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図書室
自分の為に用意された個室に戻ったネッド少年とコンセイユ。今までの人生ならば、今頃は銛を手に取り海で魚を獲って調理をしていただろう。だが、ノーチラス号に乗せられてからはネモ船長たちの許可がなければ外へ出ることも許されない。心を癒す音楽や新たな発見があることが唯一の救いである。少年は机に向かい、船内での出来事を日記に綴った。
「あの海藻の名前は何だったかな」
先日ネモ船長に教えてもらった、ボウル型の葉をしている海藻の名前が思い出せない。船長に訊きに行きたいが、ノーチラス号が『船長は忙しい』と声をかけてきたので、諦めるしかなかった。
せめて、名前を調べる為の図鑑でもあれば。
「そうだ、図書室なら図鑑があるかもしれないぞ」
名案を思いついた少年は、早速日記を手に、個室のドアを開け長い長い鋼鉄の廊下を駆け足で進んだ。遅れをとったコンセイユ。必死に床を這い、ネッド少年のあとを追いかけた。
螺旋階段を降りた先、サロンの向かいの部屋が図書室だ。ドアの縁には金の装飾が施されている。ノブを回しドアを開け放つと、古い本の良い香りがする。プディングやシフォンケーキのようなお菓子に近い甘い香りだ。壁一面、几帳面にアルファベット順に並べられた本たちは様々な言語で書かれている。大きさや分厚さもそれぞれ違うが、そこに趣を感じさせる。ここは地上なのか、それとも…
見上げると、天井に海月のような電燈がゆらゆら揺れていた。ネッド少年は海藻の載っている図鑑を背表紙から探し出す。
『海藻の種類』
おそらくこれであろう。少年は大きく古い図鑑を取り出すと、近くの書斎机に日記とともに広げ椅子に座る。遅れてたどり着いたコンセイユが膝の上に飛び乗り、尾を揺らしながら少年の視線の先に目をやった。硬い表紙を開き一枚ページをめくる。『アイヤクソウ』から始まる目次が書かれていた。少年は海藻の形しか覚えていないので、名前からではなく一枚ずつ絵を確認して調べるしかなかった。
「これは、違う。これも」
ページをめくる度に、写実的な絵に目を奪われた。まるで、そのまま押し花のように貼り付けてあるかのように描かれた海藻たち。絵の横に名前と特徴、分布が添えられている。
「あった!『ワンガサ』だ」
東洋の島国、ジテングの椀と傘に似ていることから名付けられたらしい。10㎝から30㎝の大きさだ。日記の続きを書こうとワンガサの特徴の続きを読む。
『分布:アニマ近海、インテガ海底、海底都市アトランティス』
海底都市アトランティスだって?聞き覚えのある言葉にネッド少年は目を丸くした。アトランティスといえば、古代に地上から姿を消した幻の都市だ。高度な文明を持ち、魔法のような科学を中心に栄えたと言われる都の場所が著者には分かっているのだろう。著者は誰であろう。最後のページの奥付に目を通した。
『ネモ・ 』
ミドルネームが白いインクで消されている。見たことのある名前を、親しみやすい名称で口に出してみた。
「ネモ船長?」
「そうだ」
図書室の入り口に立つ男。彼こそがこの本の著者であると言うのか。コンセイユは少年の膝から降り、ネモ船長の前に止まると右のヒレを差し出す。
「ぴい!」
そう、握手を求めているのだ。船長はしゃがみ、右手を差し出しヒレに合わせて振る。彼を抱き上げ、少年の隣に立つ船長。
「ネモ船長、アトランティスを知っているのですか?」
「ああ、有名なお伽話であるからな」
「でも、あなたが書かれた本なんですよね。ここに書いてある『海底都市アトランティス』は嘘なのですか?」
ワンガサのページに書かれているその文字を指差す。後ろで腕を組んだまま興味深そうに覗き込むネモ船長の顔を、コンセイユは下から見つめていた。
「ふむ、この図鑑にあることは事実だ」
「ということは、アトランティスはあるんですね!」
船長は無言で頷く。胸を踊らせ、日記に書き加える。『海底都市アトランティスは存在する!』と。なんと嬉しいことであろうか!様々な学者の探し求めた海底都市が実在しているとは!まだこの目で見たことはないが、あのネモ船長のことだ。海に関することで嘘はつかないはずである。
「いつか見に行ってみたいです」
船長に希望を申してみた。行かなくても、無理でも探してやる。少年は色んな思考を巡らせていた。
「いつか辿り着く。見るだけでなく歩くのも良いだろう」
その話を聞くに、船長は見たことも、歩いたこともあるようだった。どのような場所なのだろう。きっと美しくて、素晴らしいのだろうな。
「ぴい」
上の空であったネッド少年が跳ね上がる。コンセイユはネモ船長の腕から降ろしてもらい、机の上に乗っていた。両手の空いた船長は、壁の本棚から数冊本を取り出し、少年の前に差し出す。
「アトランティスに関する本だ。地上で書かれたものもあれば、ここで書かれたものもある。好きなものを差し上げよう」
一冊一冊、表紙を見た。『海底都市はあるのか?』と書かれたフランカ語の本。『アトランティスはジテング』と書かれたステニック語の本。他にも様々な言語の本が並ぶが、ネッド少年はある一冊の本に目を奪われた。
『Atlantido ekzistas』
読めない文字が表紙に並ぶ。中身をパラパラとめくると、やはり読めない。
「その本には重要なことがたくさん書かれているぞ。私が書いたものだからな」
小さく笑ったネモ船長に膨れっ面のネッド少年。少年は「やってやろうじゃないか!」と、読めない文字の本を奪うように受け取った。
ネモ船長は満足したように図書室から退室した。少年とコンセイユはというと、文面とにらめっこをしているのだ。
「ぴい…」
「そうだよね、コンセイユにも分からないよね」
ため息をつき、個室へ戻る準備をしようと本を閉じる。そのとき、紙が一枚、ページの隙間からはらはらと空気を漂い、落ちた。紙は茶色に変色している。
紙をよく見てみる。裏側が絵になっているようだ。真ん中の男が、赤ん坊を抱いて笑っている。男は父親なのだろう。幸せそうだ。ただ、その父親に見覚えがある。前髪が長く、右目を隠し、顎髭を生やしている男。
「ネモ、船長…?」
疑念は晴れるどころか、さらに靄を濃くする。
少年は絵をズボンのポケットに仕舞い、個室で悩むことにした。
ベッドの上でくつろいでいるうちに眠るとも知らず。
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