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私はパーキングまで来ると、車を停め、首吊り用のロープと踏み台を持って青木ヶ原の原生林に入った。栂や檜や赤松など針葉樹が夥しく森々と混生して枝葉で日光の大部分を遮り、昼間なのに薄暗い。それに遊歩道がない所だから誰もいない。哺乳類や鳥類が豊富にいる富士山周辺でも山地帯でもないから小鳥の囀りが時折聴こえるものの静かで樹齢千年は越えようかという大樹には神が宿っていそうで神秘的だ。
自殺の名所と言われるだけのことはある。やっぱりここで死のうと思いながらも、さっき願いが叶ったことに肖りたい気持ちが生まれて私は再度、神頼みした。さっきよりいいことが起こりますようにと。何らかの奇跡を、自分を生かしてくれるような奇跡を心の奥底で秘かに期待する自分がまだ居座っていたのだ。そうして手を合わせて祈っている時だった。
「富士を見よ」と言う声が漏れ差す日光に乗って聞こえた気がした。
天のお告げ!?空耳とも思ったが、富士山を見れば、何かが起こる。そう私は信じてロープと踏み台をその場に一先ず置き、樹海を急いで出て車に向かうと、ロレンツォがパーキングの前を通りかかった。
「おう!さとみさん!また会いましたね!」と彼が私に気づくなり呼びかけたのを良いことに私は車に乗るのを止めて彼と一緒に富士を見に歩いて行こうと思い、「富士山見に行くんでしょ」と声をかけ返した。
「はい。もう直ぐ見えます」
「そうね、私も見に行くの」
「そうですか。一緒に行きますか?」
「ええ」
私はロレンツォと並んで歩いて行く。自然と心が繋がったような気がする。国道から遊歩道に移り、こんもりと丘になっている見晴らしの良い所まで出ると、常緑樹の緑と所々で黄葉紅葉するミズナラとが見事に調和し、大地に血管の如く木々の根を張り巡らしているであろう、広大な青木ヶ原の向こうにそれと碧空とに調和して雄大に聳え立つ富士山を眺めた。秋晴れで空気が澄んでいるお陰で白銀が一段と神々しく光り輝き、なだらかに伸びる稜線が濃厚にくっきり見える。
「わあ!絶景ね!」
「ぜっけい?」意味が分からなかったらしくロレンツォは私の顔を窺った。「さとみさん、いい笑顔」
「えっ」私がロレンツォと顔を合わせると、彼は陽光をすべて集めたようなきらきらした笑顔で言った。
「私、日本に来て初めて見ました」
「何を?」
「大人の自然な笑顔」
「わ、私」と私が自分しかいないのに自分の顔を指差すと、ロレンツォは言った。
「私、さとみさんの笑顔、好きです」
「そ、そう・・・」賞賛と告白の言葉を噛みしめ、その有難さに思わずうるっとして頗る嬉しくなるも私の手を取って握りながら私の顔を見つめて急激に迫って来るロレンツォに半ば戸惑ったのであるが、これが私の運命を劇的に変えるきっかけになる手応えを十二分に感じて込み上げて来る喜びに震えた私は、彼に心を委ね身を任す内、自然の成り行きで熱いキスを交わすに至った。その時、風に靡く周囲の木々が木の葉をそよめかせ、祝福の声を上げているように感じ取れた。
私たちは異国人同士でも心の垣根も柵も超えて全面的に互いを受け入れたのだ。だから私は生きることになった。嗚呼、なんてことなの。この奇跡は樹海と富士山と神様と、そしてロレンツォのお陰。
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