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稽古
七月、発表会を終えてから、メンバーはすっかりやる気になっていた。
平嶋さんもトレーニングだけ、と顔を出し始め、吉田と片岡さんも参加するようになった。いきなり賑やかになった。
なぜ市民演劇センターから吉田が離れたのかを知らないメンバーは、吉田をすんなり受け入れた。知っていたとしても、彼らにとっては関係ないのかもしれない。来るもの拒まず。気のいい人たちなのだ。
吉田は真剣だった。だがセリフを読ませてみるとどうしてもかっこつける。もっと素直にやったほうがいいのに、と見ていて思った。台本を読み込んで、こうしようああしようと考えるのはよいことだ。というよりしなくてはならないことだ。しかし実際に立ち、相手とやりとりをするときには、その思惑はあくまで空想でしかない。目の前にいるやつもまた、企みを持っている。お互いの考えや、整理をすりあわせることが重要だ。
俺は「うまく読もうとするな」といった。人によく見られたい、という思いは、さまたげになる。
「うまくやろうとすると、そればかりが気になって、周りのみんながなにをしようとしているか、見渡すことができなくなるんだよ」
これはなかなか難しい、と俺は少し困っていた。吉田も、いままで演技をしてきた自負心があるのだろう。他の始めたばかりのメンバーとは違うと思っているのかもしれない。そんなものは関係ない。役者を長く続けるためには、自分の「思い込み」をどんどんはずしていくことだけだ。手放すこと、それだけなのに、いちばん厄介だ。
「吉田くん、地べたにすわって」
俺はいった。
吉田はわけがわからない、といった顔をしながら、床にあぐらをかく。
「麗奈は吉田くんと背中をくっつけて座って」
「はい」
キモい、といいだすかな、と思ったが、麗奈はすんなり吉田と背中を合わせた。和田が険しい顔をしているのを俺は無視した。
「相手が自分のセリフをどう聴いているか、背中で感じてください。ゆっくりでいいから、自分がいえると思ったとき、次のセリフをいって」
大きく深呼吸を麗奈がした。吉田はというと、顔がこわばっている。
「『おい、散歩でもして見るか。』」
吉田がいった。相手にいっていない。見ている俺たちにしゃべっている。しばらくの沈黙のあとで、麗奈が口をひらく。
「『いゝから、川上さんとこへ行ってらっしゃいよ』」
「『是非行かなくつてもいゝんだよ。』」
すぐに吉田が返す。相手の言葉尻しか聴いていない。相手がしゃべっているあいだ、自分がいついうかばかり伺っている。
「『あたしは、思ひ立つた時すぐでなければいやなの。』」
「『散歩か。』」
「『散歩でもなんでも!』」
麗奈が叫んだ。皆がびっくりする。台本では『散歩でもなんでも……。』と続くのだ。吉田はなにかに気付いたらしい。目が変わった。ト書きに書かれている、間。
「『散歩でもなんでもつたつて、ほかに何かすることがあるかい。』」
激しい麗奈を、なんとかなだめようとする。一対一の関係が浮かび上がった。
「『ないから、それでいゝぢゃないの。』」
吉田はどう返すのか。時間だけが流れる。ほとんど言葉にならないようなためいきの、あ、が吉田の口から出た。
「『川上さんのとこへいらしつたらどう、そんなこと云ってないで。』」
麗奈は挑戦的だ。面白い。
「『もう行きたくないよ。』」
吉田は観念したような口ぶりだ。
「『行ってらつしやいよ、ね。』」
「『行かないよ! お前のそばにゐたいんだよ! わからない奴だなあ!』」
今度は吉田がキレ返した。麗奈はにやにやしながら、
「『わかってますよ、憚りさま。』」
といった。俺は止めた。
「どう?」
呆然としている吉田に俺は訊ねた。
「いや、あの……なにがなんだか」
「たしかに岸田國士の書いた作品のイメージとは違うけど、全然よかったよ。最後、きちんと麗奈の言葉を受けていた」
「先生、わたし、前に平嶋さんがぐわーっときたっていってたの、わかった気がします」
麗奈がいった。
「こう読もう、と考えて、きちんといおうとするのも大事だけど、相手役と『いま・ここ』で起きていることを大事にすることも、大事なんだ」
やりとりを見ていたメンバーも真剣な表情だった。
「次は」
周りを見回すと和田がおそるおそる手を挙げた。
「じゃあ和田くんと片岡さんで」
和田が麗奈とペアでないことにがっかりしているのは、知らないふりをした。
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