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病院にて
晴美に帰って報告すると、晴美はびっくりし、そして怒鳴りつけた。
「なんで病院にすぐ行かないの!」
「もう遅いから見舞いは明日にしようかなって」
晴美に怒られ、劇団に連絡しなければいけないことを思い出した。
「まず行って、その目で先生を確認しなきゃだめでしょ!」
ほんっとにぼーっとしてんだから! と晴美は目に涙まで浮かべて訴えた。
「明日会社休むわ、わたしも行く」
こうしちゃいられない、と晴美は紙を取り出し、メモをしだした。
晴美の取り乱しぶりを、ただ眺めていることしかできなかった。滝村先生の部屋のこと、そしてノートのことはいわなかった。
楽屋裏は絶対に見てはいけない。俺は破った。
次の日、晴美と連れ立って病院へ向かった。八人部屋の窓際のベッドで、滝村先生は眠っていた。
「おー、なにしにきた」
滝村先生は、少しろれつがまわっていなかったが、晴美を見ると、手を伸ばし、晴美の手を握った。
「おひさしぶりです」
晴美は目に涙を浮かべていた。死に際の対面じゃないんだから、と俺は思った。確かに滝村先生はいつもより弱々しく映ったが、目つきは鋭く、確かだった。
「すまないけどな、お茶買ってきてくれないか」
と滝村先生はいい、はい、と晴美は病室から出て行った。
「あいつ帰ってくるまでに、これ、処分してきてくれや」
と指をさしたベッドの下に、しびんがあった。
「晴美にこんなもん見せられねえ」
俺は笑った。やっぱり滝村先生は最高にかっこいい。というか、こんなになってもそういうことを気にしてやがる。
「はいはい」
俺は部屋を出た。これ、便所に流せばいいんだろうか、とうろうろしていたら、通りかかった看護婦さんに声をかけられ、しびんを渡した。
病室に戻ると、晴美と滝村先生は手を握り合って談笑していた。滝村先生は、
「おい、もう少ししてから来いよ、せっかく晴美といちゃついてたのによ」
と俺にいった。
「すみません」
と俺は素直に謝った。滝村先生には絶対服従なのだ。劇団には連絡をしておいた、と俺はいった。滝村先生は、それには感心もなさそうに頷く。
「さすがだな、晴美。俺の気に入りのお茶をわかってる」
滝村先生はペットボトルをかざしながらいった。
「わたしが買ってくるものは、みんな気に入ってくれるんでしょ」
なんだかなあ、とふたりのやり取りを俺はぼうっと見ているだけだった。
「しばらくは安静だな。ガキどもをしつけてたら、血圧があがってまた倒れちまうから」
劇団養成所の授業のことらしい。
「そんなこといわないでよ、先生」
甘えた声で晴美がいう。親子、というよりこれでは恋人同士だ。
「まあしょうがねえや。おい、境、あれどうした、あれ」
「あれ、ですか?」
「演劇センター」
俺は、いまみんなで発表会をしようとしている、と報告した。メンバーはやる気があり、回を追うごとに良くなっている、と。
「そうかそうか」
滝村先生は少し首を動かした。
「お前、市民文化祭もそのままやれや」
滝村先生は、晴美が買ってきたペットボトルの緑茶を一口飲んでいった。
「難解なのはやめとけ、お前頭でっかちで小難しいのやりたがるけどな、一応文化祭だから、暇な主婦が教養付けに、なんてのこのこやってきそうなやつを選べよ」
あいかわらずな口の悪さだ。そんなことよりも、俺は呆気にとられ、どうしたらいいのかわからなくなってしまい、黙った。
「あれやりなよ、やりたがってたじゃない『血の婚礼』」
晴美がいった。
「ちょっと待てよ、そんな……」
俺が慌てていると、
「ロルカか……、まあいいんじゃねえか」
と滝村先生が晴美に頷いた。さっき小難しいのやるな、といった口でなにをいう。俺がいったら絶対に怒るくせに、晴美の提案となればこれだ。
「おじいちゃん、元気?」
そういって、のぞみが花を持って、小さい男の子を連れてやってきた。
「今日はにぎやかだな、おい」
滝村先生が笑ってふたりを迎えた。
「久義、ちょっと待っててね、花活けてくるから」
のぞみが出て行った。
「ひさよしくん……」
晴美は男の子を覗き込んだ。滝村久博……久義?
「俺の子だ」
滝村先生がさらりといった。
「ええっ!」
俺と晴美は驚いて声を張り上げた。周りのベッドから、騒々しさに対する抗議の咳払いが起きた。
「嘘だ。信じるなよ。のぞみはな、俺の最後の恋人だな」
と滝村先生は格好つけていった。本気なのか冗談なのかわからなかった。
「晴美とのぞみ、今の女と昔の女がはちあわせるなんて、ぞくぞくするねえ」
滝村先生は笑いをこらえている。
久義くんはというと、ちょこんと椅子に座って、大人たちが騒いでいるのを楽しそうに眺めていた。
「この子にな、菓子を食わせてやりたくて意地になって家まで帰ったんだがな、渡したら力尽きた」
東京ばな奈のことだろう。空港で買ったと思われる。
「中国はな、良かったぞ。懐かしいやつにも会えた」
滝村先生はいった。その目の先に、大陸をみていた。
「もう最後かもしれないからな」
「そんなこと……いわないでよ」
晴美が先生の手をさする。
「おい、これに電話番号入れてくれ」
と滝村先生は俺に携帯電話を渡した。
「電源を切るな、って息子にいわれちまった。だったら最新のやつに換えろ、っていったんだがな、若い奴らが持ってる板みたいな電話にしてくれ、って」
スマホのことらしい。俺が携帯電話に自分の番号を入力していると、
「死んだら持ってたって電話できねえよなあ」
滝村先生は苦笑いした。
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