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 「狼信仰、ですか……?」  初老の博物館職員は、物珍しそうな目で池上を見た。名札には岡谷真一と書かれている。  城島と話したあと、横浜にある歴史博物館を訪れてみた。ダメ元で、古来からの宗教に関して話を聞きたい、と受付で頼んだところ「宗教学を多少かじったので、ある程度なら」と言いながら彼が現れた。見たところ客も少なく、余裕があったのだろう。  「私はフリー・ジャーナリストの田辺章といいます。いずれ、日本特有で古来から伝わる信仰について掘り下げた物を書きたいと思っていまして、参考にさせていただければ……」  偽の名刺を差し出しながら言った。  岡谷はそれを受け取ると、抱えてきた資料をテーブルに置く。ロビーの端、窓側のイスに座り、2人向き合う形となった。  一生懸命な様子で資料をめくる岡谷。突然の取材になんとか対応しようと、思案している。  公安捜査官は何かになりすまして情報を嗅ぎつけ引き出すのも仕事の内とはいえ、善良な相手を欺いていることに、池上は少し後ろめたさを感じた。  「狼というと、どんなイメージをお持ちですかな?」  ようやく話の糸口を見つけたらしく、岡谷が質問してきた。  「そうですね」と今度は池上が考え込む。だが、長くはならなかった。なるべく早く話を進めたい。「いいイメージと悪いイメージとそれぞれあって、その差が極端な気がします。たとえば『一匹狼』とか格好良さを感じさせるものもあれば、童話の赤ずきんや3匹の子豚では、ずるがしこく恐ろしいイメージで、まさに悪役ですし」  「なるほど。確かに違いますね。それは、地域性もあるのかもしれません」   「地域性?」  「仰られたように、赤ずきんや3匹の子豚では悪役です。どちらも西洋の童話ですね。北欧神話に登場するフェンリルは神々と敵対する狼の怪物として描かれ、中世ヨーロッパにおいてはジェヴォーダンの獣や狼男など、狼が元となるような未確認生物が人間の敵として登場します」  狼男、という言葉に微かに息を呑む池上。岡谷には覚られなかったが、やはり意識してしまう。続けて話す彼に意識を戻した。
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