  でもそんな考えとは別に、今日亜希子はどうしてもこの駅から電車に乗って行きたいと思った。  やがてホームに通勤快速の電車が入って来る。空いているシートに腰を掛けると扉が閉まり、ホームが流れて行く。もう両親に捕まることは無いだろうと思う。  このまま終点の新宿まで行って、中央線に乗り換えて東京駅まで行き、そこから千葉へ向かおうと思う。  電車は多摩川を渡り、25歳の時に初めて一人暮らしをした府中駅に止まる。忘れもしないここに住んで1年くらい経った頃、あの朝発作が起きて、倒れて、私の人生が変わってしまった。その後何ヶ月か置きに八王子の病院へ検査を受けに行きながら5年間を過ごした頃も、この駅から会社へ通ってた。  ここも私の人生の一部なんだ。あの朝倒れたのはあの辺りだったろうか。と思う間に電車は走り出し、亜希子は微笑みながら府中駅を見送る。  電車は調布駅を過ぎて、明大前駅を過ぎる。時間はまだ7時前だ。電車が新宿に近付いて来ると、ふと亜希子は思った。少し会社の風景を見て行こうかな……でも心の奥で本当に見たいものが何であるのかは分かっている。  隆夫の姿をもう一度見たい。声は掛けなくてもいい、遠くからチラリと姿を見るだけでもいいから。隆夫がちゃんと生きて、歩いて行くところを見たいと思う。  そんな寄り道をしているうちに発作に襲われて倒れてしまったらどうしようとも思うけど、何をしようと私には全ての決定権があるんだから。私がそうしたいと思えば、そうするんだ。  電車内に貼ってある路線図を見て、日本橋への乗り継ぎを考える。  笹塚で都営新宿線に直通の電車に乗り換えて九段下まで行き、そこから東西線に乗って日本橋まで行くことにする。  電車が新宿に近付くに連れて乗客も増えて来る。笹塚駅で乗り換えて、九段下駅で降りる。さすがに人通りも多く、足取りがふらついて、気を付けていないと早足に歩いている人にぶつかってしまいそうになる。  身体が疲れない様になるべくゆっくりと歩きながら東西線に乗り換えて、どうにか日本橋駅へ着いたのは7時半頃だった。  今ならまだ出社して来る人はいないだろうから、会社の人に見つかる心配も無いと思う。ゆっくり歩いて、出社して来る隆夫が見られる場所を見つけて身を潜めていようと思う。  駅から地上へ出ると眩しい朝日が照り付けてくる。大きなビルの立ち並ぶ中をいつも通っていた道を歩いて行く。  住宅建築資材部のあるビルの通りを過ぎて、隆夫が勤めている大規模建築資材部が入ったピカピカのビルまで来る。  出社して来た隆夫はここからビルへ入って行くに違いない。そしてここを通る隆夫を見るには……あまり遠くだとよく見えないし、かといって近過ぎても私のことに気付かれてしまうかもしれない……。  と考えて辺りを見回した結果、ビルの入り口から斜め前にある歩道の植木の後ろに立っていることにする。距離的には凄く近いけど、隆夫が駅から歩いて来る方向とは反対側だし、こんなところで私が隠れて見ているなんて思いもしないだろうから、見つかる心配はないと思う。  社員たちが出社してくるまでにはまだかなり時間があるので、側のコンビニに行ってお茶を買い、そこにあるベンチに座って痛み止めの薬を飲む。  出来れば出社時間になるまで、ここで座らせて貰っていようと思う。もう10月だけれどまだ気温はそれ程下がらないので、寒さを感じなくて良かったと思う。  この後電車を乗り継いで房総半島まで行く段取りを復習したりしているうちに時間は過ぎて、そろそろかもしれないと思い、コンビニのベンチを離れ、ビルの入り口の斜め前にある植え込みの陰に立つ。  やがて背広姿の男や女性社員たちが出社して来た。次々にビルの玄関を入って行く。隆夫の姿を見損なわない様に目を凝らして一人一人を確認する。  そのうちに隆夫を大建部に引っ張って異動させた川原部長の姿が見えて来た。アッと思うとその後ろから川原部長に何か話しながら付いて来る隆夫の姿が見えた。  ……隆夫……間違いない……川原部長に話をして、機嫌を取っているんだろうか、川原部長に追従して行くことでしか隆夫が出世して行く道は無いから、一生懸命なのかな……。  みるみる近くへ迫って来て、亜希子のほんの数メートル先のところを他の社員たちと一緒にスーッと通り過ぎて行く。  隆夫……頑張ってね、上司のご機嫌を取ったりいろいろ大変だと思うけど、きっと会社の中心人物になって活躍して行くこと、祈ってるからね……。  川原部長に続いて隆夫の姿がビルの中に消えてしまうと、何かホッとした様な気持ちになって入り口を見つめている。  その時不意にビルから隆夫が出てきてこちらを見た。ビックリして思わず木の陰に背を向けると足音が近付いて来る「亜希子? ねぇ亜希子なの?」と呼ぶ。  こんな姿を見られたくない……俯いて身体を丸める様にしてそそくさとビルの反対側へ歩き出す。だが隆夫は後を追って来て亜希子の肩をつかむ。 「ねぇ、亜希子、亜希子でしょう? どうしたの? 心配してたんだよ」  走り出す元気は無いけれど、そのまま止まらずに歩く。隆夫は小走りに亜希子の前へ来て、亜希子の両肩をつかんで止まらせ、俯いた顔を覗き込んで来る。 「……やめてよ」  と振りほどいて顔を背ける。 「どうしたの? 住建部の人に聞いたら病気で暫く休んでるっていうから心配してたんだよ」  お見舞いにも来てくれなかったくせに……。 「もう治ったの? ねぇ……すっごい顔色悪いよ、ねぇ大丈夫なの?」 「何言ってんのよ、アンタそんなことしてる場合じゃないでしょ。川原部長のことひとりで行かせちゃダメじゃないの! ホラ、早く、部長のとこに行って」 「えっ……でも」 「私のことは心配いらないんだから、隆夫はこれから頑張って出世して行かなくちゃならないのよ、これから会社のことを背負って立つエリートなんだよ、自分の立場分かってんの? 皆隆夫に期待してるんだよ」 「……」  隆夫は急に現れた亜希子が何故そんなことを言い出すのか、理解出来ないという様にポカンと見つめている。 「いいから、頑張ってね、ホラ、早く行かないと遅刻するぞ、行って、早く! 行くの」  元気そうに言うことが出来た。本当はカラ元気だったけど、隆夫はそんな私の剣幕に気圧されたのか「う、うん。分かったよ、でも……」と戸惑っている。 「いいから! さぁ、はやく行ってらっしゃいっ」 「う、うん。また連絡するから」と言って心配そうに振り返りながら小走りに戻って行く。  隆夫の姿が見えなくなる。良かった……不意に込み上げて来るものがあって、慌てて側にあるビルとビルの間によろめいて入る。狭い地面があって空き缶や紙くず等が散らばっている。  そのまま両手をついて四つん這いになり、胸から顔に込み上げて来るものに備える。  地面に顔を擦り付けるとガクガクと震え出して、口から唸りが漏れだした。 「うっ……うっ、うっ、うっ、うううう~~~」  くちゃくちゃに顔が引きつったまま涙が溢れ出して行く。まだ身体の中にこんなに水分が残っていたのかと思うくらい、湧き出して、流れ落ちる。 「わあああああ~ああ~あ~あ~」  構うもんか……どんなに声を上げたって、通りすがりの人に聞こえたって、きっと仕事に行くところだし、皆自分のことで精一杯で、ビルの隙間で泣いてる女のことなんて、構っている暇なんて無いんだから。 「ああああああ~お~お~お~」  全部出し切ってしまおう。最後の一滴まで出してしまって。さっぱりしておいた方が良いんだ。 「わぁ~ん~わぁ~~ん~~はあああ~おおおお~お~お~おおおおおーーー!」  自分の声がまるで獣の唸り声みたいだ。かと思うとしゃくり上げて甲高く裏返る。 「はあああああーーあーあーはあああああー」  子供みたいに時々しゃくり上げては引きつりながら、終わるまで咆えるに任せている。  そのうちに治まるだろう。そうすればきっとまた勇気が出て、立ち上がれるに違いない。  朝の日本橋のオフィス街で、見知らぬ女の泣き声がビルの谷間にこだましている。    9  ビルの間から出て来ると、ふらつく足取りで地下鉄の駅へと戻る。最初の頃検見川浜から会社へ通っていた時のルートを辿って東西線で茅場町まで行き、そこから日比谷線で八丁堀へ向かい、八丁堀からは京葉線に乗って蘇我まで行き、そこから内房線に乗り換えようと思う。  無事に二回の乗換えをクリアして京葉線に乗ると、窓から東京湾の青が見えて来る。  検見川浜のマンションはまだそのままになっているだろうけど、もう寄り道している余裕はない。もうあそこへ戻ったって俊がいる訳もないのだし、まだ残っている荷物はお母さんたちが引き上げてくれるだろう。  通勤快速は検見川浜を通り越して、終点の蘇我駅までガタンガタンと激しく振動しながら突っ走って行く。  蘇我駅に着くと少し食べ物を買っておこうと思い、駅を出てコンビニに入り、オニギリのセットとサンドイッチとお茶のペットボトルを買う。  身体は大丈夫だろうかと心配してたけど、いつもより早いペースで飲んでいる痛み止めと座薬のお陰なのか、今のところは調子良く、痛みに襲われることも無かった。後はちゃんとあの診療所まで辿り着くことが出来れば。    食料を手に蘇我駅へ戻り、九重駅までの切符を買ってホームに入る。  内房線が走り出すと、他に誰も座っていないベンチシートに座って、身体を窓の方へ斜めに傾け、ぼ~っと外を眺めている。  こうして潮風に吹かれながら遥かに広がる海を見ていると、まるで休日をひとりで気ままに過ごしているみたいだなと思う。  コンビニで買ったオニギリセットを膝の上に広げ、手づかみで食べる。  蘇我から2時間程で電車は九重駅に到着する。降りたのは亜希子一人だった。  無人駅のボックスに切符を入れて外へ出る。  ほぼ1時間に一本しか来ない路線バスの時刻表を見ると、次のバスが来るまで20分くらいだった。  そっとベンチに座って身体を休め、ようやく来たバスに乗り込む。亜希子の他に3人程の乗客を乗せたバスは、この前と同じ様に山の中へ入って行き、曲りくねった車道を縫う様にして登って行く。  紅葉のシーズンには早いのか、山はまだ殆ど緑で、ところどころに少し薄くなった茶色い部分が出来ているくらいだった。  両側を森に囲まれて、右に左によろめきながらバスは走って行く。  窓から過ぎて行く眺めを見ていると、亜希子の心はまた時空を飛び越えて、今度は小学生の頃の遠足の光景が蘇って来る。  ……あの遠足は何処へだっただろう? 富士山? それとも群馬県の方だったろうか、あの時帰りのバスの中で理恵ちゃんが気持ち悪くなって、ゲロ吐いちゃって……何で今更そんなこと思い出してんだか、と自分に苦笑しながら揺れ動く景色を観ている。きっと今は自分が気持ち悪くなりそうで心配だから、そんなこと思い出してるのかもしれない……。  やがてバスは会沢診療所に最寄のバス停へ着いた。降りたのは亜希子だけで、バスが走り去ってしまうと辺りは森と畑だけで人影も無い。  2度目だから、こないだみたいに道に迷うことはないと思う。  少しフラフラして力が入らない様な感じだけれど、大丈夫、きっと診療所までは行けると思う。  身体が疲れない様にゆっくりゆっくり進みながら、やっと診療所が見えるところまで来ることが出来た。  震えだす脚を無視する様にしっかりと歩かせ、一見普通の一軒家な建物へと近づいて行く。表にはこの前越川が乗っていた自転車が止められている。  玄関の前まで来て、ごめんくださいと言って扉を開く。 「はい、どうぞ~」  と奥から会沢所長の声がするので、靴を脱いで上がり、廊下を歩いて診察室の扉を開く。 「あのう、その節はありがとうございました」  と言いながら中へ入ると、机に座って書類を書いていた会沢所長が「はぁ?」と言いながらこちらを振り向いた。 「あのう、先日こちらに来ていた時に急に貧血を起こしてお世話になった者なのですが」  と言うと、所長はちょっと思い出す様な顔をして。 「あ~あ~そうでしたかそうでしたか、今日はまたどうなさいましたか?」 「いえ、またこちらに来る予定があったものですから、一言先日のお礼をと思いまして」 「それはわざわざどうも、どうぞお座り下さい」  と診察用の椅子を勧めてくれるので腰を下ろす。 「何かお顔の色がお悪い様ですけど」 「はい、近頃体調を崩して寝込んでおりましたものですから、でも大丈夫ですので……」  等と話しながら、越川は何処にいるのだろうと辺りを見回す。また回診に出ているのだろうか、表に自転車はあったのに。と思っていると、窓の外で長靴に軍手をした男が何やら庭仕事をしているのが見える。  アレがそうだろうか、と思っていると、その男は庭側の窓から奥の部屋へと入って行く。チラッと横顔が見えた……アイツだ。思わず震え出しそうな身体に力を入れる。  足音がして診察室のドアを開けて越川が入って来た。 「先生、そろそろ河野さんのところへ伺おうと思いますので」 「あ、ハイ分かりました」  会話の途中、チラッと亜希子の顔を見た越川の目が物凄く恐い。  亜希子は立ち上がる。 「どうも、その節はお世話になりました。たまたま近くを通り掛かったものですから、一言先日のお礼を言いたいと思いまして」  となるべく何気ない風を装って越川に言う。 「ああ、そうでしたか」  と答える越川の顔が心なしか引きつっている様に見える。 「それから、あの時帰り道に見た、この先の東京湾の眺めが忘れられなくて、どうしてももう一度、あの景色が見たいと思いまして、今日来ました……」  と自分の目玉にじっと越川から目線を逸らすことを許さずに言う。伝わっただろうか。 「ああそうでしたか、それはわざわざどうも」と言って再び亜希子の顔を睨んだ後、何もなかった様に隣の部屋へ入って行く。  亜希子はもう一度会沢所長に丁寧に礼を言って、診療所を出る。  表に止めてあった自転車がない。越川は何処だろうと見回しながら、森への道を歩いて行く。  その時不意に胸の奥で痛みが起きて来て、それはみるみる腰の辺りにまで広がって来る。  痛い……ああ痛い痛い……。  立っていることが出来なくなってしまい、道端に手を着いてしゃがみ込んでしまう。深呼吸して身体を持ち直そうとする。 「おばちゃん?」  と言う声に驚いて振り向くと、ランドセルを背負った小さな女の子が、心配そうな顔をして亜希子を見ている。 「どうしたの、お腹痛いの?」  小学1年生か2年生くらいだろうか。なんて可愛らしいんだろうと思う。 「あのね、私のうちはお医者さんだからね、呼んで来てあげようか?」 そんなことをされてはまずいと思い、無理やり笑顔を作る。 「大丈夫だよ、ありがとうね、おばちゃん大丈夫だから……」  と言ってふらつく足に力を入れて立ち上がる。 「貴方お名前は?」 「あ、い、ざ、わ、さ、お、りっ」  会沢先生のお孫さんだろうか。 「さおりちゃんて言うの? 優しいんだね、どうもありがとう」  と頭を撫ぜてあげる。 「でも早く帰らないとお家の人が心配するよ」 「うんっ!」  と頷いてクルリと向きを変えると、タッタッタッと診療所の方へ走って行く。  きっと私に最後の力を与えに来てくれた天使なんだろうと思う。  小さな後姿を見送った後、よしと踏ん張って歩き出し、目的の場所を目指して行く。ここで頑張らなきゃ、あと少し、もう少しなんだから。  力を振り絞り、痛みにうな垂れてしまいそうになる上半身を奮い起こして歩いて行く。時々道端の木に手をついて身体を支えながら、体勢を立て直しては歩く。  そうこうしながらどうにか森の入り口まで来ることが出来た。辺りに人影はない。入って行くと木々の間から東京湾の青が広がって来る。絶壁の近くの木まで来て、もたれ掛かる様にして腰を下ろすと、今来た道を振り返る。  辺りはしんと静まっており、崖下からはザザーンと岩に当たった波が砕ける音が響いて来る。  大きな木に身体を預けながら、その音を聞くとはなしに聞いている。  そのうち波の音に混じって自転車の音が近付いて来る。ブレーキを掛けてガシャンとスタンドを立てる。そして木々の間から姿を現した越川が、まるで落ち着き払った足取りでこちらへ向かって来る。  ここまでは予定通りに来た。今更になって出来る訳が無いと心が動揺しそうになるのを押し留めて、絶対やるのだ。もう決めたことなのだから、ここまで来てやめることなんて出来ないんだから、と気持ちを一色にする。 「おい」  近くまで来た越川が、木に寄り掛かっている亜希子の前に立つ。 「どういうつもりだよ。これ以上俺たちに構うなって言っただろ。まさか金でも要求しに来たんじゃないだろうな」  亜希子は肩に下げていたバックを開き、中から用意しておいたノートを出して、越川の前に突き出して見せる。 「何だよ」 「……このノートには、今までのことが全部書いてあるのよ」 「何がだよ」 「あの日、私のアパートに逃げて来た俊一君と、私が過ごして来た4ヶ月の間のことが、全部事細かに記録してあるのよ」 「……それで?」 「貴方のことも、今まで貴方が俊一君にして来たことも、全てが書いてあるのよ。エリート教育の為に俊一君に暴力を振るっていたのは詩織さんではなくて、貴方だったことも。俊一君がお母さんを刺してしまったのは、詩織さんが俊一君を厳しく教育しようとしていたせいではなくて、俊一君に暴力を振るっていたのは全て貴方で、俊一君が詩織さんを刺してしまったのは、貴方が俊一君を追い詰めたのが原因だったということも書いてあるのよ」 「……」 「いい? これが公になれば、本当に悪いのは貴方だということが世間に公表されるのよ」 「……だからどうだっていうんだよ。そんなのは全部お前の想像したことだろ」 「貴方は詩織さんを愛してなんかいなかった。貴方が欲しかったのは、詩織さんの実家の総合病院だけなんでしょう」 「……」  越川は半ば絶句した様に目を見開いて、亜希子のことを睨んでいる。 「貴方は誠実で優しい医者なんかじゃない、本当は学歴が低い劣等感で一杯で、世間に卑屈に媚を売ってしか生きられない卑怯者なのよ」 「……それで? 俺にそのノートを買えって言いたいのか? 悪いけど俺もこんな有様だからな、金なんかちっとも持ってないけどな」 「お金なんか要らない。私は世間や警察に貴方のして来たことを全部知って貰って、俊一君に貴方とは決別して、ちゃんと自分の人生を歩いて行って欲しいと思ってるだけ」 「それで、どうしようって言うんだよ。そんなこと誰に話したってお前の言うことなんか相手にしちゃくれないと思うけどな」 「そうですね。このノートを見せただけじゃ、私の言うことなんて誰も聞いてくれないかもしれませんね」  亜希子はノートを持った手を思い切り断崖の方へ振り、ノートを下へ放り投げる。  バサッと音がしてノートが崖下へ舞い落ちて行く。  訳が分からずに見ている越川を見ながら、亜希子はよろよろと立ち上がる。 「でも……今私がここから飛び降りて、私の死体の側であのノートが発見されたとしたらどうですか……それに私が死んだ時、すぐ側には俊一君の父親である貴方がいたのだとしたら……あのノートを私が書いたことは確かだし、警察が事実関係を調べれば、ノートに書いてあることが全部事実だったということは、明白になると思いますけど」  じっと越川を見据えながら、亜希子は一歩ずつ後ろへ下がる。 「私はね……身体の中に悪性の腫瘍が出来ていて、手術したけど他にも転移してて、もう助からないんです。どの道長くは生きられないんですよ……だから私は、自分の命を使って、世間に貴方の正体を暴いて、俊一君を助けてあげたいと思うんです」  ここでよろければ落ちてしまうのではないかと思うくらい、亜希子の身体は崖縁に近付いて行く。  ようやく亜希子が本気なのかもしれないと思った越川は、顔色を変える。 「ちょっと……待ちなさいよ、貴方、そんな早まったことをしてはいけないよ、貴方はどうかしてるんだよ、私たち親子なんかの為に貴方がそこまでする必要は無いじゃないか。いいですか、私の言うことを聞きなさい」  越川は急にあの誠実で思いやりのある面に変わって、亜希子に歩み寄ろうとする。 「来ないで下さい。私はもう、いいんです。こんなことしたくなかったけど、貴方にはもう、俊君から離れていて欲しいんです、お願いします」  そう言いながら本当は自分にはそんな勇気が無いことを、本当は恐くて、飛び降りる前に越川に止めて欲しいのだということを、完璧に演じる。でも半分は本当にそんな気持ちがあることも分かっている。 「貴方ね、どんなに悪いのか知らないけど、今は医学が進歩してるんだから、きっと生き延びる道だってあるんだから。ねっ、希望を捨ててはいけないよ。きっと私も力になりますから、ねっ、約束しますから」  貴方が本当にその部分だけで出来ている人だったとしたら、俊も詩織さんもどんなにか幸せな人生を送ることが出来たかもしれないのに……。 「私……私……」  吸い込まれそうに遥かな海に背を向けて、崖の縁に立ちながら、亜希子は閉じた目から涙を溢れ出し、うううう……と呻き声を漏らす。 「大丈夫だから、ね、何も心配しないで、きっと私が力になってあげますから……ね、ねっ……」  と言いながら近付いた越川が亜希子の腕をつかんだ瞬間、亜希子は越川の身体に両腕を回す。  抱き付いた亜希子はそのまま足を前へ踏み出して、渾身の力を込めて後ろへ引っ張る。 「わっ、バカ、何するんだ!」  一歩……もう一歩。 「お、おい、やめろ、バカやめろ、やめろっ、おいっ……」  ……まだか……もう一歩、あと一歩……そこに地面は無かった。後ろへ反り返る様にして、越川を抱きしめたまま倒れて行く。 「うわああああああー!」  越川の絶叫と同時にズザッと音がして、ガガッと岩か木に身体をぶつけて跳ね上がり、ビュウゥーーと凄い風が吹き上げて来る。違う、私が落ちてるんだ。越川も落ちたろうか、落ちた……きっと落ちた……。  ザッバーン! 衝撃と共に何もかも消えて無くなる。    エピローグ  抜ける様な青空の下。色とりどりのチューリップやアネモネが爽やかな風に揺られている。遠く潮騒を聞く花々に囲まれて、会沢診療所は春を迎えている。あれから10年の歳月が過ぎた。  かつてほんの短い期間だが、ここに勤務していた越川康弘医師が整備していた花畑は、今年も変わらず美しい花々を咲かせている。  診療所には、今日も付近に住むお年寄りたちが集まっている。  だが老人たちは診察を受けるでもなく、ガヤガヤと談笑を繰り広げている。  そんな中で今年79歳になった会沢医師は、手持ち無沙汰を誤魔化す様に診療日誌を書いている。 「ただ今戻りました」  元気な声に老人たちはおっと声を上げて、入り口に注目する。  ドアを開けて入って来たのは27歳になった越川俊一だった。 「お帰りなさい若先生」「待ってたんですよ」老人たちは話すのをやめて俊一に声を掛ける。 「なんだお爺ちゃんたち、また集まっちゃってしょうがないなぁ」 「朝からこの有様なんだよ、何とかしてくれたまえよ越川君」 「困りましたねぇ」  と言いながら俊一は、目の覚める様に晴れやかな笑顔を浮かべる。 「またそんなぁ。あたしら待ってたんだからぁ」  老人たちの目は嬉しそうに輝いている。 「もう皆さん診察なら会沢先生に診て頂いた方が確かなんだからねっ」 「オラ嫌だこんな老いぼれに診て貰うなんて」 「そうだそうだ」  言われ放題な言葉に温厚な会沢も思わず渋面を作る。 「オホンッ! アンタに老いぼれだなんて言われたくありませんねぇ」 「おっとこりゃ失礼、でもわし等は若先生が目当てで来てんだから」 「そうよぉ」 「それじゃ、アタシが一番だから診て貰おうかね」  と農作業の途中で来た様な老婆が立ち上がり、嬉々として診察用の椅子に腰掛ける。 「お婆ちゃん昨日も来てどこも問題無いって言ったでしょ、そんなに毎日来なくたって元気が有り余ってるくせに」 「いやぁね、朝からちょっと立ちくらみがするもんでさ、血圧でも測って貰おうかと思ったもんだからねぇ」 「またそんなこと言ってえ」  と言いながら老婆の腕に血圧計のベルトを巻き着ける。 「だって、若先生に診て貰わにゃあ一日だって安心して暮らせないんだもの」 「そうだそうだ」  と他の老人達も言う。 「キヨ子婆ちゃんだってそんなにお元気なのに。きっとあと20年はピンピンしてると思いますよ」 「いゃあだわたし、若先生の顔毎日見ないと死んじゃうもの!」  どっと笑いが起こる。去年から赴任して来た俊一の人気振りには、会沢も感心するのを通り越して半ば呆れてしまっている。仕方なくゴホンと咳払いをして、また日誌に目を落とす。 「しっかし会沢先生よぉ、本当に良かったよなぁ、もし若先生が来て下さらなかったらよぅ、この診療所も無くなってたとこだもんなぁ」  村の人々は俊一が来てくれたことを心から喜び、俊一はお年寄りたちからアイドルの様な存在に祭り上げられているのだった。  この診療所が無くなると芳辺谷村は無医村になってしまう。会沢は老体に鞭打って頑張って来たのだが、来年は80歳を迎える寄る年波には抗うことも出来ず、どうしたものかと思っていた。  50歳になる会沢の息子も医者なのだが、同じ家に住んではいても長年他市にある総合病院に勤務しており、会沢の後を継いで診療所をやって行こうという気はまるで無かった。  10年前に会沢は、都内の大学病院で医局長をしていた友人から、越川康弘という医師を紹介された。  だが、会沢はその時越川が抱えていた特殊な事情を知り、初めは躊躇していたのだが、一度だけでも会ってやって欲しいという友人の頼みから、面談したのだった。 「私にもう一度医師を続けて行くチャンスを貰えるというのなら、私は生涯賭けて勤め上げ、ご恩返しをさせて頂こうと思います」と越川は涙を浮かべて言った。  会沢は越川の身体中から溢れ出る誠実さを感じ、心を打たれた。また家族が悲劇に見舞われてしまった境遇にも同情して、勤務して貰うことを了承したのだった。  だが、そうしてやっと診療所を続けて行ける後継者が見つかったと思い、越川への信頼も出来つつあった矢先に、越川は診療所の先にある断崖で、飛び降り自殺を図った女性を救おうとして巻き込まれ、転落死してしまったのだった。  それから10年が経ち、さすがに体力の限界を感じていたところへ、昨年また思いがけず、越川の息子で医大を卒業したばかりの俊一が、父の意志を継がせて下さいと言って、研修医として勤務を希望して来てくれたのだった。  10年前の10月13日。芳辺谷村付近の断崖の下の岩場で、越川康弘と倉田亜希子の遺体は発見された。  警察は亜希子が所持していたキャッシュカードから身元を確認し、家族に連絡を取ったところ、亜希子は末期癌に侵されており、余命幾ばくもない身体であったことが分かった。  また亜希子の着ていたコートのポケットからは遺書が発見された。  警察は亜希子が病を苦にして自殺したのだろうという判断を下した。一緒に転落したと思われる越川医師については、自殺しようとしていた亜希子をたまたま見つけ、止めようとして揉み合っているうちに一緒に転落したのではないかと思われた。  生前の越川を知る人たちは「普段から思い遣りのある素晴らしい先生だった」「如何にも優しいあの先生らしい」と、自分の命を犠牲にして亜希子を助けようとした越川の勇気に賛辞の声をあげた。 「若先生のお父さんも立派な人だったけど、さすが息子さんも素晴らしいねぇ」  この村での俊一の人気は、そんな立派な父親の息子だということでも裏付けされているのだった。  芳辺谷村の住人の中で、俊一が母親を刺殺して少年院に入院していたということを知っているのは会沢だけだった。  その会沢も越川康弘は立派な医師だったと思っており、度重なる越川の悲劇に胸を痛めた。会沢が俊一のことを思う気持ちには、そんな思いも結び付いているのであった。  亜希子の身に付けていたコートから見つかった遺書には、次の様に書かれていた。 『お父さんお母さんごめんなさい。でも私は病気を苦にして死を選んだ訳ではありません。本当です。お父さんとお母さんに育てて貰って本当に感謝しています。私の方が先に人生を終えることになってしまって申し訳ないと思うけど、信じて下さい。私は精一杯生きました。私が何故こういう道を選んだのか、いつかお父さんたちにも分かる日が来るかもしれません。私としては前向きにこの道を選んで行動したのだと思っています。今は分からないかもしれないけど、どうかお願いです。貴方たちの娘の言うことを信じて下さい』  警察は、自殺する直前に診療所を訪れていた亜希子が、その一月ほど前にも訪ねて来たことがあるという会沢の証言から、亜希子が診療所付近の断崖から投身自殺を図ったのは、以前に来て知っていたので、その場所を選んだのではないかと判断した。  また転落した二人とは少し離れた場所で発見された一冊のノートは、亜希子が所持していた物と思われた。  両親によれば、それは亜希子が学生時代に使っていたノートであり、自宅の二階にある亜希子の部屋の押入れにあった物を持ち出したのだろうということだった。  ノートには学生の頃授業で黒板を書き写したと思われるメモ的な内容だけが書かれており、自殺するに当たって何故そのノートを持ち出す必要があったのかは不明だった。  俊一は集まっていた老人たちの診察を終え、ようやくお引取りを願った。老人たちが帰ってしまうと、診療所の中は灯が消えた様に静かになる。 「ただいまぁ!」  俊一が夕方の回診へ向かおうとしていた時、勢いよくドアを開けてセーラー服を着た可愛らしい少女が駆け込んで来る。 「沙緒里ちゃん。帰って来るのはこっちじゃなくて母屋の方でしょ?」  高校が終わると必ずと言っていい程沙緒里は母屋ではなく、診療所の方へ顔を出す。 「表に若先生のチャリがあったから、何かお手伝いすることないかと思って」  弾ける様な笑顔を向けられて、俊一は眩しそうに顔を背けてしまう。 「沙緒里ちゃん。いつもまっすぐ帰って来ないで、部活とか、お友達と遊びに行ったりしないのかい?」 「へへっ、だって友達といてもつまんないんだもーん」  と恥じらいを誤魔化す様に言う。 「ふふ……俊一君が来るまでは診療所を手伝おうなんてひとことも言ったことなかったのにな」  と会沢も苦笑を漏らす。 「煩いよーお祖父ちゃんはもう~そんなこと言うともう手伝ってあげないからねっ」 「それじゃ沙緒里ちゃん。神山村の西本さんの風邪薬を届けに行くの、頼んでもいいかな」 「はーい」  沙緒里はまるで宝物の様に俊一から薬の袋を受け取ると、タッタッと風の様に駆けて行く。  俊一はふと、沙緒里を見送る会沢の横顔を見た。それは孫娘を心配している祖父の顔だった。 「……まだ高校生ですから、きっといろんなことに興味があるんでしょうね。そのうち大学へでも通う様になれば、診療所とか僕のことなんて吹っ飛んでしまうと思いますよ」  俊一の目線に気付いた会沢は、ハッとした表情を浮かべる。 「いや、越川君。違うんだよ、そうではなくてね……」  と慌てて取り繕う様に言う。 「大丈夫です。ちゃんと分かっていますから、何も心配しないで下さい」 「いや、本当にそうじゃないんだよ、私は……」 「では、吉山さんの回診の時間に遅れますので」  と遮る様に言うと、回診用の鞄を持って部屋を出て行く。  外で俊一の自転車が走って行く音を聞きながら、フゥーと溜め息をついた会沢は、ふと診察室の壁に飾られた一枚の水彩画を眺める。 『永遠』と題されたその絵には、東京湾をバックに海辺でキスしている男女のシルエットが描かれている。  それは俊一がアパートで描いていたのを沙緒里が見つけ、俊一が嫌がるのを無理に持ち出して額に入れ、飾ったものだった。  越川康弘の死を俊一が知ったのは10年前、家庭裁判所による審判を前に鑑別所に入っている時だった。  担当の係官から父の死と、その時父が助けようとして共に落下した女の名前を聞かされた時、俊一の胸にはどの様な思いが去来しただろうか。  凄まじい叫び声を上げたかと思うと放心状態になり、押し黙ったままどんな問い掛けにも応じることは無かった。  精神に異常を来たしたのではないかと思われたが、数日後容態が落ち着いた俊一は、それまで語っていた母親殺害に至る供述を翻して、実は鬼の様に厳しく教育に当たっていたのは母ではなく、父親の康弘の方であったということを告白した。  真実を語り始めた俊一は、まるで心理学者が客観的な精神分析に当たっているかの様に、冷静かつ明晰であり、実に淡々とした口調であったという。  自分が母親を刺したのは、恐ろしい父親には逆らうことが出来なかった為に、優しかった母への八つ当たりであったと語った。  母は決して鬼の様な人ではなく、いつも自分のことを思ってくれる優しい母だったとも語った。  係官たちはその時始めて、殺された母親は厳しく教育に当たっていたのではなく、実は俊一と共に夫の康弘から日常的に暴力を振るわれていたのだということを知ったのだった。  それ等の事を俊一が係官たちに語った日の夜。就寝後の灯りの消えた鑑別所に、単独室からすすり泣く俊一の声がいつまでも響いていたという。  だが、俊一は母を刺して自宅を出てから、4ヵ月後に中央区の交番に保護されるまでの経緯については、ホームレスに助けられながら転々とし、やがて悪い連中に捕まったところを逃げて来たという、当初の証言を変えなかった。  家庭裁判所は俊一が自ら真相を語り、深く反省している態度を考慮した結果、検察庁へは送致せず、中等少年院への入院という裁決を下した。  少年院に入ると俊一は、愛知県で病院を経営している祖父母に宛てて手紙を書き、事件の前まで俊一の家庭内で起こっていたことや、事件の起きた経緯について正直に全てを告白した。そして犯してしまった罪に対する後悔と、祖父母に対する謝罪の気持ちを書いた。  それまで俊一のことを孫ではなく、娘を殺した犯人と言う認識でしか見ることの出来なかった祖父母たちは、重ねて送られて来る俊一の手紙によって、娘の死の真相を知ることになった。  また訪ねて来た家庭裁判所の係官から、俊一が心から自分の犯した罪を反省し、更生に努めているという報告を受けるに及んで、祖父母は少年院に出向いて俊一と面会することを決めた。  そして面会した時「これから一生掛けて償いをしたいと思います」と言って俊一が深々と頭を下げるのを見るに及んで、祖父母は保護者として俊一の退院後の引受人になることを了承した。  1年の入院期間を経て俊一は仮退院し、祖父母は俊一を愛知県日進市の自宅に連れて帰った。  一緒に近くにある詩織の墓を訪れた時、俊一は墓石に縋り付き、大声を上げて泣き崩れた。  放っておけばいつまでもそうしていたであろう俊一の姿に、詩織の父と母は初めて、心が救われるのを感じた。  日進市で暮らすことになった俊一は、祖父たちが大丈夫かと心配になるくらいひた向きに勉強し、高卒認定試験(高等学校卒業程度認定試験)に合格した。  そして国立の医大へ入り、6年間の課程を経て、医師国家試験にも合格した。  だが俊一には祖父の経営する病院を継ぎたいという意志はなく、卒業するとすぐに上京し、房総半島へと会沢診療所を訪ねて行ったのだった。  芳辺谷村の畦道を息を切らせながら沙緒里が走って行く。俊一に言付かった風邪薬を胸に抱きながら。  沙緒里は知っている。若先生は他の人には見せない様にしているけど、老人たちから「ありがとう」と言葉を掛けられる度にふと、顔に暗い影が過ぎることを。  それはとても辛そうで、まるで深い悲しみの中にいる様な、苦しさを感じる表情だった。  それが何なのかは分からない。けれどいつもの晴れやかな表情とはあまりにもギャップがあって、若先生のそんな表情を見る度に、沙緒里も何か居た堪れない気持ちに襲われてしまうのだった。  沙緒里は隣村で待っていた患者さんに薬を届けた後、診療所へ戻る途中、森の近くを通り掛ってふと立ち止まった。  微かだけれど、森の中から人の咽ぶ声が聞こえて来る……。  風の音に混じって響いて来るその小さな声を聞き分けることが出来るのは、この村の中で沙緒里だけだった。  沙緒里は歩いていた道を外れると、そっと足音を忍ばせて森の中へと入って行く。  やっぱり……木陰に身を隠しながらそっと見ると、海に向かって腰を下ろし、肩を震わせて泣いている俊一の姿がある。  沙緒里は知っている。若先生は時折りここへ来て、人知れず声を殺して涙を流している。  それは去年の10月のことだった。10年前に若先生のお父さんが転落死した命日に、自殺を図って一緒に転落した女の人の御両親が来て、ここで若先生と一緒に海へ向かって花束を投げているのを見た。  三人は始めのうち悲痛な顔をしていたけれど、花束を投げた後、並んで海に向かって手を合わせると、最後には笑顔になって談笑していた。それはとても不思議な光景だった。  亜希子の両親は、俊一が少年院を退院し、祖父母に引き取られて暮らしている時に、愛知県の日進市を訪ねて来た。  それは娘の道連れにして父親を死なせてしまったことを、俊一に詫びる為だった。  二人は俊一の前に並んで両手を着き、言葉を尽くして謝罪の気持を述べた。だがその時、俊一の身体がガクガクと震え出し、遂には泣き崩れてしまうのを見て、二人は唖然としてしまった。  それまで俊一は、亜希子との関わりについては誰にも語らなかった。それはずっと以前から暗黙のうちに出来ていた、亜希子との大切な約束の様に思っていた。  だが、亜希子の両親と相対し、謝罪を述べる二人の心痛な顔を見ているうちに耐えられなくなり、両親にだけは亜希子とのことを語ってしまった。そして両親はその時初めて、娘の遺書に書いてあったことの意味を理解したのだった。  沙緒里が見ていることにも気付かずに、若先生はここからでも分かるくらいに激しく肩を震わせて、時々涙を拭っている。  沙緒里は始め、若先生がここで泣いているのは、10年前にここでお父さんが死んでしまったからだろうと思っていた。  けれど最近では、若先生が泣いているのは、そんな悲しみだけではなく、何か他に、もっと強烈な苦しみがあって、それに耐えているのではないだろうかと思っている。  それが何なのかは分からない、でも沙緒里は思っている。いつかきっと私に胸の内を話して欲しい。先生はいつも私を子供扱いにするけれど、私だってもう身体は大人の女の人と変わらないんだから。胸だって、自分で触ってみても不思議なくらいに、こんなに大きいんだから。  いつか若先生に、私の胸に顔を埋めて泣いて欲しい。そうしたらきっと私は、先生のことを身体中で包んであげて、どんなことでも受け止めて、先生の力になってあげる……。  俊一は生涯自分が許されることは無いと思っている。あんなに優しかったお母さんを殺してしまった自分……。  絶対に取り返しのつかないことをしてしまった自分には、これから死ぬまで、一瞬たりとも救われることは無いと思っている。こうして自分が生きていることを思う度に、もっと苦しまなければ、もっと償わなければという気持ちだけが起きてくる。  自分のことをどんなに責めても、苦しめても苦しめ足りない。生涯足りるということは無い。そう自分に言い聞かせている。  なのに、まるでそんな気持ちに抗うかの様に、胸の奥から湧き出てしまうこの勇気は何だというのか……。  そんなことは無い、僕は生涯生きることに喜びを感じることなんてあってはならない! なのにその気持ちを押し退ける様にして次から次へと胸の奥から湧いて来てしまう勇気を、自分で止めることが出来ない。  それが身体に納まりきれない激情になって、涙が溢れ出てしまうのだ。 「アキコ……ねえアキコ! 僕は許されて良いの? 良い訳ないよね? そうだよねアキコ、ねぇ、アキコ、ねぇ何か答えてよ……」  止め処もなく湧き出て来る勇気と呼応するかの様に、青い青い東京湾の彼方から、いつ果てるともなくさざ波が、俊一の元へ寄せて来ている。                             おわり        
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