セリフは大きく、はっきりと!

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セリフは大きく、はっきりと!

 朝からあいにくの雨だった。夕景をバックに本番を行うはずだったが、さすがに天気までは演出できない。  俺は劇団で黒布を借りた。濡らさないようにゴミ袋をかけた。リュックを背負い、大荷物を抱える俺の姿を見て、夜逃げでもするみたいね、と事務所のおばちゃんは笑った。 「綺麗に戻しますから、内緒で」  俺はいった。音を立てないようにして事務所から出ると、奥にある階段のほうから、先輩? という声がした、面倒なのに見つかった。井上が駆け寄ってきた。お前研究生じゃないんだからうろうろしてんなよ。 「ん、もう出るとこ。じゃあな」  さっさとずらかろう。 「僕もです、一緒に帰りましょう」  これはまずいことになった。雨のなか、ゴミ袋を抱えながら井上と並んで歩いた。ご丁寧に井上が傘をさしてくれる。 「ところでザツグロ、何に使うんですか」 「いまから、市民劇団の発表会なんだよ」  ええ! と井上は大声をあげた。俺はしっ! と人差し指を井上の唇の前にかざした。 「今から? 何時に、どこでですか」  井上が質問を浴びせてきた。 「いや、市民会館って、よくあるだろ、公共施設。そこで、ちょっとね」  なんとかはぐらかしたい。 「なんで教えてくれなかったんですか」 「そんなたいした……」  たいしたもんじゃない、といいそうになって、俺は口をつぐんだ。たいした、みごとな芝居をいまからかますのだ。 「忙しいかなと思って」  適当に俺はごまかした。 「僕もいっていいですか」  来てほしくなかったが、いたしかたない。 「だったら舞台作るの手伝ってくれ」  今日くらいは先輩風を吹かせても、罰はあたらないはずだ。 「じゃあ、若い子たちも呼びますよ」 「そこまで大袈裟には……」  劇団員に見られるのはさすがに困る。俺の限りなくゼロの威厳が、余計下がるかもしれない。やっぱり、俺には自信が足りない。 「研修生の子でね、やる気のある子がいるんですけどね、その子に声かけて、来れる奴いたらくるように呼びかけますよ」  井上はスマホをとりだした。  ついに研修生に俺の素性がばれるのか。大道具のお兄さんから、演出家への華麗なる転身、となるだろうか。  会館につき、教室に入ると、晴美がストレッチをしていた。 「晴美さん!」  井上がいきなり笑顔になった。晴美はというと、どうも、とすました顔で会釈した。 「晴美さんも出るんですか」 「どうでしょうねえ」  素っ気なく晴美はいった。 「うわあ、楽しみだなあ」  井上らしからぬテンションだ。声がうわずっていた。 「悪いんだけど、そういうの終わってからにしてもらえない?」  突き放した物言いだった。久しぶりの舞台で集中しようとしているんだろう。目がマジだ。全身殺気だっている。  すみません、と井上は謝り、俺と一緒に舞台作りを始めた。 「なんで教えてくれなかったんですか」  井上は手伝いながら俺にいった。 「楽しみだなあ、先輩の演出で、晴美さんが出るなんて、夫婦共作じゃないですか」  俺は、しっ! と井上を睨む。俺と晴美のことは、この市民劇団では内緒なのだ。 「俺たちはもう付き合っていない」  まわりを気にしながら、俺はいった。 「そうなんですか」  井上は神妙な顔をした。。 「僕が知っている限りでも、百回以上やってますよね」  そこまではやっていない。  平嶋さん降板後の稽古で、俺は晴美を皆に紹介した。 「境さんにお話を伺って、ぜひ参加したいと思いました。どうぞよろしくお願いします」  晴美は派手な顔をしているので、三浦さんと和田くんは、嬉しそうだった。麗奈は男たちの態度に少々不満げだった。 「真紀役で入っていただきます」  俺はいった。 「平嶋さんは、どうしたんですか」  気まずい質問をするのは、空気の読めない和田だ。 「しばらくお休みされるそうです」  俺は答えた。  全員が絶句した。晴美は完璧に演じきり、平嶋さんにつけていた動きまでやってのけたのだ。 「篠原さん、ここにいらっしゃる前に稽古されてたんですか」  麗奈が訊いた。 「以前、やったことがあったんで、雰囲気はつかんでいたんです。境先生に、事前に教えていただいたので」  晴美は謙遜した。稽古前日、恐ろしい形相で、俺がつけた動きに対してけちをつけ、納得のいく説明をしろと凄んだのだった。 「ここのシーン、こうしてみると面白いわね」  などといって、別の所作をしてみせた。 「わあ、面白い、それ」  麗奈の心をがっちり掴んだ晴美は、先生、どう思いますか、と俺に笑顔で訊ねた。 「いいんじゃないですかねえ、それ」  と答える俺をみて晴美の口元が緩んだ。有無をいわさぬ雰囲気だ。晴美は全員の心を、登場して数十分で虜にしてしまったのだった。 「まあ、観てみてよ。面白いから」  簡易の舞台セットが出来た。窓際に長机を二段にし、黒布で覆った。出入り口を作り、うまくいけば、西日の光がさっと射す、はずだったが、こればかりは致し方ない。  隣の部屋を仕切るパネルを窓側一枚分外し、隣の部屋が楽屋代わりだ。  井上も加わって、全員でピアノを四階まで運び込み、完成した。  出演者たちが、出来上がった簡易舞台を観て、大はしゃぎした。  そんななか、部屋の隅で暗い顔をしている人がいた。片岡さつきさんである。さつきさんは念仏のように同じ言葉をいい続けていた。 「あの方は……」  井上が俺に耳打ちした。 「ん。あんまり気にしないでいて」  俺はなんでもないように答えた。  昨日、通し稽古を見学しに片岡さんがやってきた。皆さん立派ですねえ、なんていいながら、楽しそうに眺めていた。 「お茶どうぞ」  そういって片岡さんは皆にお茶を淹れて振る舞ってくれた。 「お茶淹れるのがうまいんですねえ」  感心した顔で、OLと女優の二足のわらじを履くこととなった晴美はいった。 「本番も飲みたいわ」  麗奈たちも頷いた。 「いいですよ」  片岡さんは嬉しそうに笑った。 「じゃ、女中さん役、決定ね」  晴美はいった。全員が歓声をあげた。なにをいっているのかわからず、片岡さんは、え、なに、と慌てた。晴美が俺に目配せする。俺は咳払いをして、いった。 「舞台、出てください」  片岡さんは絶句した。  ちょっとしゃべるだけの役なのだが、片岡さんは心配でたまらないらしく、なにかあるたびに、セリフをぶつぶつしゃべっている。  開演一時間前となった。 「では、よろしくお願いします」  俺はいった。 「他にもっとなんかいってくれないんですか」  麗奈がいった。 「えーと、じゃあ、セリフは大きく、はっきりといいましょう」  そういうと、晴美が爆笑した。 「境先生、パクリはよくないですよ、パクリは」 「パクリなんですか」  和田がすかさず訊いた。 「滝村先生のパクリです、それ」  俺は頭を掻いて、そしていった。 「セリフは大きく、はっきりと、楽しみましょう」
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